「米屋」
端場の三輪大夫、コトバ快調(長吉は変化に乏しかったが)で、地や色の語りにも稽古と配慮の跡が伺えた。ただ、フシ落ちがやはりベタ付きで「わが子の様に弟を思ふは姉の習ひなり」「軒伝ひ皆様これにと出でて行く」等聴いていて不快感を催させる。今一つの努力を望む。弥三郎は音に厚みと幅がでてきている。
切場の伊達−団六。噛みしめて深い味わいあり。旨味有り。立端場の奥や二段目の切など、滋味を出せるというのは、先代相生や昭和初期の源・駒・錣に匹敵するかけがえのない存在。大切にしたい。正月の団六の七福神はあれは綱大夫への御祝儀でしょうね。伊達の夕顔棚も。(そうでなければ、そこに配せざるを得ない狂言建てにした劇場制作担当者の無知蒙昧ということになるが、まさかそうではあるまい。ま、四月公演を見れば一目瞭然であるが。)さて、長五郎の人形だが、諸肌脱いでからの貧弱さが気になる。肩のヘチマに糸吊りの腕、それが目立ってしまうのは先刻承知。仕方ないと言えば仕方ないのだが、長吉と比較してどうも人形拵えに難があるようにも見えるのだが、如何なものであろうか。しかし遣い方自体は大きく貫録あるようコセつかず、相応であった。文吾=立役遣いとして安心して見られる所まであと少し。長吉はここも結構。お関は弟思いというが、横溢して表現すること叶わぬはず。「姉の利発なり」ともあるように、この弟を掌の上で遊ばしておくかしこさと度量とそして何よりも奥底での愛情が必要とされるのだから。長吉もまたそんな姉だからこそ「あいつらが、おれを盗人と云ますわいの」と思いっきり甘えてもくるし、わがままも一杯である。姉妹の姉でも兄弟の弟でもいけない、この姉弟という関係での姉であり弟であるという表現が肝心要なのである。現代日本においても、「下に弟がいるんじゃない」「上に姉さんがいるだろ」とピタリ当たるタイプの男女がいるが、まさにその姉であり弟である。ゆえに、人間の自尊心を傷つけるような企みも、この姉弟関係の中では解消される。しかもこの姉弟には二親(母親については断言できないけれども)がもういないのだ。お関は長吉にとっては保護者同然。母親代わり父親代わりとして、長吉が全身全霊ぶつけてくる肉親への情愛をすべて引き受けなければならないのである。「わが子の様に弟を思ふは姉の習ひなり」とは比喩ではなく正真正銘そのままである。格好ばかりデカくても中身は悪ガキそのまま、その真っ直ぐで純粋な部分をハラハラしながらあたたかく見守ってやる、無論ダメな時はダメと引き締めもする、それも大手搦手多種多彩、真正面から叱りつけてばかりでは行かぬ。「悪者連れはなほ以て言葉優しく姉のお関」との詞章ひとつ取ってみても、流石に作者である。弟を持つ姉というものの本質を見抜いている。そしてこの姉弟関係を脇から支えるのが長五郎の説諭と妙閑ら講中のチャリなのである。下手すると不愉快極まりない「人を試す」という内容の浄瑠璃。一暢のお関はよくそれを心得ていた。段切りで長吉を引き離し長五郎を突き出し戸をぴしゃりと閉めるお関こそ、弟を持つ姉の面目躍如なる姿なのだ。というわけで、今回は三業それぞれの働きにより、一つ間違えばイヤな芝居と転落する所を免れた。何より伊達−団六の浄瑠璃と、この弟長吉=丸目の鬼若首を見事に遣ってみせた簑太郎を第一の手柄とすべきだろう。
「喧嘩」
「直には行かぬ」郷左衛門と「難儀」な有右衛門の憎々しさは詞章通りの文字久・南都。これで端敵役の軽率さが表現されていたなら一人で端場を任せられるのだが、そこまでは至らず。憎々しさを出そうとすると語りが重くなるし粘ってしまう。吾妻・与五郎は声柄がちょうど合うということで貴・呂勢。まあ、そういうこと。長吉は緑と同断の津国。それに輪をかけて固い硬い堅い。それらを長五郎の相生と三味線の喜左衛門とでまとめあげるわけで、と、御苦労様でした。
「引窓」
さすがは小松。マクラの「今は妻のみ生き残り」の語り方から始まって、長五郎の述懐から「俎や…欠椀」と続く眼目の所まで、紋下格切場の端場として文句の付けよう無し。病なくば既に切場をも任せられように、それでも与えられた役場をきっちり語りこなすのは、さすがに越路の一番弟子。清友もそんな小松をよく支えた。
切場の住大夫は後半にたっぷりと中心を据えた語り方。たしかに長五郎と母親との愛情が主眼であった。三味線の錦弥もよく応えていた。ただ前半が緊張感とダイナミズムに欠け、間と変化に不満感が残ったのは、やはり付いて行くという三味線では精一杯の所なのだろう。致し方ない。東京公演で絶賛を浴びたこの切場、後半はその評に違わぬ出来だったかもしれぬ……。人形陣は端場から切場の前半後半すべて寸分の隙もない。文吾の長五郎も三人の人間国宝の競演の中にあって自然と芸が上がった。この人形舞台を脳裏に留めておいて復刻CDの古靭を聴くという贅沢が可能なのである。有り難い。浄瑠璃冥利に尽きる。
「橋本」
老人三人は出来たし、吾妻のクドキはうまく処理し、お照のカタい所も描出、と初役の切場は成功裡に終わった。中でも与五郎の個性が詞章とともに伝わってきたのがよい。「角にいの字で四角な長十郎見立てがきついかけうといか」「駈落ちしても口減らぬ面白病は一と盛り橙にてや直るらん」(なお、ここは原作の与五郎狂気の重要な伏線である)「旨し昼寝はわれらがお内儀様」「エヽそんな処ぢやないかくまうならかくまうとちやつと云ふてたもいの」「イヤコレわが身の事をおりや何にも悪うは云やせなんだ」等など、まことにどうも金持ちのぼんぼん、軽佻浮薄、単純小心。吾妻の母性をくすぐるのも尤も、またお関の性格育ちとは合わないのも無理はないと納得させられる。これが段切りですべて丸く収まるというのは確かに改悪。発狂してこそ与五郎だし、この「橋本」一段の意味あいが天と地ほどに異なってくる。これに関してはすぐれた考察もあり言及はこれまでとして、ともかく甚兵衛と吾妻の語りが眼目なのは百も承知の上で、そこだけに拘泥せず浄瑠璃一段全体として面白く聴かせてもらえたのが結構でした。三味線の清介は切場が自然体で勤まるようになってきた。深み幅切れ味情感などこれから楽しみにさせていただく。人形陣はそれぞれ相応の出来。切場の浄瑠璃とも相対した舞台であった。ただ、与五郎に関しては織大夫の語りに比してはおとなしすぎた。玉女のわきまえ方にはいつも好感が持てるが、今回はもう少し動いても遣いすぎてもよかったろう。
「宮守酒」
この端場もちょっと語りどころがある。御台若君に女之助と橋立の四人のやりとりが面白く、運びに間に変化にと気を配るところだし、そのあと監物太郎が戻ってからは打って代わって難儀思案の語り口と、それなりの技量が要求される。英大夫はひさびさの快打が出た。宗助も若手と呼ばれる腕は修了したようで、ともにこの端場の大事所を捉えてよござんした。
奥の太夫、この人が東風を語るとたっぷりとした曲節がまず結構、その次に情愛筋立てと聴き取っていくことになる。「爪先鼠」でもそうだったと思うけど。その分は玉男の新洞左衛門・文雀のゆうしでがツボを押さえた遣いぶりで支えていたし、一暢の女之助は単なる好色男に堕せず「三代相恩のお主に対して不忠不義天命いかで」と段切りにもある通りの若武者なり、文昇の橋立は一癖ある老女形女房役を描出、玉幸の監物太郎は孔明首をよく弁えて肚の据わったところも垣間みせていたしと全体の仕上がりが予想以上の出来。「月と雪との真中に」のゆうしでの出、初代紋十郎が素晴らしかったとあるが、文雀のも姿形結構でハッとさせられた。女之助との絡みから矢の根を突き立てての自害、父新洞左衛門へのクドキまで十分。とりわけ「皆これお前のお世話故と表向なる互ひの辞儀」の所が絶妙でゆうしでの「女」が感じ取られた。玉男の新洞左衛門はどこがどうだと言い始めたらすべてに言及しなければならないほどのもの。語りが俗に流れている所も玉男の人形を見ていれば大丈夫とだけ述べておきたい。一生夫は持たせたくない、ずっと手元に置いてとの心境は愛娘を持つ父親にとっては分かりすぎるほど分かるもの。しかも四十の時の子。鬼一の首は(も)玉男をおいて余人はない。三味線の清治は太夫の大音強声を活かしてやりかつ引き締める所は押さえてと流石でした。それにしても名人団平がこの切場を「淋しくてどうもならぬ。ガサガサして弾いていられぬ。」と駒大夫風に替えたというのだが、何のことか私如きには全く見当も付かない。このままで十二分に面白い浄瑠璃だと聴いたのだが。まあそんなことでは「お耳も聞えお目もよいかえ」と言われるのがオチだろう。
朝日の(植)氏はとうとう開き直ってしまった。なるほど、あれならば確かに一つの演劇評ではある。氏の「無知の知」には敬意を表したい。浄瑠璃も三味線も、人形さえただ一つの言及もないのだ。しかし、これで人形浄瑠璃評はなくなってしまった。その演劇が「人形浄瑠璃」である必然性は皆無だと宣言されたのだから。