平成八年七・八月公演  

『ささやきの竹』

 故司馬遼太郎は「日本の伝統文化は昭和四十年代をもってその継承が断絶した。」と述べていたが、今回この言葉の正しさと重みを改めて痛感した。「ささやきの竹」初演当時と現在とでは明らかに違う。今回子供連れの母親や父親らは十分にこの作品を楽しみ、笑っていた。そして、そのたびに、客席のどの親も必ず隣の子供に対してにこにこと語りかけていた。「面白いわねえ。」と。しかし、この作品ではもはや現在の子供たちはにこりともしなかった。客席にいるどの子もそうであった。初演当時の子供たちは「うん、面白い!」と微笑み返したに違いない。そう、その子供たちこそ今回公演に来ている父母たちなのである。しかし、彼ら夫婦の子供たちはもう笑わない、楽しめないのだ。初演当時は新作だったかもしれない。が、今回見てみて実感した。これはもう古典である。しかしながら、いわゆる人形浄瑠璃の古典とは異なる。悲しいかなエセ古典としてしか位置付けられない。つまり、あの当時の一連の新作群は、もはや新作ではないし、正当な古典でもない。その狭間に墜ちて消えていくしか他あるまい。残るのは、動物を主人公とした少数の作品だけだ。人間世界から離れている分、新鮮であり、今の子供たちにも訴えかけるものがある。その意味ではいわゆるファンタジーの世界を題材とした『西遊記』は今後も生き残るだろう。最近上演されていないが『化競丑満鐘』も有力候補だ。一種の怪奇ホラーものである。「学校の怪談」等の根強い人気を見ても、この類の作品にはもっと目を向けていいはずだ。「文楽なにわ賞」にしても、文学を気取った作品ではなく、この種の作品、つまりは生々しい人間関係ではない、異次元の世界を題材にしながら、そこに人間社会や人の心や思いを映し出す作品の発掘に努めるべきであろう。現代の日本において、とくに若い世代を中心に、宮沢賢治がなぜこれほどまでにもてはやされるのか、そこを考えれば、人形浄瑠璃文楽の明日の方向性は見えてくるはずだ。現代は純文学の時代ではない。また生活つづり方などとっくに滅びていることに気付かねば。逆説的に言えば、現代の日常生活人間社会から遠いところにある人形浄瑠璃の古典作品こそ、生き残れるのである。来年以降も「夏休み公演」を実施するのであれば、以上の諸点をよく考えて上演作品を選ばれたい。核家族で仏壇もない家に育った子供に、坊さんというキャラクターのおかしみもお経の一種不思議なメロディーラインとノリのリズムもわかるはずはないのだ。磯野家の「タラちゃん」がお経にあわせて踊り出すという4コマ漫画は、三世代同居の大家族形態が当たり前であった時代にこそふさわしかったのだ。無論昭和三十年代生まれの私には、十分頷ける作品であった。そう、子供連れの父母たち自身の心には郷愁をさそう作品であったろう。しかし、今では、障子紙を二枚破り毎日それを張り替えるだけの価値も有りはしないのである。
 

『うつぼ猿』

 一応これは第一部としては人形浄瑠璃文楽本来の作品として位置付けられるのだろう。少なくとも、『ささやきの竹』を見たあとの観客はそう認識しているはずだ。とすれば、これはゆゆしき事態である。文楽初心者が多いはずの第一部、これを見た人々は、文楽とは狂言の変形なのだなと思い込むに決まっている。景事なら景事で耳目を喜ばせればよいわけで、時間合わせ以外の何者でもないこの上演はまったくもって観客を馬鹿にしている。もっとも、第一部の観客はそう感じないだろうというところが、まさに企画制作側の無意識な悪意の表明となっているのだ。そうそう、一階ロビーガラスケース中の解説文には、「猿の哀れが涙を誘う」とあった。いったいどこのだれがこの断片だけを見て涙を催すのだろう。中学の時、雑草引きの奉仕活動をしている私たちを泣きながら止めるクラスメートの女の子がいた。「雑草さんがかわいそう」というのである。ま、彼女が見ればこんなものでも泣けてくるのだろうが、これは感受性が鋭いのではなく壊れているわけだから、話にならない。しかも「近松」をちらつかせて強引に押し切るやり方、唾棄すべきである。
 

『傾城反魂香』

 口の緑と弥三郎、快速にやってのけ、こんなもん軽々だなと思わせたのは、実力が付いている証拠である。
  切は住大夫と錦弥。「古市油屋」に回れば大成功間違いなしというところを振っての本公演初役。口伝にある河内地とか色止めとか当方には難しくてよくわからないし、わからせてくれるような語りや演奏でもなかった。それよりも今回は住大夫流の語りがこの作品の本質を見事に提示したところが素晴らしいのである。どもりの亭主としゃべりの女房、手水鉢の奇跡に万歳楽と病気平癒のハッピーエンド。面白おかしい作品との印象がかつてこの作品を見たことのある多くの観客にあったろう。「聴衆が堀川は派手なものじゃと云うたら此段は語れて居らぬのである。」との評言はこの「吃又」にもそっくりそのまま当てはまるが、これが一筋縄ではいかない超難物。(「堀川猿回し」の場合、あの漱石でさえ『猫』の中で「賑やかなばかりで実がない」と書いている。)ところが、マクラ一枚聞くうちに又平夫婦の境遇がしんみりと描出され、続くおとくの言葉は夫大切衷心からの真心に裏打ちされており、「吃又」とはこういう浄瑠璃だったのかと、目から鱗が落ちたのである。さればこそ、女房の「涙にむせび入りければ」も又平の「口に手を入れ舌をつめつて泣きけるは」もともに「理りみえて不便なる」の詞章に正真正銘真実叶うのである。こうしてみると、やはり又平首の性根はチャリではなく誠実がその大本根本であることが改めてよくわかる。必死の又平の描出故に「修理之介も持て扱い」の詞章も活きる。とにかく住大夫(錦弥)の「吃又」はその前半で傑作の名に値した。もっとも、吃音の巧みさや万歳のノリ間は伊達大夫が、名字認許と病気平癒の晴々とした歓喜の表現は故津大夫が優っており、その点物足りなくもあったのだが、今回の住大夫の浄瑠璃には段切りにも女房おとくの喜びの涙の情がにじみでており、「吃又」の本質をよく捉えていたものであったといえよう。あえて「古市油屋」を譲った理由がわかったというものだ。人形陣もその住大夫の語りをよく理解していた。文雀の又平と簑助のおとくは確かに地味に見えるが、それでこそ本物であるのはもう論をまつまい。将監の作十郎には気組みが見えたし、奥方の勘寿と修理之介の玉輝はよくわきまえた遣いぶり。雅楽之介の注進はきっちり玉女が見せてくれた。
 

『伊勢音頭恋寝刃』

「古市油屋」
 清治とのコンビとはいえ、これを太夫に語らせるのは土台無理。狂言立てが全く劇場側の独断で決定され、大夫や三味線を十二分に活躍させようという観点は微塵もないことがよくわかる。それでも切語りともなると、金を払って見に来ているお客さんにひととおりは聞かせなければなるまい。人形陣に助けられてではあるが、少しは印象に残った狂言だったろうか。しかし、決して良くはない。まず冒頭のお紺の心情が伝わらない。となると今度は詞章だが、元々明瞭とはいいがたい語り口だから、話の伏線として文句を聞き取るのも容易でない。結局節回しがどのようで三味線の手がどう付いているかに耳が行き、なるほどこういうクドキにはこういう決まったフシと手があるものだなと、浄瑠璃一般の音楽の方法みたいなものを聞き取ってしまった。ここのお紺が語れていないと、貢が登場してからの肝心の場面、心とは裏腹の愛想尽かしのところがそれこそ底の浅いお芝居の常套手段としてしか感じられなくなるのだが、案の定かくの如しであった。そして「声高」の万野が登場してくると、もうこの程度の語りのお紺などは吹っ飛んでしまう。その万野だが、口捌きの悪い太夫にしては健闘してうすっぺらな人物造形は出来た。が、八汐首の特徴である嫌みが出ない。結局最後まで万野は軽薄な調子者ではあったが、憎々しさが無い平板なものであった。あれでは、貢の十人斬りへの伏線にならない。
次は喜助であるが、あと一歩である。これは人形(玉松)にも半分以上責任があるわけで、検非違使首に似合わぬピリッともキリッともしない歯切れの悪いものであった。そして眼目の「口にはいへど心には『オヽ道理でござんす。道理ぢや』といふにいはれぬこの場の仕儀、血を吐く思ひ押隠す」が空虚で、「血を吐く思ひ」などとは白髪三千丈。また例の浄瑠璃芝居の大嘘荒唐無稽が出たとの印象しか与えられなかった。よって、貢の腹立ち涙も底が浅くなるのだ。もう一つ言えば万野の「御羽織取つてきましよう。ソレ御羽織。お帰り。去にんかい。去になはらんかいの。エエ去にやがれ」が変化がなく一本調子でなってない。また段切りの岩次と万野のやりとりもとても慌てているようには聞き取れなかった。それでも、玉男の貢に紋寿の万野の人形が生き生きしていたから芝居としては崩壊せずに済んだし、岩次(文吾)お紺(一暢)北六(玉也)それにお鹿(和生)が自分の仕事を果たし、清治の三味線が間と変わりをよくおさえていたため、事なきを得たのであった。

「奥庭十人斬り」
 武智鉄二が『道八芸談』の「あとがき」に、古靭太夫が道八に稽古を付けてもらっているとき、「例の十人斬で、「唐竹割ツツツツツン」というところで、私はほんとうに脳天を打ち割られたと感じた。脳天に痛みが残ったのである。これにはびっくりした。」と書いているが、今回私は玉男が振り下ろす貢の刀にそれを感じ、それこそびっくりしてしまった。浄瑠璃(咲・喜左衛門)には何も感じなかったというよりもそこに斬刀の手やフシがあるという認識さえも持てなかったのだが、玉男の刀は人を斬るというよりも、自分の中にある何かを切り下げる、自分を取り巻く鬱陶しい不快なもやもやの元を断たんとする、取り憑かれたようなものすごい気迫が感じられた。もうそれでこの浄瑠璃は十分であろう。なぜこれほどの人を斬りまくるのか、その貢の切っ先と胸中に宿るものを玉男は見事に見せてくれたわけで、そうでなければ、この一段は後味の悪い殺人場でしかなくなるであろう。夏狂言として今後も78月三部制であるかぎり、しつこいほど上演されることになるだろうが、「古市油屋」を語れる大夫と貢を遣える人形がいなければ、「伊勢音頭」はただその場面が夏であるというより他何の意味もないものに転落していくに違いない。三味線云々はそのあとのことである。武智氏は本当に恵まれていた。
 

『冥途の飛脚』

「淡路町」
  マクラの「暮る(床本集には「れ」とあり、その蒙昧を如何せん)るを待たず飛ぶ足の、飛脚宿の忙しさ」や「一歩小判や白銀に翼のあるがごとくなり」の詞章ほどには至らず、いささかのんびりではと危惧したが、屋敷侍の登場から持ち直し、あとは交替まで小松大夫も清友もカワリと間とイキと足取りとに十二分な心を用い見事な浄瑠璃であった。「徒士若党も刀の威光、銀拵へもうさんなる」や「嵩から出れば、気をのまれ、使は真面目に帰りけり」も活き、妙閑も上々であったが、特筆すべきはやはり忠兵衛の八右衛門への衷情吐露であろう。「咽より剣を吐くとても、これほどにはあるまじ」の通りこちらの胸にも突き刺さり、涙ぐまざるを得なかった。これでこそ「鬼とも組まん」八右衛門が「ほろりと涙ぐ」む訳であり、三味線の清友とともに小松大夫に対して最大級の賛辞を送りたい。
  千歳と宗助に交替させる理由は何だろう。小松の健康上の理由であろうか。ともかく気分が中断して、例の「おいてくれふ、いて退けう」も忠兵衛とは別人が迷っているようであり、先刻の涙の訴えと断絶してしまった。ああまで言い泣きに泣いた男が、氏神にかこつけて「ちよつと寄つて顔見てから」と軽薄にも浮き浮きいそいそするのが大切なのであり、このように前と後に割っては、小松清友の功も水の泡、千歳宗助の懸命も功を奏さない。結局若い女性客の口から「あの犬が面白かったわあ」などと言わせてしまうのである。この大罪はすべて企画制作側にある。

「封印切」
  以前越路の代役の時とは異なり、今回は完全に嶋大夫の浄瑠璃になっていた。が、それがよろしくない。それはまたまた人形にも責任がある。簑助の忠兵衛はただひたすら軽佻浮薄な男に終始し、文昇の梅川は何としても物足りなく見ている側が不完全燃焼を起こし、玉幸の八右衛門はいくらその友情に力点を置いたとはいえあれでは忠兵衛が封印を切るわけがない。そして嶋大夫清介はと言えば、なるほど浄瑠璃一段ではあったろうが、表面を美しく流れていっただけ。三業とも番付を見て想像し危惧した通りの出来で終わってしまった。三業限定せず挙げれば、歌からハルフシで浄瑠璃にナオるところ、「身の憂きしほで梅川も」の出、「アヽうたての酒や」からの心情、いずれも不十分。「夕霧文章」は、さすがに日程後半はよくなったが、禿声にこだわりすぎで「酒も白けて醒め」るほどの訴えはなく、逆にうとうとしてしまう。(普通の観客は人形の三味線手を感心してみているから幸いというか眠らない。うまくできているものだ。)八右衛門は平板平凡。悪人ではないのとのっぺらぼうの造形とはまるで違うはず。それでも筋書き通り忠兵衛は封を切る。明治大正の頃なら忠兵衛を遣う名人がこれでは切れぬと芝居がストップしたという逸話でも残るところだが。その忠兵衛は怒鳴るばかりで少しも逆上の雰囲気はなく、梅川のクドキも、綱大夫弥七のコンビがもたらした涙のカタルシスのかけらもない。「忠兵衛気も有頂天」とはとても思えぬ一本調子の棒読み、ただ速いだけ。小判を撒き散らすところの狂気も見えず、とにかく後半はただ人形も語りも三味線も騒がしいだけの印象しか残らない。なるほど近松ものは難しい。難しいのに近松だと若い客がやってくるから手摺にかける。そして、人形浄瑠璃文楽とはこの程度のものだと思わせてしまう。已んぬるかな。

「道行相合かご」
  英津駒団七燕二郎以下の健闘で何とか追い出しの道行きの体にはなっていたが、元来が他の心中ものと異なり心中もせず、あとには名品「新口村」が控えているわけだから、どうにかしようにもどうにもならない。「淡路町」「封印切」の間の無駄な休憩(これは観客の若いカップルたち複数の声も聞いた。)といい、この「道行モドキ」といい、全く時間の浪費。三部制でそれぞれお金を戴いている以上はそれに見合う時間(内容の充実度で計ればよいという思考が全く不可能なのが現在の国立の本質である。)にしなければならないというわけである。私自身三度目にはついに耐えられなくなって「淡路町」だけで帰宅したほどである。後色々文句たらたらであるが、当方もこのむし暑さ、書いても詮無いことで汗をかく気にもならず、これでおしまい。

  十一月公演。「道明寺」の太夫。切語りになったご褒美か。そっちの都合はそれとして、こちらは金と時間を費やしてわざわざ来るお客。この「道明寺」で涙のカタルシスが得られない場合、「あばれちゃうぞ!」(第一部を見に来た子供たちならこのギャグがわかるだろう。)