四世 竹本相生大夫


・詞の動く相生は面白い(「火焔山より芭蕉洞」『西遊記』平成六年七・八月公演)

・相生・燕二郎や人形陣も淡々としかも哀感ある描出。
 「胸に八色の雲閉づる」との段切りの詞章は活かされたと言って良い。
 ここもまたいい仕事の手本であった。(「岩木忠太兵衛屋敷」『鑓の権三重帷子』平成七年七・八月公演)

・この「隣柿の木」も相生ならではそうたやすくは勤まるまい。
 まず唄で始まって母子の対話に木綿買いの一癖ある軽口、
 信田庄司とその妻の老夫婦の会話、そして葛の葉姫と保名。(「狐別れ」『芦屋道満大内鑑』平成八年四月公演)

・相生の代役は宿祢太郎と土師兵衛は大丈夫だろうが女三人はどうもと不安であったのだが、
 公演前半からまずまずで後半に至ってこれは代役以上に本役としても上出来の部類に属するほどではないかと聴いたのである。
 さすがは相生、これぞ年輪のなせる技か。
 声柄からして「東天紅」は割り振られてもこの「杖折檻」は一生語る機会もないであろうのに、
 浄瑠璃世界に属する人とは怖ろしい芸力の持ち主であるなあと改めて身震いしたのであった。
 まず立田の前が抜群にいい。
 同じ覚寿の娘で苅屋姫の姉とはいえ、宿祢太郎を婿として地侍と平たい日常会話を交わす立場。
 その世話具合と世間慣れの塩梅が絶妙の詞遣いで語り出される。
 相生得意の写実主義はこの立田の前に新境地を開いた。
 覚寿は年齢出自相応の格があってまずは無難。
 例の「アヽ結構な親持つた持つた持つたと目に持つた涙の限り声限り」の所、
 公演後半には情愛の幅が出て思わず聴き入るほどにまで仕上げたのには驚いた。(「杖折檻」『菅原伝授手習鑑』平成八年十一月公演)

・昔なら追い出し付け物といった役どころ、あとは切語りへの昇進あるのみ。
 相生清友の壷坂なら大体想像がつく、ところがはずれた。
 この沢市は普通ではない。
 「生まれついたる正直の」その「正直」の描出が工夫されていた。
 人形浄瑠璃において正直者という性格が付与される者はといえばだいたいが愚直者となっている。
 又平首に代表される吃又や与次郎らである。
 ユーモラスで小心者でかつ父母兄弟妻子思いの憎めない男ということになる。
 この沢市は若男首だから違うというのではない。
 現に「山の段」になってからは詞章の上でもそこここにその典型的正直者の類型化が見受けられる。
 ところが今回相生は愚直者でなく真っ正面から考え込み突き詰めるタイプの人物として沢市を造形した。
 いわば近代人としての沢市を写実的に表現したと言えばいいか。
 その試みは公演後半の感情が乗ってきた語り込まれたものを聴いてみると、
 明治期の作品に図らずも存在する近代性を引き出して見せた手柄を誉め称えてもよいのではなかろうか。
 「夢が浮き世か浮き世が夢か」の唄も現実の虚構化虚構の現実化という現代社会を貫く大問題とも関連あるかと捉え得るし、
 そうなると、観音による救済も単にめでたい絵空事と笑っては済まされないことになってくる。
 それほど相生の語る沢市の詞はこちらの胸に当たったし、
 「見えぬこの目は枯れたる木。アヽどうぞ花が咲かしたいな。と云ふたところが、罪の深いこの身の上。せめて未来を」のところなど、
 この世に生を受けたものが一方的に付与された状況設定の中で生きていくことの意味を訴えかけて、
 聴く者に同情でも哀れみでもなく、深い共感を覚えさせたのであった。
 そしてその沢市と人生を共にしようとするお里のクドキも、
 貞女の誉れではなく別々に生を受けた人間同士が人生の時空間を共有していこうとする、
 その普段何気なく当然のように思って見過ごしているところを鮮やかに提示したのであった。
 明治期の作品を近代の視点から捉え直す試み、
 相生清友のコンビはひょっとしてとんでもない課題を与えてくれたのかもしれない。(「沢市内」『壷坂観音霊験記』平成九年正月公演)

・佳品。床の相生大夫喜左衛門がきちんと自分の仕事をしたからで、称賛に値する。
 それは若葉の内侍のクドキに客席が共感していたことや、
 五人組の出からは相生得意の語りと動きで観客を掴んでいたことからも証言できよう。
 今回この立端場奥の成功は一服の清涼剤。
 浄瑠璃にあたって気分が悪くなるところを救われた助かったという感じである。(「小金吾討死」『義経千本桜』平成九年四月公演)

・相生の義平次などはますます写実がかって自家薬篭中のもの。(「長町裏」『夏祭浪花鑑』平成九年七・八月公演)

・伴僧と渚の方とのやりとりが素晴らしかったのは予想通り。
 相生喜左衛門の功。
 しかもマクラからの大寺院東大寺の風格描写が的確で、「よそながら伺い見れど厳かに寄りつくことも浅ましき」など見事であった。
 これでこそ次の「わが身のさまに気遅れし、思案も出づる涙さへ、胸にせまりてゐたりける」が真実になるのである。
 ここでも団平の曲節の見事なこと。
 そしてそれを再現する確かな技。
 熟練の域。(「東大寺」『良弁杉由来』平成十年正月公演)
 

・さて、実は今回書かねばならぬのは代役を勤めた相生大夫の浄瑠璃についてである。
 奥方と籬の掛け合いからおやと思い初め、
 籬の言上、兵衛の窘めと聴く内にいつのまにやら引き込まれ(別にどこをどう感動したとも明確には言えないのだが)、
 使者刎川の詞に正しく真に反応する兵衛夫婦の描写、
 そしてとうとう伊賀守の左衛門への詞となるや涙がこみ上げて、
 その鋭い詞に含まれ隠された衷心情愛の前にもうお手上げの状態となったのである。
 そして伊賀守と兵衛のやりとり。
 子を思う親心だけではない、武士と武士との真実心を知りうるもの同士の崇高さ、相生の大成功であった。
 「お指図でござるもの。フン討たいでは」を筆頭に見事見事至極上上吉。
 そして兵衛の「ハテサテ」から「今日までの心苦しさ」「笑ひというものとんと忘れた」の詞の真実味。
 大落トシに相当するものとしては涙あり滋味あり心あり。
 相生の「三人笑い」どこがどう不足だと言えようか。
 私は今回つくづく感心した。
 正真正銘文字どおり参りました、
 というよりまた今日も二時間近くかけて劇場に足を運んだ甲斐あって本当によかった、と思えたことが何よりの喜びであった。
 またこれでカタルシスがもたらされた。
 そして今度も劇場に足を運ぶだろう。
 劇評のためではなく自分の精神浄化のために。
 「いやあ浄瑠璃って本当にいいもんですね!!!」と。
 「杖折檻」の代役成功は当然としても、
 この薄雪蔭腹をこうも見事に語り活かすとなると、相生もいよいよ切語りの資格十分ということだろうか。
 成程、声がよくとも、音遣いがうまくとも、奥まで届いても、
 浄瑠璃一段の骨格と本質をムズとつかんで人物を語り活かせなければどうにもならないこと、
 それ故にかえって小音悪声の大夫の方が聴く者の心底に到達できること、
 この芸談では読み飽きた文句が今改めて実感されようとは。
 相生大夫。今の人形浄瑠璃になくてはならぬ人である。(「園部兵衛屋敷」『新薄雪物語』平成十年四月公演)

・相生の持ち場、言うことはない。
 百姓与市兵衛の描出もさることながら、定九郎がよい。
 心底まで冷徹なぞっとする表現を詞の端々に感じさせるのは、さすがに練られた語り口である。
 立端場の雄、これだからこそ通し狂言は面白い。(「二つ玉」『仮名手本忠臣蔵』平成十年十一月公演)

・九大夫の相生はお手の物。謎掛けを省いたのは真意は?(「茶屋場」同上)

以上は劇評から抜粋したものです。

最後となった「二つ玉」の表現とは、死の向こう側まで見抜いていたからこそ可能だったのかもしれません。
「茶屋場」謎掛けは当意即妙実に面白いものばかりでしたが、最後の時はさすがに無理が利かなかったのだろうとも思われます。
それとも閻魔大王を相手にやる時のためにネタを取って置いたのかもしれませんが。

巧みな入れ事の例には事欠きませんが、かつて『西遊記』の「釜煮」で「通力自在の吉田簑助」とやってのけたのには大爆笑しました。
なるほど孫悟空といえども人形は人形ですし、それを掌上自由自在に操る人形遣いこそ釈迦そのものに違いはないのですから。

ともかく何を語っても面白く、いつの間にかその浄瑠璃世界に引き込まれているということがたびたびでした。
「築地」『菅原』や「太宰館」『妹背山』など、大作の通し狂言での隠れた重要ポイントを見事に語って聴かせていたことも忘れられません。

酒屋の端場も傑作でした。丁稚長吉に半兵衛夫婦とそれはもう絶妙でありました。
そして何より「お遣ひ物なら相生がよからふ」のところでいつも客席がドッと来てました。
床でも楽しそうに語っておられた様子が目に浮かびます。
「相生とは目出たい銘酒」まさにその通りでした。それも文楽酒造株式会社のね。

代役の成功は斯界にあっては真の実力を見分ける鏡に他なりません。
代役といえば後にも先にも「宝引」が最高傑作でしたでしょう。
百姓共の詞には思わず声を出して笑ってしまいました。
これなどは明らかに本役の太夫を喰ったといえる出来でした。
平成十二年一月の通し狂言では当然本役でしたでしょうに…