平成七年正月公演


  「忠臣蔵」のあと、しかも大震災といいインフルエンザの流行といい、はなはださびしい正月公演となってしまった。私にしてからが、まさにその両方ために一度劇場に通っただけであり、今回は書けるところを書くに止めるしかない。
 

第一部

『寿柱立万歳』

 太夫の観客への挨拶、新年の祝詞がなかったのは震災を考慮したためなら上出来である。松香と南都には三味線との不即不離を勉強していただきたい。清之助と簑太郎の太夫才三は次世代人形陣のまさしく「柱立」、それを言祝ぐ出来具合。浄瑠璃三味線陣も清新で新春の雰囲気は出来たようだ。
 

『玉藻前』

「清水寺」
  やはり口開き文七は不出来だが、あの体では精一杯だろう。采女之助と桂姫も今一つか。犬淵の再出からは調子良く段切りの三重まで進んだ。全体錦弥の好サポート。人形の采女之助は無個性。

「道春館・端場」
  呂大夫・清友は上出来である。b琴のしらべはのハルフシからb気高さまで、b姉妹の中ぞゆかしき大内育ち、b力を付くる折こそあれ、b心を奥と次の間へ、等いずれも詞章に心を配り、姫二人に右大臣の後室それと若男采女之助というがんじがらめで動けそうもないところを、確かな手ごたえで語り進み弾き進む。またカワリや足どりについても、bやがてその身も恋ざかりほのめきざかりの腰元ども、b『はつ』と思ひし姫よりも采女之助は気をあせり、等で気配りされている。三味線にあと少しきめ細やかさがあればと聞いたが、紋下の端場として申し分のないものであった。呂はこういうものは実にすばらしいが、今の彼にこういう褒め方をしても一向に喜ばしくはあるまい。切語りへの飛躍こそが第一である。

「道春館・切場」
  今回の正月公演で唯一感動できたのが「玉藻前」であった。改めて住・燕三の実力を感じとった。呂・清友がきっちりとやりあげたあと、マクラが実にすばらしい。b早や夕陽も、傾きて、無常を告ぐる鐘の音もいとど、淋しき黄昏や、でもう桂姫と金藤次の悲劇の運命は暗示されているのだ。それを見事に語り生かす。それ故にこそ次のb銀燭の光、まばゆき白書院、のところが目に痛いほどのまぶしさになるわけだ。あと細かくいうときりがないので、大づかみに。とりわけよいのが金藤次である。玉男の人形と相俟って極上の出来。bコリヤ娘、父ぢやはやいのところも文句なしだが、それ以上に大切なところを逃さないのが名人である。つまりb勝負の付くがすぐに寂滅 の所、金藤次はもうわが子桂姫の首を打つ覚悟を決めている。それが浄瑠璃からも人形からもこちらの心へひしと伝わってくる。しかもその上に素晴らしいのは、後室萩の方も絶品で(これはまた人形文雀の手柄でもあるのだが)、金藤次の詞を受けてbただよそながら暇乞ひ、一思ひに でこちらは初花姫を身代わりとの覚悟をきめていることがやはりきちんと応えてくる。互いの胸の、詞ではそれと言われぬ覚悟の思い、まさに人形浄瑠璃の真骨頂である。あとb鷲塚せせら笑ひ 以下の所、何としても自分の命を与えねばならぬから、表面実に憎々しくもってゆくところ。これが利くから後のモドリが十分に生きる、等など。客受けする所、例えば、桂姫のクドキとかb死を争ひし姉妹の、心根不憫と母親は………の所とか、双六勝負の所や三人の嘆きから大落しまで、の各所はさほどでもなかった。というよりも、浄瑠璃前半の大切な仕込所がきちんとされていれば、中後半のいわゆるカタルシス部分は徒に語り込まなくとも、自然に感動できるのだということなのだ。これもまた人形浄瑠璃の最も大切な教えがきちんと実践された証拠として、喜びたいと思う。(なるほど、前述の各所は食い足りないがそれが住・燕三の枯れた味でもある。なにせこれは時代物三段目、これで食い足りたらそれは摂津・広助、山城・清六レベルということだろう。)簑助の桂姫、彼としては抑えた遣いぶりだが、姉としての色気、ふくらみ等、もう少し押し出して遣っても良かったのでは。しかし一暢の初花姫が実に実に控え目に妹としての初花姫を遣ったから、その差を取ればこれで十分というバランス感覚からかもしれない。采女之助の人形だけが取り残された感じ。とにかく無個性。こちらに伝わってくるものがない。こんなことなら中堅若手に遣わせて修行させた方がましだったのでは。
 
 

『壷坂』

  思ったより悪かった。もう一つ面白くなかったし、もとより感動はしなかった。

  「土佐町」
 三輪の地は依然としてベタ。詞はまあ合格としても、これでは立端場語りへは進めまい。掛合が関の山か。数年前に千歳がここを語っているはず。聞き比べてみると良い。(毎回言うが千歳がよいというのではない。三輪に何としてもどこがまずいか自覚して正してほしいという親心だ。)

「沢市内」
  伊達とここのところ調子良い三代目なら聞き応えが…と思っていたが。なるほどb夢が浮世かとb鳥の声の違いはわきまえているが。まず沢市が今一歩。人形は玉幸しか見ていないがこれも無個性。お里は人形の文昇ともども誠実さ堅実さは出ているがそこまで。いわば新作物だけにつかみそこねると立ち直りがきかない。しかし太夫よりは何十倍もましである。

「御寺」
  富助は道具変わり三重から万歳までポイントを押さえているのだが。太夫はひどい。b露と消えゆく の所、三味線も人形も沢市わが身に応えることとしているのに、大夫だけはのんきな語り。沢市の死ぬところも覚悟の恐ろしさではなく、時代物の大仰さになっている。お里になるとノリが悪く(人形も悪い。足遣い下手。)、踊り地で死ぬという団平の工夫も水の泡。むろん沢市の死との対照もあったものではない。谷間での目が開いた夫婦の詞も何でもなく、驚きも喜びも伝わってこない。おかげで万歳もなにがありがたいのやら。観音の御利生も霊験も無駄となった。
 

『恋女房染分手綱』

「道中双六」
  面白さに至らないまま終わった。弥三左衛門がどうしたことかよくない。相生にぴったりのはずだが。肝心の双六の所もノリが今一歩でずるずると江戸に到着。千歳がでしゃばらなかったのが一徳か。

「重の井子別れ」
  感動にまで至らず。といっても今回は、嶋・団六が口伝を大切に「くわ」その他にも気を配り、いわば風の継承を心掛けたため。自らを縛ったために十分に動けず。しかしこれは実に見上げた心掛け。古典芸能人形浄瑠璃の未来は明るいぞ。前受けを狙うのなら十分可能な人々だけに好ましい。また何年後かに今回を含めての修行の成果を見せて貰おう。人形の紋寿も同じ心と見た。それは重の井のbここの訳をよう聞きやや からの述懐にこそ大夫三味線人形三者の最重点が置かれていると感じたからである。次への投資と考えれば納得が行くだろう。「玉藻前」がそれでもなお感動を与えたというのは、そこに到達した芸の素晴らしさということだ。
 

『恋娘昔八丈』

「才三勘当」
  要するに才三は元武士でお駒は元腰元である、という様子がよくわかったということだ。こうするとあとの「城木屋」の事情がよく飲み込めるが、逆に語る方はそこをきちんと語り生かす必要があり、より以上にしんどくなる。咲・清介は無難だし、きちんと筋を押さえている。ただ父六郎右衛門のbそこを計つて某が、願書差上げそちが身は、はやお暇を賜はつたり。心を改め宿へ帰り、そちが親庄兵衛へ、随分ともに孝行を のところがブチブチと七五調で切れてしまうのはいただけまい。

「城木屋」
  総じて前回の伊達が語ったときの方が人形も含めて上出来だった。ただし、丈八は文雀の方が悪くてもまだましだが。その丈八も自分から柱に頭をぶつけにいってはいけない。いかにも人形を遣ってますよだ。しかし文雀にしたら可愛そうとしかいいようがない。無人なのだ。勘十郎の穴が埋められていない人形陣。しばらくは文雀の不幸も続くか。それならばやはり中堅若手を抜擢して修行させた方が良いと思うのだが。織はこういうものが楽々と語れない。ノリとか変わりとか足取りとか。師匠の綱と最も異なるところだ。時代物は師匠の域に近づくべく、切語りとしての名も保てているが。この「城木屋」、織としては親のクドキが今一歩で、そうなるとお駒才三丈八喜蔵らはもう二歩も三歩もという次第となる。ともかく前回の伊達の時のがまだ記憶に新しいから、今回は、悪いとは言わないが、とくになんとも感じなかった訳である。清治の三味線もこうなると、はてどうだったのかしらと、思い出せない。不思議なものだ。

「鈴ヶ森」
  アトは切の出来如何でそのまま気分も引きずるから今回はやはりどうも。その上掛合ときているから、情愛にも連続性がないし。三業はここでもまた何ということもない。悪いという訳ではないだけにどうも変な感じだった。不完全燃焼かな。

 今回のミドリ建てで感動できたのはただ一つ。ということは、ミドリ建て自体が現在の文楽の陣容にあっていないということではないのだろうか。つまり、ミドリ建てがなされた当時、各々の狂言の切場(おもしろい所)をそれぞれ語り生かすだけの大夫三味線と巧みな人形遣いが存在したから、興行側の時間的要求等ともうまくマッチして、ミドリ建て狂言が成立したのである。むろん観客側にもオイシイ所を寄せ集めた極上の食事を堪能できる舌があったのだ。それがどうだろう。現在は三業の側にも観客の側にも、その条件が成立していないのではなかろうか。ここ数年を見ても、(半)通し上演とミドリ建ての場合と、どちらが成功しているだろうか。磐石の横綱大関がいて、関脇小結クラスのワザ士がいる、そして平幕にもうるさ形が存在する。それならば取り組みも面白かろう、ミドリでも充実しよう。が、今は。しかも大阪本公演は年わずか4回である。それがミドリ建てでそれでお客から金を取ろうとは。今回の正月公演はいかにも淋しいものであった。それは阪神大震災や「忠臣蔵」のあとだからということだけでは断じてあるまい。
  あと一点。昼も夜も双六で賽子を見せられるとは。狂言の建て方に問題がある。「道春館」の金藤次の最期。「忠臣蔵」九段目の本蔵がお石をわざと怒らせ結局力弥の槍にかかりそのあと本心を語るという趣向と同じではないか。前回見たばかり。狂言をすみからすみまできちんと知っているものなら、こんなことはするまい。あまりにベタ付きのやり方、これが江戸の芸能人形浄瑠璃のやり方か。蕉門の連句なら戒め棒を頂戴するところだ。今の国立にはとがめる人もあるまい。平和なことである。が、甘い砂糖は身体に悪い。しかも、そのことが自覚症状に現れてからではもはや手遅れというのは、現代成人病の常識である。