「高房館」
不要。発端としての婚礼云々などこの後の展開に何等必要ない。贋迎えの趣向も次の段で、「贋迎えと気付かず、まんまと策にはまるとは、おろかなり源次綱。」とかなんとか正体を現せば済むことだ。与勘平の首で儲かることもない。
「戻り橋」
冒頭で三の君の婚礼の行列を守る頼光の四天王渡辺綱とかなんとか付け加えて、この段から開幕すればよい。雷鳴電光はアコースティックにすること。最後、人形遣いに面をかぶせての宙乗りはやめさせよ。歌舞伎役者然として人形を遣うよりもよっぽど面白く格好良く見えた。鬼の声も大夫に語らせること。つまらぬ所で下手な音響効果を使うのはかえってマイナスである。古風でよいのだ。その方が子供たちにとってはずいぶんと妖しく不可思議なのだから。それと幕の雲形に電光による流れも不要。そんな姑息な手段を使わなくても、子供たちは情景を理解している。
「綱屋敷」
原作ではここが前半の切場なのだろうが、重くてだるくてやってられない。ここも不要。「戻り橋」で茨木童子と名乗らせれば済むことだ。言っておくが「屋体崩し」は全然受けていなかったぞ。屋根の上での対決の場面にするために道具方が家の柱をはずしたとしか見えなかったのだ。「戻り橋」で立ち回りを見せてまたここでも立ち回り。さすがに子供の感性は鋭い。またかと感じてさほども面白がってはいなかった。腕を取り返すことも不要。後の「大蜘蛛退治」で片腕の正体がばれてあの時の茨木童子だったのかと客席も思い出すネタ仕込みにしておく方が数倍面白かろう。というわけで、この段もカット。切り取った手を安倍清明に見てもらい大江山へとつなげればよい。
相生団六御両人にはまことに御愁傷様と申し上げたい。燻銀の浄瑠璃も紋下格の三味線も活きることも理解されることもなかった。
「頼光邸」
ここもカットしてよい。どうせ水晶の玉に姿が映るというだけが取り柄の場である。何度も言うようにこんな仕掛けに感心するようなお子さまたちではない。この段は次の「山入り」とセットにして「清明邸より山入りの段」とし、開幕早々旅支度を整えた頼光一行が山伏姿で居並んで見つめる前で安倍清明が祈りの儀式を初めている。その結果水晶に大江山と判明し、一行は清明の超能力によって一飛びに大江山へ到着する。ここは、清明を奈落へやり、大道具の背景一斉返しを用いればよい。見所も増えると言うわけだ。前段までの綱が頼光の家臣であり、その他四天王がいて、綱は童子を逃がし姫を取られた雪辱を主人頼光とともに果たそうと望んでいる、云々の説明を、清明の祈りの儀式の間に語っておけばよかろう。それから、安倍清明はあんな爺ではいけない。御存知なかろうが、清明は十代から二十代にかけての女性の間では大人気のキャラクターなのである。ハンサムでクールな彼を主人公にしたコミックが着実にファン層を広げており、加えて夢枕獏の脚本でのコミックも好評と、それはもうあこがれの人物なのである。ひょっとして今回の女子観客の中でもパンフレットに安倍清明が出ているのを見て、ひそかにワクワクしていた子が少なからず存在したにちがいない。(そもそも人形浄瑠璃を親の薦めでもいやいやでも見に行こうという女子は体育会系ではなく文系の読書(コミック)大好き少女が大部分だろう)ああそれなのに、それなのに。もちろん時代考証でいうとその年齢なのであろうが、ここは動きの源太の首で開幕から独り舞台でその超能力者振りを発揮させてやりたいものである。ポルターガイスト風に家財道具を空中浮揚空中異動させても面白かろう。小さい人形で式神を使うという手もあるのだ。
千歳宗助はさすがに頼光や清明の気品位を十分弁えてやっていたが、これも観客の誰にも応えてはおらず骨折り損であった。
「山入り」
前述の通り。引き道具の趣向は古典的で面白いから残しておきたい。鬼が城はそれこそ楼門のパロディーで、そうだとすると何とも宣伝上手な近松である。(ドンジョバンニでフィガロの曲を使ったモーツァルトと同じだ!)
「童子対面」
ここは後半の切場。ここも長いが観客の目には童子の人形やら部屋の様子やらが入ってくるからそう退屈はしない。しかも童子が根っからの悪ではないという重要な聞かせどころであるから、ここは、ここだけは、床に耳を傾けてもらうようにしたい。だからよけいに他の段は簡潔にまとめておかないといけないのだ。それはそうなのだが、問題はその童子のクドキ。原作の文章を活かすと今回のように何がなんだか子供たちには理解不能だし(静かに聞いていたじゃないかというのは大きな誤解。11時からここまで付き合わされてさすがに疲れて飽きてきたのと、とりあえずは酒呑童子の人形が動いているから。で可哀想だったのが相生団六、始まったばかりで子供は体力が有り余っているし、場面も人形も地味でどうしようもなかった)、そうかと言って書き換えると近松原作が活きないし、まさしくジレンマであるが、前述の通り近松にこだわるべきではないし、乳より血汐とは何とも同情にも値しないレベルの内容である。ここはやはりわかりやすさを取るべきだ。それから三の君との視線のやりとりでバレてしまって童子が立って怒るところ、何でバレたのか全くわからなかったから、童子が急に怒りだしたのもちんぶんかんぷん。ここも手直しが必要。咲富助なら新曲としての曲付けでも補曲でもこなすだろう。
「大蜘蛛退治」
ここはこれでよいが、とらわれた女たちに国名を名乗らせているのだから、方言を使うとか、各地の有名スポットを混ぜてチャリがかるかしたいところだ。子供向けにしてはここまで笑いがないから。無論涙で名乗らせるのではなく、ああうれしや、これで助かった。家へ帰ったらトキワの森でポケモンをゲットだぜ!とか、助かったと気が緩んで多弁になる女どもをアドリブ入りで描けば面白かろう。そして片手を失ったその姿こそ茨木童子と見破り、危ないところを清明に祈祷してもらった片腕が神の剣と姿を変えて見事に討ち取るという趣向など如何だろうか。
「童子寝所」
まず「暗くて」は「暗うて」とウ音便を使うべき。今やウ音便は関西弁の中にのみ残っている。標準語の撥音便促音便に浸食されて青息吐息。文楽が関西の上方の大阪の伝統だというのなら、ここにこそその真価を見せなくてどうする。必ずウ音便を使わなければならない。それと、源氏の氏神を御幣で宙釣りしても誰一人として感心しないし、あれが神の姿だと一体何人の観客が気付いただろう。宙釣りならここも神の人形そのものが宙乗りで門の真上で神力を発揮し、そして上手へでも下手へでもそのまま飛び去るようにしないと。それができないのならやめてしまうことだ。御幣の宙乗りなど一文の値打ちもない。そしてここの童子の人形は首と胴体とのバランスがはなはだ悪い。見ていて不自然不安定。人形拵えに再考を望む。それから最後、鬼退治で一匹は梨割のカシラをみせてやりたい。つまらぬ新案で子供たちをひきつけるよりも、このような古典的傑作を用いた方が絶対にいい。受けること間違いなし。120%保証する。
以上、この作品は全面改定すれば、夏休み第一部の作として繰り返し上演が可能なものに仕上がるだろう。問題はそれをする勇気があるかどうかだ。責任を持ってやりきれる人物に一任する勇気が国立側にあるのかどうか。京都市は予算まで計上したパリ風架橋の計画を撤回したという。国立とは官僚支配の謂いではないはずだ。わが国のそして人類の誇る芸術芸能として人形浄瑠璃を位置付けているという覚悟の表明であるにちがいないのだから。まずはお手並み拝見といこう。次回再演がもし今回に準ずるものならば、もはや文楽は21世紀に存在不可能であろう。
「船別れ」
まず燕二郎の三味線、冒頭の情感を見事に描き出す。緩やかなテンポとリズム感を保って、夏の夜の海波の気怠い雰囲気を表現した。小松は深雪の詞に本領を発揮する。まさに「思ひ詰めたる娘気の真実見えて可愛らし」の通り。あっぱれ浄瑠璃の詞章と節付けを語り活かす力量かな。もっともそのあとのクドキの地合の聞かせ所は今一つであったが。人形は大船の窓の位置を低くして小舟とのやりとりを易くする工夫。扇の投げ込みにも見せ場を作ったりと、簑助の差配だろう。それはそれでよし。ただ、そのために文字どおり大船の威圧感が減じられてしまったのと、秋月の姫深雪としてはいささか安手に見えたのもまた事実である。しかしここは人形遣いそれぞれの判断にまかせてよかろう。
「笑い薬」
もとより綱大夫のニンではない、が、公演後半には見違えるように自家薬篭中のものにし、悪ノリや局部肥大に走らなくともきっちりツボを押さえれば立派なチャリ場になることを証明して見せた。簑太郎の祐仙も同断。これこそまさしく人形浄瑠璃の王道を行く「笑い薬」だった。前回が前回(あれは芝居か新劇だった)だけに、もしあのやり方が踏襲されていたらどうしようと、不安と心配が先だったのだが、これぞまさしく杞憂であった。さすがに正統的血統派の綱清二郎であり簑太郎である。万歳万歳万歳!
端場の呂勢と代役清志郎は公演後半になって冒頭の描写も冴えてきた。それでも松兵衛が平板で変化に乏しいのはあと一歩。簑太郎は女中とのやりとりをもっと気取ってやるべきだろう。インテリ医者の祐仙は女中など眼中にはなく、相手にはせぬもの。ややコミカルにすぎて奥の祐仙との落差が縮まってしまったのが残念。岩代の玉幸はピッタリ。「岸に曲がれる岩代」の詞章そのままの遣いぶりお見事。
奥は前述の通り。とりわけ祐仙の笑いの所が絶品。どうしても笑いが過ぎてこれでもかこれでもかと続けて行くから、最後には観客の顔も笑えずにひきつってしまうことが多いが、今回は笑いそのものをあっさりと処理し押さえぎみにしたことにより、笑いに至る部分や笑いの大波が去ったあとの部分が必然的に浮かび上がる感じになって大成功であった。やはり浄瑠璃の流れに乗って浄瑠璃を踏み外さずにいて、しかも、桁外れ枠外れの祐仙の笑いを語り弾きそして見せるという、神業離れ技の原点があった。これが大成すると勘十郎であり前綱大夫弥七であるのだが、そこまで望むのは酷であろう。簑太郎は茶を点てるところもさすがに心得ており、形式主義者としての祐仙の一面を活写。引っ込みで引き幕戸口を掴むのも、中学生が多い客席ならばと手を振って見るのも、いずれも舞台の中の登場人物であるはずの祐仙が芝居を抜け出すという禁断の手法を一度だけ見せるものである。勘十郎はこれを客席に顔を向けてニヤリとする究極のシンプルさで見せたが、これは行くところまで行った名人にのみ可能な技。何十年後かの簑太郎(か玉也)に期待したい。やはりもうチャリ首や荒物は簑太郎や玉也にどんどん遣わした方がよい。顔順などそれはそれで難しいこともあろうが、見事に遣っているのだから、これからますます適材適所で伸びていく者を登用すべきである。徳右衛門の文雀はこれこそ最優秀助演男優賞もの。首の性根から始まってピタリと寸分違わず。とりわけ「おかしさ隠すばかりなり」の見事さ。こちらもつい同じ表情になってしまったほどであった。
「宿屋」
住大夫こそ紋下格。正真正銘掛け値もメッキもない極上の切場であった。とりわけ稽古の工夫がそのまま発揮されていた公演前半と朝顔が心残して去って行くまでの部分は、これはもう古靭か山城かと言っても過言ではない受領級の浄瑠璃であった。なるほど芸術院賞に恩賜賞は偽りではないて。感服ただもう恐れ入り奉った。冒頭の旅館寒燈独不眠云々の漢詩の一節も思い出されるかの如き情趣寂寥、張交ぜに往事を偲び、まさしく古語の「ながめ」入る駒沢の描出。「時しもあれ」のカワリの見事さに続いて徳右衛門の出と朝顔の身上を語る衷情衷心、「なんとまあ、不幸せな者もあるものでござります」の一言はそのまま「心にひしひしこたゆる駒沢」。そればかりではなく客席の人々の心に沁み入って思わず涙を湛えたのである。これはあの伝説の初代古靭太夫に関する芸談そのままではないか。芸力は時空を超越する。絶妙のカワリは「解けやらぬ」「前垂かけの下女」にも聞かれた。そして肝心の琴唄は実に「夫を慕ふ音律の、われわれが身にも思ひやられて、思はずも感涙いたした」との駒沢の詞に寸分も違わず。この琴唄、前回嶋大夫では美しいという感じが先にあったが、今回は哀切この上なく、あまりにも純粋透明一筋の深雪の心情が美しさを結晶化してしまい、深い悲しみの光がそのプリズムを通して反射するということだろうか。涙の泉とはよく言ったもの。泉は出づ水の意、奥深いところから不純物を濾過されて溢れ出てくるのである。朝顔のクドキは簑助の独壇場。後ろ振りなど確かにハッとさせられた。客席から手が来るのも自然である。住大夫の浄瑠璃は底に悲哀をもって語り進む。朝顔が去ってからは三味線が先導してタッタと進まなくてはならないが、錦糸にそれを求めるのは今回も無理だった。(オクリからすでに錦糸の三味線は自分勝手な間を作り、一音一音を美しく出すことにのみ気が走り、肝心の浄瑠璃の流れや音楽の動きに乗れない。燕二郎や清二郎とはここが決定的に違う。個性ではなくてクセ・イヤミの類である。早急に改善を望む。半沢仮名沢の人々はくれぐれも真似をしないように!)ここの駒沢と徳右衛門のやりとりは前場と異なりサラサラとすべきであるし、段切りの徳右衛門と朝顔のやりとりなど、やはり速度で狂気や切迫感を出さなければ。「突退け刎退け」「いつかな厭はぬ女の念力」とある詞章が活きないし、観客の生理的にも浄瑠璃構成上もあるいは音楽的観点から見ても。古靭に対しての四世清六はそういう点でもベストだったのだ。彼は浄瑠璃を純粋に音楽として捉えることができていた三味線弾きだったから。そこに気付くことなく一方的に山城を是とする批評家連は、人形浄瑠璃を日本の古典芸能人形芝居の枠の中でしか捉えることができないのである。ここは大胆にいっそのこと跡を千歳大夫あたりに任せて盆を回してもよかったのではないか。寿司の大トロと同じことで、住大夫の至芸はやはりその部分のみをじっくりと味わわせていただきたいものである。それがカタルシスをもたらしてくれるのだから。
人形は玉男の駒沢が引き締まっていてよい。緊迫感がある。そういえばこの作品は全体を通せばお家騒動がらみだったのだ。単なるいい男ではすまされない。「笑い薬」での徳右衛門との以心伝心、岩代との決して心底許さぬ緊張関係など。琴唄に聞き入る不動の姿も絶品。公演のたびに言うことだが気品いや気韻がにじみでる。ワキツレ陣は前述の通り。簑助の朝顔は耳から先に動いてたしかに盲目であった。
「大井川」
呂と団七、余り生真面目にやられてもどうなるものでもないのだが、とは公演前半の感想。公演後半はさすがにポイントを掴んで仕上げていた。どの公演も客の入りが後半の方がいいのも頷ける。どの床も手摺もやり込むほどによくなるからだ。ただし住大夫は別。例の住大夫流も一つのあり方だが、やはり公演前半の仕込み稽古の成果が新鮮なうちが聞きものである。閑話休題、この段はやはり立ち声の大夫と弾き倒す三味線引きのコンビで、理屈もへちまもなくやりきって観客を追い出してしまうに限る。徳右衛門の死にかえての善意忠義も「浜松小屋」が出ないならなおさらのこと、筋立てからいってもうんうん気張ると逆効果になる。やはりここは大井川と書いた標にしがみつく朝顔が極まればそれでよい。そして最後に目が開く。
だからやはり呂団七クラスではもはや重すぎるのだ。津駒か千歳か。その意味でも東京公演の配役こそ適材適所なのである。
さて、『忠臣蔵』をやるのなら、NHK大河ドラマに合わせて来年がよかったのに。どうも商売商売経済効率と連呼するわりには、国立の制作側は観客動員が下手だ。いっそ正月から始まるドラマの主演クラスの俳優を招いて、サイン会でも併設すればどうだ。あるいはドラマの成功を期すためとしてスターたちを呼び寄せてそれぞれの役の人形と握手させたり、お客様も特別一緒に写真撮影サービスなどしてみるとか。いつも赤穂の汐見饅頭が取り合わせでは、今回はチト塩辛かろう。
それにしても「決定版」とは羊頭狗肉。またしても二段目の大事な仕込み所でもある戸無瀬小浪力弥のやりとりをすっ飛ばすとな。これで九段目の値打ちがまたまた下がってしまった。「時間がなけりゃ忠臣蔵なんてお軽勘平に忍傷場と切腹場を付けとけばそれでいいんだ」というのが平成国立文楽劇場の姿勢だからね。そこでこの欠を補うために孤軍奮闘蟷螂の斧、秋にはインターネットで人形浄瑠璃のホームページを開設予定だから、そこでこの大事な仕込み所を解説して上げることにしよう。まあいわば人形浄瑠璃NGOといった所かな。お上には任せておけない。それは環境問題にせよ軍縮平和問題にせよ伝統文化継承問題にしても同じなのだ。
それに「今世紀最後」には十段目もない。竜頭蛇尾の世紀末。「文楽殺すにハルマゲドンは要らぬ。このままずるずる行けばよい。」お粗末様でございました。