平成八年四月公演 

『祇園祭礼信仰記』

「金閣寺」
 端場ではあるが段書きされ、それが「碁立て」ではなく「金閣寺」である。呂・富助としてはやりがいがあるというもの。マクラが「今ぞ都の錦なる」で結ばれているように、大振りに絢爛豪華に語り出さねばならない。無論東風の足取りや間合いも。両者ともその心掛け有って満足だが、呂にはもう一枚の紙破りを、富助には撥皮を叩きすぎずに大音を響かせるように願いたい。松永大膳は鬼藤太の置く石に反応しすぎる。また、鳴子の綱を引く動作もせせこましい。いずれも短気な我侭男の描出は出来たが、天下を手中に収めようという大きさに欠ける。野望が見えてこない。眉の遣い方も神経質すぎる。雪姫の出は三味線に余韻少なくふくらみに乏しい。語りは繊細だが同断。まあここらは両者の個性でもあり、言うだけ酷か。で肝心の碁立て。決して悪くないと思うが快感には至らない、というのも、織−弥七と玉男−玉昇とのフィルムで味わった心地よさがどうにも忘れられないから。あのカタルシスは脳神経をいてまいよったわな。SPレコードのCD復刻とともに、そのVTRフィルムのLD化も是非押し進められたい。過去の栄光としてではなく、今後の伝統継承の上で最重要の資料だから。観客もそれで耳や目を肥やしてくれれば、人形浄瑠璃にとってこれほど望ましいことはなかろう。予算が無いなら、それこそ関西経済界のバックアップがあっても良さそうなものだが。まあ景気回復の芽が出たばかりでもあるし、将来に備えて研究開発の用意だけでも行っておいてもらいたい。(そうそう、SPレコード鑑賞会中断の弁には「準備が整い次第再開する」とあったが、一体何年待たせるのだろう。その時の断り書きもちゃんと保存してあり、ここで全文掲載してもよいのだが、やめておこう。厚生省の二の舞はまさかなさるまい。)東吉が端正なのは評価するが、碁盤を扇で押さえてから以降はもっと切れ味よく颯爽としてもらいたい。

「爪先鼠」
  駒太夫オクリから、さあ始まるぞという期待感を持たせる。そして大道具転換まで気が付くと終わっていた。難解なテーマや深刻なドラマを語り活かすよりも、また引き締まって深沈としたものよりも、今回の浄瑠璃のような見ていて聞いていて気持ちいいものが太夫にはぴったりである。なるほど雪姫を美声で語り観客を悦楽の園へ誘うとはいかないが、その分たっぷりと厚みをもって大膳他を描出し、春爛漫に「入相の鐘も霞に」という茫漠としたなま暖かい雰囲気を醸し出せたのだから、切場昇進の狂言として成功したといえよう。爪先鼠の奇跡も蜃気楼夢幻世界の現出と見れば、この春の空気がもたらしたものとして納得できる。雪姫はとくに目立った遣い方ではないが、縛られての型くずれせずかえって艶かしさが出たのはさすがである。この四段目、正確に伝承された駒太夫風そのままの浄瑠璃とはどんなものだろうか。きっと虜になって何十回と聴き返してしまうものなのだろう。
  アトはまず、金閣寺の大ぜりが前回に比して改良され、これならば現代の観客をもオオとうならせるものになっていた。道具方の努力に拍手を送りたい。また、究竟頂はまさに高楼へ登った気分でこれも結構。(ここは詞章通りだと夜である。当今のライトアップならばこの春の夜の背景処理も見応えあろうが、さてどうしたものか。星明かりと夜桜にできればよいのだが、これは課題というより、そこまで詞章に拘るには及ばないと考える。もちろん一度試してみても面白いとは思うが。)津駒も八介もこの場に与えられた条件をクリアーしている。人形陣も個別に言及はしないが各々いい。というわけで『信仰記』全体として良であったろう。
 

『弥作鎌腹』

 今公演の最高傑作であり最上級品であった。人形浄瑠璃の作品としては増補物であり、どうということもないはずなのだが、今回のように見せられると、「本蔵下屋敷」などとは雲泥の差があるなあと感心しきりで、ともかくこれでひとつ下手な評論でも書いてみようという気にさせられてしまったのである。で、詳細は来年春の紀要に改めて書くから、ここでは簡潔な指摘にとどめておく。
 この作品を簡単にやっつける、つまり台無しにするにはこう語りこう遣えばよい。七太夫を憎々しい悪人にするとともに徹底してチャリ化する。弥作を優柔不断で意志のないお人好しにする。鎌腹からあとをたっぷりとやり板挟みのお涙頂戴人情物に仕立て上げる。しかし、住大夫も玉男も文雀もそんなことは百も承知で、そのような浅はかで見え透いた罠にはかからない。かかるどころか、この狂言を120%活かしきってしまったのだった。
  端場の小松は今回も感嘆させられる。「恩と弟を思ひの余り望みあるとはしらにぎで神ならぬ身ぞ是非無けれ」がもう完璧だから、ここだけでまず端場の役目を果たしている。和助は「こなた様の御不念と申すもの」とズバと言い、「必ず他言はなりませぬぞ」「得と御承知かな」の押しが十分。おかやは「アイアイ合点でござんすシタガコレ留守のうちせり合はぬやう」だけですべて把握された。そして弥作は「したり侍の性根といふものはイヤ又違うたものぢやナア」からの詞が抜群で、特に「アア何ぼ兄に生れても〜ハハハハハ」のところの陰陽表裏内外遅速深浅、心と詞とすばらしく、紋下格の切場へと見事に手渡したのである。燕二郎の三味線もよし。錦弥とは端場と切場との処遇の違いに改めて驚くが、無茶を承知で妄言すれば、これこそ二人の一日代わりの三味線でよいのだ。このまま行くと、錦弥には悪いが、住大夫と離れた後、大いに困ることになるであろう。燕三が急に倒れず燕二郎が代役する機会がしばらくでも続いていれば、こんなことにはならなかったのであるが、お互いのために最も不幸な形となってしまっている。錦弥の三味線、本公演でもやはりオクリのあの奇妙なつまづくような間はなんなのだ。カラオケでもちょっと気取ってテンポをずらして歌う奴がいるが、ああするとうまいと思われるとでも考えているらしい。その原因の一端はやはり紋下格住大夫を弾いているのだという意識であろう。住大夫の昨今の浄瑠璃は正統的伝承系列上のものというより「住大夫流」(住大夫風とでもいっていいほどであるが、風とすると問題があるので)とでもいうべき質のものである。だから、今回の「弥作鎌腹」のように、口伝だ風だとさほど問題にならないもののほうに抜群の力を示すのである。これは悪口ではない。もはや紋下格なのだから自分の浄瑠璃を語っても当然許されるべきものであろう。(公演記録映画会の文字大夫時代のを聴くといかに徹底的に仕込まれていたかがよくわかる。この基礎の上での今や晩年円熟の境地なのである。)その相三味線というのは、やはり円熟の境地にある三味線でないと「住大夫流」に引きずられてしまう。もっともそこをよく心して仕込んでもらうのならこれに越したことはないが、どうも錦弥の三味線は住大夫の技をきめられっぱなしという感じなのである。
 切場は言うことなし。もっとも最初は七太夫の悪人度が強く鎌腹以後もねちっこいかなと聴こえたのだが、再び行くと見事にそれらが解消されていた。さすが住大夫である。こうなればもう当方はお手上げである。人形陣も完璧で、玉男は言うだけ野暮。文雀は狐葛の葉よりもこの七太夫を取りたい。過不足ない的確な遣い方で感嘆しきり。文吾はここ数公演中最高の出来ではないか。この赤穂浪人であり弟である立場の和助を見事に描出していた。文昇のおかやは「二親に死に別れ杖柱とも思うてゐるお前に、もしもがあつたらばわしや何とせう、どうなろう」という控え目でいぢらしい妻を確かに演じていた。今回は手摺と床とそして観客とが一体となる至福の時が現出された。この体験こそ人形浄瑠璃の原体験とでも言うべきもの。これだけであと4、5年は人形浄瑠璃に通ってみようという気になるはずだ。これ以上の言及は改めて別の機会にゆずりたい。ともかく素晴らしいの一語に尽きた。
 

『日高川』

  文字栄は進歩したと思った。三業とも手抜きせずやったのが好ましい。しかしここのところの咲大夫の役場にはやりきれないものがある。
 

『芦屋道満大内鑑』

「大内」
 この大序はあまり意味がない。このために「蘭菊の乱れ」を時間の都合でカットしたのなら、百害あって一利なしの大序である。そもそも二人の弟子の内どちらかに金烏玉兎集を譲る、扉の鍵は母で箱の鍵は榊の前が預かるという事の趣旨がわかるだけのものである。しかもこの二事は加茂館の端場で早々に明らかにされるのである。わざわざ大序を付けるまでもない。第一、悪役左大将元方は以後一切出てこないし、岩倉治部と左近太郎との見せ場である肝心の三段目はオールカットである。安倍保名のライバル芦屋道満も姿を見せずじまい。安倍保名と狐葛の葉との愛情物語である現行の上演形態においては、このしかつめらしい大序は無用である。通しとか半通しとかきちんと通すところとそうでないところと明確にせず、ともかくも大序付きでちゃんとやってますハイとの言い逃れはやめてもらいたいものである。で、始大夫は鼻濁音に注意、できていない。新大夫は桜木親王の詞と地の部分など不安定である。それでも呂勢・咲甫と合わせたこの四人衆は南都・文字久・文字栄の三人衆よりも浄瑠璃が体によくしみこんでいると思う。一応浄瑠璃になっている。不審の思いにとらわれてひやひやしながら聴かなくてはならないということがほとんどない。とはいえ、外側を繕う浄瑠璃では先が見えている。三人衆が浄瑠璃とは何かを掴んだとき、決定的な差がつくかもしれないのだから。
 
「加茂館」
 端場の三輪大夫はさらに進歩した。最初ベタ付きかと聴いた「裏門口明けて招けば首肯いて入ると締合ふ手の内に」「あいと急げば急ぐだけ行くより早く持つてくる」の所が次に聴いたときには問題なかったのが第一。第二はマクラにきちんと悪の芽が感じ取られたことである。詞はもとより得意とするところで語り分け人物描写もまずは結構。三味線の弥三郎も音が前へ出るようになって手応えがあり、端場として出来たといってよかろう。次回の演目でもこのように聴き取れれば三輪大夫も津駒・千歳に続いて安心して端場を任せられる大夫になったというわけである。それにしても保名という男はどうしようもない奴だ。この場にのこのこ現れてしかも恋人の言うまま勝手に亡父の素袍烏帽子を着て「今日着するといふは吉相吉相」などと喜ぶに至っては何をかいわんやである。そして窮するとすぐ腹を切ろうとする。伊賀越の志津馬といい、人形浄瑠璃の若男源太にも困ったものである。しかしこれゆえに話の発端となるわけでもあり、主人公というよりは狂言回しの道化のようなものでもある。「人形浄瑠璃における若男源太論」で一つの論文が書けるかもしれない。 
 奥は伊達大夫。人物が多数登場して錯綜する素朴な語り場は伊達の得意とするところ、というか伊達がもっぱら勤めている。「閻魔王にも親あらばお袋なんどと謂ひつべし」「年寄と紙袋は入れにや立てらぬ内へ往んで入れませう」「首は飛んで骸は乾猫と並んで死してんげり」と猫股婆が眼前に悶き死にするところの一連の詞章の語り、ここの古風な感じ味わいは伊達以外にはとても出せない。フルコースでも一品料理でもなく食堂の定食としての昔ながらの気取らない人間味のある旨さを味わわせてくれる。固定客がつくのももっともである(私もその一人だが)。で人形陣、保名はここでは何とも頼りなく回りが見えていない男をうまく表現。榊の前は品有り、岩倉治部も老け役は映らないが的確な動き。左近太郎も動かないという分には格があった。後室はたとえば榊の前が箱を開けるときに空とぼけてばかりいず一度くらい引き目を遣ってもよかろう。八汐頭にしては少々物足りない。与勘平はあの髭面頭がいかにもぴったり良くできているので、それを殺さないように遣えていた。がやはり今回の文吾は和助であろう。
 
「保名物狂」
 御簾内の貴大夫。文句を言わずここを勤めていることをまず良としたい。辞めてしまっては何にもならない。織美とか津梅とか、後悔しているはずだ。三味線の清太郎には手応えがあった。
  切場の嶋大夫は団六と組んで万全の体制。「まだうら若き心より応へなければ」など大和風ではなかろうか。ツレの千歳は憎いばかりに嶋大夫の影となってぴったりと語る。石川悪右衛門を語るところはきっぱりと手強くしているから、理想的なツレである。人形は保名と与勘平とが主従の情の描出見事。また保名と葛の葉との目は口ほどに物を言いがそのままぴったり。悪右衛門と狐葛の葉も良く、一段成功裏に終わった。節事入りで十分にリラックスできた。観客の身も心も風呂から上がってさてこれからいよいよ眼目の「狐別れ」である。

「狐別れ」
  端場の相生大夫。この「隣柿の木」も相生ならではそうたやすくは勤まるまい。まず唄で始まって母子の対話に木綿買いの一癖ある軽口、信田庄司とその妻の老夫婦の会話、そして葛の葉姫と保名。二人葛の葉の驚きと面白さそして不審。これらすべてを巧みに語り分ければ、なるほどこの端場は一つの聴き物だ。そこは相生抜かりはない。宗助も良い(一二の音に重みがついてきた)。
  切場の綱大夫。大和風の正当な伝承者としてここを語るのは彼しかいまい。山城と清六のSP(CD化)はこのコンビの最高傑作である(「道明寺」も恐ろしいが、今一つ三味線としっくりこない感がある。清六と別れてからの山城には衰えが顕著になってくるし、清六も松大夫を鍛えたとはいえレベルが違いすぎる。)し、それこそ何十回と聴いたがますます引き込まれるばかりである。大和風とはこういうものかとよく分かる。地での音の落とし所、保名の詞遣い、ノリ間の詰開き、狐詞、狐葛の葉のクドキになると、歌の部分、「一雫づつ涙をぬぐひては名残をいふ心」の意味、そして保名の真情の叫び、段切りのテンポと「葛の葉は勇みなく」からの大和風最後の締めまで、実に面白い。そう面白いのである、この一段は。「おもしろく聞こへて気の毒」とは、そういう節付け間合い足取りになっているのである。が、この一段の難しいところは、その「おもしろい」の上にあるいは底に、人情を情愛を乗せて語らねばならないということである。したがってこの一段を面白く語れないというのは下の下である。そして面白く語れても情が届かざるものは中の中である。この両者を分離せず一体となって語り出せた浄瑠璃こそ上の上なのである。そして山城・清六のはまさにその上の上に属するものなのだ。一見納得のいかない播磨少掾の二つの芸談はいささかも矛盾してはいないのである。順四軒は中程度まで修行は積めていたのである。だから播磨も親子の情うつるべしと思ってその上の段階を語らせてみたのであった。この一段を大泣きに泣いてしまってはならないとするのも、一つにはこの面白さを台無しするからであろう。情を語るのを第一とするという浄瑠璃の大原則はそういう意味あいにおいてのみ成立するのである。
 綱大夫はそこをよくわきまえている。安易なお涙頂戴の愛情ドラマには仕立てない。苦しくとも大和風を心がけていたことはよくわかった。前述のどれについても今一歩ではあったがその姿勢を言祝ぎたい。無論狐葛の葉のクドキがこちらの心奥に届き揺さぶって図らずも涙ぐんでしまうというところまでは至らなかったのは事実である。しかしこの一段は古靭山城から越路へ、そして今綱大夫へと来たばかりなのだ。綱大夫の再演再再演を待ちたいと思う。清二郎もこのやっかいな浄瑠璃の三味線のツボをはずしてはいない。浄瑠璃が心身ともにしみこんでいる証拠である。人形は、作十郎文昇紋寿が安定しており脇固め。文雀の狐葛の葉はなるほど「どつこに一つの言分なし」ではあるが、「愚痴なる畜生残害は人間よりは百倍ぞや」の熱く深く溢れ出る思いの描出が抑制され過ぎたようにも感じた。もっともこれは床の綱大夫の語りとの関係かもしれないが。玉男の保名は絶妙である。物狂いまでとは変わって世帯持ち子持ちの父親として世俗やつれした男、そしてそれ故に妻子を守るべく「日頃には似ぬ強勢」を発揮する男。いわば大人になった保名の姿がそこにはあったのだ。加茂館と物狂いまでの保名を見た観客はおそらく、玉男の保名とはこれだけのものかと気が抜けただろう。しかしこの「狐別れ」の遣いぶりを見たときはじめて、ああそういうことだったのか、さすがに玉男の保名だ、今度は加茂館からそういう気持ちで見てみよう、と改めて思ったに違いないのである。まさしく至芸。玉男丈にはくれぐれも健康に留意していただきたいと願うのみである。

「二人奴」
  楽しいし面白いし気分が晴れるし、打ち出しとして最高の出来であった。英大夫はもう心配ない。緑大夫の与勘平相手では分が悪かろうと思ったが、何の何の。一杯に語ってしかもその上にシンとして掛け合いを導くという責務も立派に果たしていた。こうなると緑の方が一杯の語りプラスαを要求されることとなる。それも仕方なかろう。そういう地位にいるのだから。千歳文字久呂勢ともに敢闘賞。「日高川」も良かったが、この「二人奴」はそのもう一つ上を行く出来であった。三味線も喜左衛門の厚みに二枚目清友はここだけの出番という贅沢な使い方(本人にとっては気の毒だが、咲大夫の処遇と並んでここは辛抱辛抱)で丸みが加わり、相好を崩してこの一段の世界に浸ることが出来た。人形も野干平の玉幸がこれまた与勘平の文吾相手では辛かろうと思われたのに、堂々の五分五分丁々発止と遣いきった。松永大膳は努力賞だが野干平はもう三賞の必要はないといってよいだろう。ともあれ、気持ちよく満足感をもって劇場をあとにできたというのがうれしかった。

 次回の夏休み公演。子供向けに夏狂言に近松の世話物という三部制は良いと思うが、この形式だと二部と三部の演目が固定化される恐れがある。ミドリ狂言で済むものはぜひここへ入れてもらいたい、多少の季節感のずれはかまわないと思う。何せ二月に一度の割で興行していた時代の狂言を引き継いでいるのだから。そしてその空いた分、1、4、11月公演では全段通し半通し上演をどしどし行ってもらいたい。それが国立文楽劇場の企画制作の大原則基本方針であるはずだ。

 池田陽子「文楽」写真展結構でした。被写体構図瞬間迫力どれをとっても三村幸一氏に負けず劣らず、カレンダー写真の諸氏とは雲泥の差がある。どの写真も人形はまさしく生きている。人形遣いと床によって精気を吹き込まれ活かされている。それが証拠に人形の頭(阿古屋)だけを撮った写真と舞台写真とを見比べてみるがいい。ああなるほど、人形浄瑠璃はただの人形劇とは違うなあ、歌舞伎のように作られたよそよそしい様式美とも違うなあ、と実感するだろう。この人の写真でカレンダーが制作できれば、毎年新しいものと取り替えるときに昨年のカレンダーを捨ててしまうということもないだろうに。三世越路太夫展も素晴らしかったが、今回の企画も大変結構でした。この展示の企画はどこが担当しているのだろう。おそらく相当の目利きの人がやっているのだろうな。公演記録映画会やSPレコード鑑賞会もこの展示企画のようになってもらいたい、いやかつてはそうであったのだから、不可能ではないと思うのだが。上演資料集の発行もここのところお見限りのようだが、これはまあその待たせた分必ずや素晴らしいものが出来てくるのであろう。ひょっとして、「袖萩祭文」上演に合わせて古靭清六のSP復刻CD付きの資料集が発行されたりするのかもしれない。それなら何カ月も待ちましょう。楽しみだ。