七世 竹本住太夫


切場前半、入れ事を省き詞章を正して丸本通り、会(くわい)の音と言い、後々の手本となる語り。
三味線は、とりわけ冒頭鳥辺山が貧なる稽古屋の師匠と弟子の掛合として出来、
しかも弟子の上達を確認しながら替え手や装飾音を増やすという、これまで聞いたことのない奏演で、これまた後世にその音を残すもの。
観客はもちろん幕内もしっかりと耳に止めておくべき、住大夫師と錦糸による床であった(ツレの龍爾もよく付いていった)。
(『近頃河原達引』「堀川猿廻し」平成廿六年一月公演)


切場、住師に錦糸はもはや確定事項である。
これまでは、お辰の胆力と三婦の心情に感銘を受けてきたが、今回もそこは当然ながら、
徳兵衛を心底愛している女房のお辰としての女心、そこに強く印象付けられた。
確かに、お辰の心意気は驚くべきものであるが、それはいわば突っ張っていれば何とか保てるものでもある。
それに比して、
恋女房としても常に美しくありたいと願う心(任侠の女が美に対して如何にこだわりを持っているかは、近年の映画を見ても一目瞭然であろう)を垣間見せることは、
あってはならないことであろう。
お辰の詞のうち、立つの立たぬのは前者に属するものであり、「親の生みつけた満足な顔へ」以下こそ、後者が思わず漏れ出たものなのである。
「我が手にした事」から笑いに紛らして「一間へこそは連れて行く」のフシ落までに、美しくも切ない哀感ゆえの涙を湛えたことは、今回が初めてではなかったか。
それはまた、登場してすぐの詞「女房の思ふ様にもない」以下で、お辰の心情をきちんと捉え描き出していればこそだったのである。
今回、それらが重点的に語られていたわけではない。
サラサラと三味線ともども進んでいたものである。
粘り気は看経の念仏から後であり、ここは例によって客席も即座に反応をしていた。
ともかく、これでようやく三婦とお梶と同じ心持ちの涙を流すことができたわけで、
この切場評釈もこれにて卒業させてもらえるのではないかと思う次第である。
(『夏祭浪花鑑』「釣船三婦内」 平成廿二年七・八月公演)


七世竹本住太夫文化勲章受章者の業績については、
正当な肩書きを有する方々が各紙(誌)において、
情を以てその絶頂期の芸を記されるであろうから、
ここでは最晩年の劇評二点を転載するに止めおく。

公演記録映画会で聞いた文字太夫時代の二品、
「一味斎屋敷」(『彦山権現誓助剣』)、
「春日村」(『競伊勢物語』)、
いずれも十世竹沢弥七が弾いており、
そこには三味線が太夫を育て上げるという理想が現実化していた。
後者など『浄瑠璃素人講釈』中の記述、
「大掾の語つた時に、
『アレかゝさんあんな事云ふてじやわいな、サヽよいわいの』と云つた時は、
見物は皆顔見合せた事が、今に残つて居る。」
が、私自身のこととして再現されもしたのであった。
正格な芸の伝承がここにはあった。


平成の終焉、
その死を以て一時代が画されたことは確かである。