平成六年四月公演

『妹背山婦女庭訓』


「小松原」
 松香は相変わらず。結局、発声練習のように、口先をア、エ、イ、オ、ウとはっきり形作ろうとするのはわかるのだが、いつまでも初心者のように口をひっぱったり、とんがらがしたりしているから、音が口先で粘ってしまって、耳にいやみにこびりつくのだ。一時の緑大夫がそうだった。もちろん、発声確かで分別し易いのがよい浄瑠璃なのは言うまでもない。しかし松香のようにいつまでも声の練習用の口さばきをしているのはどうかと思う。腹からの息を口先、口元でこねくり回さず、すっくり出すようにしよう。これは当然曖昧な発音をしろと言うことでは全く無い。とにかく、口をとんがらがしたり横に引っ張ったりし過ぎずに、まっすぐに出してみたい。貴大夫はもはや、言うも甲斐無き語り口だ。論外。この二人が久我之助と雛鳥のラヴシーンを語るわけだが、清新さに欠け、ねちゃついている。南都、文字久、呂勢は今後も練習稽古に励んでもらいたい。いい調子で行けてます。今の所は。油断の無いよう、日々浄瑠璃漬けになるように。趣味は?と聞かれて、大正昭和の名人の浄瑠璃を聞くことです、と臆面もなく答えられるようになれば一人前だろう。新大夫は表面だけ繕って浄瑠璃もどきにしないように。それこそ、君こそ松香大夫のように日々発声、初心忘れず大きな声でまっすぐ語ることをお忘れなく。浅造は重造を嗣ぐべき何ものかを持っているとは思うのだが…

「猿沢池」
 個人的には津国はいいと思います。あの一本硬い調子ながらまっすぐなのがよい。情とか奥行きとかは年齢と稽古とともに伴って来るものだろうから、このまま素直にまっすぐ語るべきだろう。清太郎はなるほどよく弾ける方だとは思うが、どうももったいぶって弾くのが難。今からこんな風に弾いてると、嫌みのある偽上手三味線になる危険がある。間・足取りともったいをつけるのとは全くの別物、などと清太郎は百も承知のはず。おまえに言われる筋合いはないと怒るだろうな。

「鹿殺し」
 御簾内も最近は珍しいようで(通し狂言がほとんど無いことの証拠)、お客さんが興味を示してました。内容にではなく。あと鹿のぬいぐるみと芝六が鹿を見事に肩に担ぐとこと。客席から歓声が湧いてました。

「掛乞」
 マクラの地がこちらにすっくり入ってこないというのは、三輪大夫にとっては痛いところ。腹筋を鍛えて発声の基本から練習を。大学出の大夫は…とはいえ、住さんとは幼少時の環境からして違いすぎる。今はまあ、詞がちょっと面白いのと、声が高いところへ届くということから重宝がられているが、これから立端場へと進んでいくとなると、このままではおいそれというわけにはいかんだろう。腹薄いから技巧で勝負云々はまだまだ先の話。詞の面白さは詞の技巧に頼るとかえって面白くない。今回の掛乞、三輪としてはしめしめと思ったであろうが、結果はどうも面白くなかったようだ。清二郎は軽々としていい。やはり血だろうか。

「万歳」
 最近好調の緑と堅実さに加えて誠実さが音を好ましいものにしている弥三郎のコンビ。なるほど、これなら一通り万歳になっていた。ただ、天智帝の「いしくも祝しつる物かな〜暫し入御なし奉る」のところが不十分。ここが聞くものの胸に迫り、心に入らないと、天智帝のこの浄瑠璃での存在そのものが希薄となり、おまえがあほやから入鹿に位とられてみんなが苦労するのやないかということにもなりかねんぞ。ここは掛乞の続きとはいえ、にわか御殿の間に合わせ万歳です、はいおしまい、ではすまないのだ。とは言うものの、前述のところがしっかりストンと語れたら、これはもう次の芝六忠義を語らしてもらえる実力の持ち主。さあ、緑も弥三郎もこの一山が越えられるかどうかが大事の修行場。日々稽古に稽古を重ねたら、ある時パッと成長した姿が見えるもの。二人とも2、3年前と今とでは違うもの。それを思い起こして、努力、努力。

「芝六忠義」
 まずテキストから。最初の三作と杉松とのやりとりは完全復活するべきだ。というのも、このままでは三作が犯人となってひったてられるところと杉松を殺すところでの二人の存在感がはなはだ希薄。要するに封建時代お定まりの犠牲者としか捉えられないのだ。それに現テキストの上でも矛盾がある。「と透さるるのも透すのも年より賢杉松が」のところ。一体何のことです? 全く意味不明じゃないですか。駄賃をやるやらん、硯と筆の万感の重み、それをひったくって遊ぶ弟、そして遣いにやらす兄、等など。このやりとりがあってこその「透さるるのも云々」でしょう。どうしても今のままにしたいなら、「そんなら合点ぢや往て来うと状懐にちよかちよか走り」とするより他に手は無かろう。(しかし、なお、「そんなら」とは一体何が何なんだと不明のまま残る)当然完全復活してここの兄弟のやり取りを退屈させず聞かせるのは大夫の役目。次に咲大夫。「今は草木にも心置かるるこの時節」はやはり沈んだ愁いを持った語り口にすべきだろう。直前のいい音遣いの部分がそれでこそ活きてくる。そして次の「すはと言はば用捨はならず」の変わりが鮮やかになるというもの。今回の語り口では、“天智帝が采女采女とほうけて盲目になったさかい油断のならん窮屈なことになってしもた。まあ、この淡海と鎌足父ちゃんがおるから何とかなっとるけどな”と愚痴ともぼやきともつかない、探偵か警察の見張りみたいな言葉になってしまった。“ああ一天の帝、万乗の君が、おいたわしや”との無念悲哀の心情がここで語られないと、ますます天智帝はしょうもない暗君以外の何物でもなくなるだろう。そして淡海の人品の貴賎にまでそれは関わってくるだろう。あと、興福寺の鹿役人の言葉がどうにもこうにも人物造形不分明で宙ぶらりん状態。何といっても南都興福寺の僧兵、かしらも端敵、少々の色づけはあった方がと思うが。無論こんなとこで気張るのは邪道。しかし咲さんならうまくやれるでしょう。詮議の役人と同じ者が二度出たような感じにしか聞き取れなかったから。あと、三作が自首して捕らえられてからもう一杯に語って悲哀も十分に出しているのだが、ずーーっと突っ張っているものだから、肝心の芝六とお雉が各々胸に思いを持って夜明けを待つというこの一段のクライマックスのところが活きていない。「どうぞこの夜が百年も」が応えてこない。そうすると、大事の言葉の「胸の巷の色々に嬉しいも六つ悲しいも六つ無量の物思ひ」この千金万金の価値が半減してしまっていた。山がどこにあるのかわからなくなってしまった。最後に鎌足の出からが至らなかった。張りと気品が不十分。卑俗さが見えて、孔明のかしらでこの物語のすべてを悟っている人物=鎌足の格とは異なっていた。春日村の有常にしろ、由良之助にしろ、人の命を平気で取って、しかしそれが俗物の考えを超越した天上の運命、物語の完結性として、全面的に納得させられてしまうという、その神格的ともいうべき人物性を語ることは甚だ困難だとは十分承知している。人形も玉女は決して悪くない。いやむしろよく遣っているのだが、如何せんこんなものは、今の文楽では玉男以外誰も遣えまい。(とすると今回人形役割したのは誰か、ということにもなる。鎌足の存在意義をまるでわかっていないということか。まあ、人がいないということだけはわかっています。わかってますが、この鎌足をチョイ役にすると、芝六忠義が、二段目が、そして妹背山全体の物語が破綻する。玉女でもです。簑太郎でも。神性の風韻を出せるのは玉男以外にはいないのだから。)心中に深い慈悲と哀愁があるなどということは今更言うまでもないことで、それを表に出すようでは孔明のかしらとしては失格なのだ。人間世界を越えた天、宿命、神というところへ唯一届いているのが孔明のかしらなのである。それ故にこそ、鎌足が捧げた御鏡の光で天智帝の目も開くわけで、誰でも光が当たる角度に掲げたら目が開くわけでは決してない。それなら検非違使かしらの芝六がやればいい。鎌足以外の誰が言っても「天より地中に落ち給ふ」「御目もまさに秋の田の」云々は、駄洒落悪ふざけの地口にしかならないのだ。鎌足がすべて。この最後を収め損なうと、芝六忠義一段は、酷い犠牲非人間性の上に成立する封建社会の典型的物語としてしか捉えられなくなるのである。人間世界を超越するのと非人間的とではそれこそ天と地ほどの開きがある。地中に落ちた天智帝が天の位に戻るとき、この物語一段もまた天の配剤の下に完結するであろう。浄瑠璃文学の発生起源・系譜の根源にまでつながる部分を、この芝六忠義は抱えているのである。とまあ、これが体現された語りが出来たら立派な紋下ですよね。富助は鎌足の出から段切りへの三味線に大きさと幅が出ているのに驚いたとともに喜べた。切っ先の鋭さ気合いは上々なだけに、浄瑠璃全体が大きくなる三味線が弾けたらとつくづく感じる。

「太宰館」
 なるほど、入鹿も今は天子だから相応の品格が必要なのはわかる。が、この英大夫のように処理してしまっては全く面白くない。この立端場はいいところでもうかる役場、私自身も好きな楽しみにしている段なのに。言葉は慎重だが緊張感に欠け、それは大判事も定高も同じこと。だから「互いに折れぬ老木の柳」が応えない。口開き文七の入鹿のかしらも表現不十分で、玉幸がなかなかきっちり遣っていたのも水の泡。「飽くまで邪智の一言に」とか、「入鹿が威勢ぞ類ひなき」「大地狭しと馬上の勢ひ」など、横紙破りの入鹿の感じが語られていない。とはいえ、英の持ち味はまた別にあり。万歳の緑と選手交代したらよかったのに。「落花微塵」は入鹿のただの短気ではないぞ。「親親の心も共に散乱せり」なのだから。入鹿がどれほど恐ろしい悪の威厳を示しているか。あの大判事と定高の心中を吹き荒れる嵐としては物足りず、コップの嵐程度のものでしかなかったのでは、英の浄瑠璃は。清友は英の邪魔にならぬよう弾いていた感じ。(まあそれが女房役として当然と言えば当然だが…)とにかく今回は私個人としては面白くなくがっかりであった。確か前回の相生−清友のときはそれなりに満足したと記憶しているが。

「山」
  紅白幕を電動で引っ張り上げるのは賛成しかねる。いや大反対だ。紅白幕は、切って落とすから、一瞬の内に、眼前に満開の桜、中吉野川、左右の館が視界に飛び込んできて、そこにこそ意味がある。切って落とさないなら紅白幕をする意味が無い。最初から見せておけばよい。切って落としたときの客席の歓声、どよめき、拍手するお客もある。普段目立たない道具方の顔に笑みが浮かぶ。どうだ見てくれこの大道具を。そんなこんなをすべて無にする電動昇幕。なぜ幕を張るのかという原点を忘れた形式主義の弊害がまたここにも一つ有明の月もはかなき文楽劇場、哀れにも又悲しけれ。呂大夫はいい。ほれぼれするほどいい。今回はピタリです。「久我之助はうつうつと」「案じ入りたる」「物思はしい」の所、呂大夫の語り玉女の人形とも清新な中に若男の色気ある愁いの姿表情をよく表現していた。一方の雛鳥はと言うと、嶋大夫の語りが卑俗だ。切語りになって張り切っている(今回の昇進は納得できる。あの十種香、あの尼ヶ崎をあれだけ語れたのだから。)せいか、勇足で品と趣が飛んでいる。侍女はなるほどあれで良かろう。しかし雛鳥は、いくら内々で気心の知れた者との気楽なおしゃべりとはいえ、振袖の武家の姫、あの定高の娘としての人品が語られていないと聞こえた。久我之助の造形が見事なだけに女のはしたなさ、醜さの影まで見えて来るようで少々不快の念を持ってしまった。久我之助(玉松の方は持ち役だから、今回は代役玉女で書く)は「善か悪かを三つ柏」の所、姿・形・動き・心、父を思う情が身振り手振りの人形遣いの中に見えた。呂大夫も言うことなし。「い・だ・き・あ・ひ」の所、互いの恋の初々しさが表現されていた。嶋もここは良かったが、やはり艶がありすぎた。久我之助の方は抜群。次の「この山奥に隠れ住み」「思ひやられよ雛鳥」「世を恨み泣き」と絶妙。清介も響きよく豊かな音。ただ、少々大切に弾きすぎて清新さ初々しさがもう一息。一暢は品良く遣うのだが、このところずっとかしらが小刻みに搖れるのは如何。どうしようもないのならそれを乗り越える腕と技を望む。あと床の嶋大夫と一暢とでは雛鳥の描出にスレ違いがあって、錦弥もさぞ弾きにくかったろう。はんなりと快速に弾く心持ちは見えていた。さて、大判事の織大夫は、語尾を伸ばし気味にもっていくから、ははあ、これは対岸の定高に呼びかける心かと感心していたのだが、館の中で久我之助に呼びかける時も同じ調子だったから、なんや、息がつんでないだけやとがっくりした。あれでは大判事の制御された胸中、鬼一のかしらが表現されない。作十郎と共に、久我之助の首を切り損ない、本心が溢れ出るようになってからの方がしっくりきた。前半の間がもてていなかった。とはいえ、ここも前半の大判事が語れたら紋下、遣えたら座頭ですけど。住大夫の定高は上々。前半も後半も、とりわけ、「入内させよとありがたい勅掟」の言葉の端に本心をにじませたあたりから、心中の涙は聞くものの胸に確実に応えてきた。一方大判事は「やや打ちうるむ目を開き」といよいよ色外に現れることになるのだが、その前と後とで変化が見えなかったのはいただけない。やはり前半の締りが不足しているのだろう。そして雛流し。娘の首を切り、息子は切腹し、愁嘆場の後の観客の胸中にもぽっかり穴の開く、そこに哀調の旋律が万感の思いを底にさらさらと語られると、思わず知らず涙が流れて来るのは、これこそカタルシス。良くできてます。住−燕三はここもうすこしふくらましてもいいのでは。このお二人なら決して振り回していい気になる心配はないし。少々線が細かったか。しかしここで涙を流せたからは、今回来た甲斐があったというものです。文雀は前半にあと少しの気丈さと、後半にあと少しの情の色付けがあれば。しかし結構でした。住−燕三とのコンビだから。

「三番叟」 
  全くもって結構な三番叟で、これくらいの厚みでメインの「妹背山」の方もやれてるのなら万万歳なのだが。大夫・三味線は言うことなし。清介は景事になると一層良く聞こえる。二枚目以下も十分。人形は、千歳は久我之助と同じく若男の清新さにみずみずしい色つやと品が加わって絶妙。景事であるから滑らかな遣いぶりも好ましい。翁の神韻については言うもさらなり。尉はどちらも乗りが今一つ。三味線がぐんぐん来ているのだが、ついて行くのがやっとという感じ。しかしこれでこそ途中の息切れが本物に見える。これまではのんびり弾きすぎていた。とはいえ、白尉の実直さと黒尉の滑稽さとは表現されていたから、悪くはなかった。

「井戸替」
  良いです。好きです。特に公演後半は(いつものことだが)客席の乗りもよく、いい気分になれた。堀川と十種香のパロディーも私個人としては楽しめた。(客席のほとんどが知らんぷりなのは時代の流れ。しかし、江戸明治大正そして昭和30年代までの文楽座での客席の受けを想像すると、いささか悲しくもなる。三業の方々、ちゃんとここを楽しんでる者もいますから、どうぞそちらも存分に楽しんで演じて下さい。)

「杉酒屋」
  子太郎が門口で蚊柱相手に箒振り回す所作もいったいどれほどの人に理解されているのか。と、又時代の流れ、というより、昭和40年代をもって断絶した日本の伝統というものへのたまらない思いがこみ上げて来る。アメリカがいかに伝統を作ろう、何かあると記念碑や記念行事をしたがるのを知っているのか、日本人は。国立文楽劇場さん自身が二言目には新しい時代新しい文楽とおっしゃいますが、基本の所をお忘れなく。さて、三味線はもう少し気を入れて丁寧に弾いて欲しいのだが、何せ喜左衛門という大看板だから、私には言うべき言葉もない。小松大夫はさすがに底力を発揮して、聞かせ所仕所の多い杉酒屋一段、丸まるやってのけたといっていいだろう。さすが越路の一の弟子。それにつけても、やはり杉酒屋は魅力ある一段ですな。簑助のお三輪はいわば現代的写実主義とでもいうべきもの。簑助はやはり在所の娘が一番いい。現代写実性が最もよく映えるから当然だが。

「道行」
  玉男。勝頼といいこの求女といい、すばらしいですね。かつて文五郎があの年で娘や姫を見事に遣ったのと同様、高齢の玉男の若男も又絶品。文七とかは指導的立場で後見になり、孔明とか鬼一とかも宜しくお願いします。ここの嶋大夫はあれでいい。お三輪が簑助だし。千歳大夫は練習の成果は上がっているものの、如何せん道行の橘姫は荷が重かった。あの源太夫はSPでしか聞いたことがないが、あの声あの節回しあの間あの足取りで、道行の橘姫絶品とおはこに決まったことに比べると、千歳を責めるのは酷だろう。しかしこれも試練、修行。英大夫も道行の二枚目としてはどうだろう。ここが三番叟ほどの陣容でなされないのが、今の文楽の人手のなさ。コンパクトな道行という感じを持たざるを得なかった。もちろん決して悪くはないですよ。ただ、道行はその先というかそのレベルを越えたものが必要だと言うこと。ここを楽しみにするお客を満足させられればなあ。

「鱶七上使」
  団七も津大夫と死に別れてみると、大きくしてもらっている途中だったということがよくわかる。伊達大夫が相手ならここはもっと乗っていかないと。「己が不徳を押し登る」「むんずと座せし有様は」まで、下手から出て台に登る遣い方、結構です。玉幸も太宰館の不完全燃焼をここでうっぷんばらし。いいですよ。伊達は官女たちが出てきて、地になるとさすがに聞き取りにくく、つまらなくなるが、入鹿と鱶七のところは面白く上々。とすると、やはりここも全段通して聞かせられる力とは相当なものが必要とされるわけだ。うんうん。奥の深いは浄瑠璃の道。文吾は金殿のお三輪を刺し殺してから先、金輪五郎と正体明かすところがまだ力不足で不満が残るが、この鱶七上使一段はよく遣って結構でした。

「姫戻り」
  若手ホープから中堅のちょっとした語り場。津駒大夫はさすがに語れる。団治も第一ハードルはクリア。ただ二人とももう少し軽くやりたい。仕込みすぎ。橘姫としては入鹿誅伐まで通してもらわんと何とも遣いにくい。このあとで姫の侍女たちが勝手とはいえお三輪をいじめ倒すのだから、ここで少々誠意を表したとて焼石に水。求女も淡海としての厳しい立場を見せるわけだが、この短い一段でその描出は至難の技。結局はお三輪に食われておしまいになる。からといって力を入れて芝居がかっては、途端に臭くなって、井戸替からの四段目の素晴らしい流れに水をさす。大正期に古靭太夫が三代清六とのコンビでこの姫戻りを軽がるとやったとの記述があるが、どんなだったのだろう。おそらく姫戻りの理想だったろう。津駒もそろそろ、安心して聞くものが身を任せられるような語りになって欲しい。あと一歩だ。

「金殿」
  どうも不幸なことに、この金殿がすばらしい一段だとの印象を持った経験がない。いったいこの金殿は四段目切としては短いもの。豆腐の御用のチャリはあれはあれで、導入の役割でしかない。大物が付き合いで遣うもの。面白いがそれまでのこと。そして気が付いたらお三輪が躍っていて、怒ったかと思うと、刺されて死んでしまう。とするとこの一段はとんでもない切場だ。お三輪の人形を見てたらいいでは済みますまい。そこで少々考えてみる。「いきせき」「切れくさつた」「これ見よがしに往んで退けるが腹いせぢや」とお三輪の溢れ出る思いの表現、町娘としてのそれである。ところが「はしたない者ぢやとひよつと愛想をつかされたら」との思いもあり、そこへ官女の登場である。地下と堂上の懸隔、越えられない境目。必死に言い訳するが、それがかえって地下の女子のぼろを出す。悲劇の始まり。ここまできっちり語っておかないと、すぐあとのなぶりいやみがきかない、となると、お三輪の悲劇も伝わらず、犠牲の聖化も完結せず、金輪五郎の見現しも拍子抜けとなる。ところが太夫は一本調子、簑助の写実と乖離した重い語り口。地下と堂上の不分離。落差のエネルギーがお三輪の「竹に雀」を胸に応えさせるのであるのに。なるほどちよっとは可愛そう、しかし、「血の涙」「泣いじやくり」「涙に絞る」との表現が言葉だけでなく真実のものとして捉えられるか。ここのお三輪で観客にも涙の袖を絞らせるのはたいていではあるまい。とはいえ、それができぬと、刺された後の「さも忌まはしき」という疑着の相がほんまかいなと見ている方が疑着の相になってしまう。「それでこそ天晴れ高家の北の方」とは並み大抵では言われません。正真正銘凝り固まった恨みの念になったればこそ、お三輪の死は堂上雲上天上世界回復の手だてと昇華されるのだ。団六はスタンダードに堅実に弾いているし、どうも三者三様、確かに簑助のお三輪は目に焼き付いたが(とくに左遣いが抜群の働き)金殿一段の成功はと言うと、文吾のいま一つ雄大さに至らない金輪五郎もあり、ううむと首をひねってしまう。そうすると、摂津大掾の極め付けの金殿とはどのようなものだったのか、空恐ろしくなってくる。今回はこれで打ち出しでなく、入鹿誅伐まで出すべきだったろう。何かしら空虚な思いを抱いて劇場を後にしなければならなかった。つまり、物語の完結性をもって、浄瑠璃の不完全さを補うという演出方法である。(もっとも、金殿に追い出しをつけてしまうと、太夫は紋下格ということになってしまって、これはとんでもないことではあるのだが。)

  (追伸)
    地下鉄日本橋駅から地下通路を通って劇場へ出るあの登り階段。なんとかなりませんか。多くのお年寄りが大変しんどい思いをしてはります。エスカレーター化していただきたいもの。あの階段はほんとに酷ですよ。こういう所に優しく気のきく国立施設であってもらいたいものですな。