通し狂言『義経千本桜』
第一部
「仙洞御所」
黒衣の人形が登場しての拍手には違和感しかない。前公演でも述べたが、この無駄な拍手は何とかならないものか。芝居の流れをぶった切る以外のなにものでもない。劇場側から直接に注意喚起すべきものである。見せ場や聞かせどころで手が来るのとはまったく別物である。それらは流れに乗っていてむしろ心地よいものだ。往年の公演記録を見れば一目瞭然である。これらの的を射た拍手は公演のライブ録音を聞いていても明瞭であり、舞台の様子がそのまま目に浮かんでくる。とにかく登場時の拍手を何とかしなければ、文楽は滅びの道を歩み続けるに違いない。事は左様にも重大なのである。
さて、大序は御簾内の修行場であるが、織栄はまだ手探り状態、碩が合戦の様子を語って一日の長、薫は不安定さがあり、聖は真っ直ぐによく通って確実な語りを聞かせた。三味線はラストに力感があった。人形は義経の簑二郎がこの大序から始まって四段目まで常に狂言廻しとしてそれぞれの場面に似付かわしい遣い方をして十全であった。
「堀川御所」
藤に燕三、川越太郎の実直は伝わってきた(人形は玉志)が、義経との緊迫感や卿の君の悲哀は届ききらなかったというところだろう。なお、この一段については次の記述が存在する。
「対談〈義経千本桜〉よもやま話」(竹本綱大夫/安藤鶴夫・『歌舞伎公演プログラム』国立劇場大劇場、昭和四十三年三月)
安藤 まず序幕の「堀川御所の場」ですが――。
綱大夫 いわゆる序切(じょぎ)りでございますね。浄瑠璃の方では、川越上使≠ニいうんです。
安藤 川越太郎が頼朝の上使となってでてきますね。
綱大夫 はい、大へんにいいもんなんです。
安藤 聞いたことないんです。
綱大夫 序切りの中でも大物でしてね。
安藤 その序切りというのは、義太夫節の方でどういうことになりますか。
綱大夫 初段の結びです。初段としての切り場ですから、おもしろくって、それなりに重いものです。私の耳にあるものでは盲人の駒大(ママ)夫師がやりました。よかったですよ。序切りというと、まア三段目、四段目からみれば軽いのですが、その序切りでも、こんなにいいものかと思いました。
安藤 なるほどね。
綱大夫 『菅原』の伝授場≠ルどではありませんが、まずそれに次ぐ位の語り場でしょうな、とてもおろそかには扱えないものなのです。
安藤 川越太郎が鎌倉の上使としてやって来て、義経が頼朝にさしだした知盛・維盛・教経三人の首は偽物じゃないかというわけで、それから、その偽首のひとりひとりが、このあとの段にときほぐされていきます。知盛が二段目の「渡海屋」に、維盛が三段目の「すしや」、教経が四段目の「河連館」に、ということなんですが、こういう脚本のコンストラクションの糸口が、この大序にうまく展示されてあります。大へん大序らしくっておもしろいと思いますね。
綱大夫 この序幕で面白いのは、弁慶が義経に叱られて、ご勘気をこうむってるんですね。そこで静に詑をしてもらうんですが、弁慶が義経の前に来るのに、「こわい、こわい」というのです。この語り場を、吾々の符帳ではこわい、こわい≠ニいっているのですが。そこで弁慶が赦(ゆる)されたところに、頼朝の討手がでてきて、戦いになって、土佐坊の首を切るという手順になります。
安藤 そこで義経は、もう兄の頼朝とは、とても仲良くやってはゆけないと考えて、都落ちして行きますね。弁慶が、その後を追っかける……。
綱大夫 そうです、弁慶は都落ちすることを承知しないんです。ひとつ俺は、鎌倉勢をひとあわふかせてやる、というわけで、土佐坊が乗って来た馬に飛び乗って、「助けてくれ!」と叫んでいる土佐坊の首を引き抜いて、それから「義経(ぎけい)の跡を寅の刻、風を起して追うて行く」と義経の後を追うわけです。このところもうまくやれば、歌舞伎でも、とても面白いと思います。これが、「御ひいき勧進帳」にでてくる「芋洗い」のように、鎌倉の追手勢の首を薙刀で切り取って、桶の中でかき回すところがあるんです。
安藤 そういうところを、文楽では、べつに何でもなくやっていたんですね。つまり、特別、研究劇だというふうにカンだりなんかしないでね。いつ頃迄やってましたか?
綱大夫 御霊の文楽座時代迄はでていました。「菅原」の築地(ついじ)の源蔵のところや「仮名手本」の裏門と感じがよく似たところで、とても面白いところです。三味線も弾きまくって――。
跡については次の記述をご覧いただきたい。論文からの切り取りで長くなるが参考に供しておく。
〔別表〕は、『千本桜』の序切「堀川御所」およびその跡について、上演年月順に明治初年から現在までを、劇場、段書、段割、太夫に焦点を当てて一覧表にしたものである。ここでまず気付くのは、大正十四年三月から昭和四十五年四月まで序切「堀川御所」の上演が絶えていることである。しかも、その前後を見れば、それは上演頻度が低下していたことによる必然的なものではないことが理解できる。これは、「通し」上演という人形浄瑠璃文楽が守り続けていた規範的形式が崩壊したことによるもので、大正十五年に御霊文楽座が消失し、弁天座での仮興行を経て、昭和五年に四つ橋文楽座が開場して以降の事態なのである。したがって、ここでの検討も、まず明治・大正期を一貫して考察した後、昭和四十五年の事実上の復活上演以降について見ていくことにする。
一見してわかるように、跡が序切から明確に分割されており、例外はわずか四例である。しかも、その場合においても道具返しつまり場面転換が行われていたことは、明治四十三年御霊文楽座での上演の際に「大新の大道具帳」に記載された「同返し」とある場面図からも確実であろう。また、段書きされている頻度も高く、その際の段名は「奥庭」または「夜討」と、大きく二通りに分類することができる。前者は主として彦六座系(名楽座・堀江座)であり、後者は文楽座系であるが、前者の衰退によって、大正期には完全に「夜討」と統一されるに至っている。「奥庭」とは、弁慶が立ち戻った場所、つまり堀川御所の奥庭を示しており、「夜討」とは、切ですでに事は起こっている状況ではあるが、実際の立ち回りを弁慶を主体として見せることにより、そのダイナミズムが直接伝わる一段であるということである。しかし、この両者に実質的な差はなく、詞章はもちろんのこと、舞台面の演出においても、前述の「大新の大道具帳」を一例として見れば、「夜討」が「奥庭」を場面として行われたものであることが明確になる。別表の明治二十五年三月御霊文楽座「夜討」、同三十年同座「土佐坊夜討」、同三十八年同座「夜討」と段書きのある上演の書割を見れば、いずれもそれが堀川御所奥庭の書割となっている。正面奥に門扉と築地塀、その前に松、下手は築地塀、上手は館がそれぞれ遠近法をもって描かれ、真ん中に奥庭が広がっているというものである。要するに、江戸後期に序切の跡として分割され、明治初年には段書きもされて分離独立した『千本桜』序切跡は、切の舞台である堀川御所の奥庭において、夜討という不意打ちに弁慶が一矢報いる豪快で解放感ある一段として、上演を重ねられ完全に定着したものなのである。節付けも、当時の録音は残されてはいないのだが、三代鶴澤清六が福太郎時代の明治十八年三月御霊文楽座において書き留めた朱が残っており、跡への転換となる詞章「是非もなき」に「三重」と記され、場面転換ならびに床の交替に対応していたということが確かめられるのである。このように、序切から跡へと場面は変わり、太夫、三味線も交替する、これが明治・大正期という近代人形浄瑠璃文楽黄金期の上演を通しての事実であり、真実の「正しい演出法」だったのである。
ところが、この「正しい演出法」は前述の昭和前期四十五年間という断絶の中で継承されなかった。厳密には変容したと言うべきかもしれない。昭和四十一年の国立劇場開場は、人形浄瑠璃文楽の上演形態にも大きな変革をもたらした。それは、「通し上演」をその基本的スタンスとするというものである。原点回帰と言ってよいだろう。その中で『千本桜』も、開場四年目に通し上演された。このときは、別表にもあるように、序切「堀川御所」として跡も含め一段としてまとめられ、節付けも三重ではなく丸本初板に記載通りのフシとされたが、跡に至る部分で道具転換の柝が入り、背景幕が下ろされるという場面転換は行われた。ところが、描かれた舞台背景は築地塀と門扉の外側、つまり「塀外」であって、これは前述の明治・大正期の上演において定着していた「奥庭」とは異なっていたのである。これは以後の通し上演でも踏襲され、昭和五十六年からは「跡」として独立するとともに太夫も交替することになるが、節付けは太夫交替を意味するヲクリとされ、清六の朱にも明記されていた「三重」とはされなかった。その際、背景幕は大道具の舞台装置となり、正面に門扉、その両側に築地塀という形で現在に至っている。これは、通し狂言としての手本となる明治・大正期の上演形態についての検討が不十分であったと言わざるを得ないし―当時はこの御霊文楽座を中心とした黄金時代を経験し記憶している技芸員も多く存在していた―、直近に上演された歌舞伎公演の演出を安易に転用したまま、それを踏襲したものと責められても致し方ないであろう。つまり、昭和前期の断絶後に上演された『千本桜』の序切跡は、明治・大正期に確立していたそれの復活上演ではなく、昭和四十五年の通し上演を原点として新たに誕生したものと見られるのであり、その結果として、「正しい演出法」ではないと指摘されることになるのであった。
今回の担当は亘と友之助であったが力強さは出ていた。しかし面白いというには至らず、これは序切跡に関する考察がまだ不十分であるからであろう。人形も弁慶の玉佳が荒物遣いにしては大きさが不足していて、見ていて痛快と言えるには程遠かった。次回上演の際には「正しい演出法」による序切跡となることを期待する。
「伏見稲荷」
ここは変化に富んだなかなかに面白い一段である。まず義経一行の憂いに始まり、続いて静の愁嘆、そして弁慶の一件があって、再び静の愁嘆、そして端敵の登場によりユーモラスともなって、いよいよ忠信が登場してくる。立ち回りもあるから見ていても楽しい。ここを希と団七が受け持つのだが、どうにも平凡かつ平板であった。
「渡海屋・大物浦」
この口は量的にも多くなかなか語り応えのあるところである。若手としてここを語らせてもらうと有り難いことこの上ないであろう。小住を清馗が弾くがよく語り弾いていたという印象であった。ただし、最後一音上がってからの晴れやかさには不足していたが。
中を芳穂と錦糸。大きく勇壮に出来た。時間的には短いが人形と相俟って耳目に心地よいところで、結果として成功裏に終わったと言ってよいだろう。
切場は錣と宗助。この二段目切場は途中までがなかなかの難物である。後半で知盛が登場してからは派手に進められるから観客も退屈しない。その前の典侍局と安徳帝との箇所が長くて地味であり難しいのだ。今回はそこを丁寧に語り弾いて観客を引きつけることが出来ていて、その意味からうまく難所を切り抜けたとしてよいだろう。人形の和生師の気品が優れていたということももちろんあるし、安徳帝の簑悠もそれに一役買っていたとしてよいだろう。後半は前述の通りで普通にやっていれば儲かるところだが、どうにも大きさと力強さが不足していたように感じられた。勇壮かつ豪快にやってもらわないと面白くない。人形の玉男師の碇知盛が印象的であったがゆえに、余計に床によるバックアップの必要性を感じたのである。知盛の述懐が壮絶なものにならないといけないのだ。
第二部
「椎の木」
口を咲寿と団吾が勤めるが明快に片付けた。
奥は三輪と清友であるが、地は相変わらず不安定で弱く完成度に欠ける。詞はそれに比して得意とするところでそれぞれの登場人物によく映っていた。いがみの権太の性根もそれなりに描出できていたように思う。
「小金吾討死」
掛合。津国はそれなりで突っ張りはきく。南都は以前から繰り返し言っているとおりこの人に女性は似合わない。文字栄もいつも通りだが老人なので何とかなった。薫はまだまだ修行中である。三味線の清丈はよく捌いていた。人形の小金吾は簑紫カであるが前髪立ちの若侍を好演した。
「すしや」
切場の前半を呂勢に清治師。三味線は世話と時代の変化その間と足取りが素晴らしく、それゆうに維盛と弥左衛門との一件が胸にストンと落ちた。もちろん、マクラのすしやの賑わい、お里の喜び、権太と母とのやりとりと手堅くまとめていた語りにも言及しなければならない。
内侍の出から交替して若と清介が勤める。続くお里のクドキとともに物足らないが無難には語る。その後の急展開も今ひとつ、梶原の出から権太の登場となって物語が進んでいくところはそれなりに進み、権太が手負いになってからはその述懐にしみじみとしたものが感じられてこちらの胸にも応えた。段切りの間と足取りが抜群であったことも付記しておきたい。ともかくもこの長丁場をダレないで収めたところを評価すべきであろう。
人形陣は弥左衛門の玉也と母女房の勘寿という燻し銀で固めてあるから心強い。維盛の勘弥にも気品があった。お里の清十郎は前半がとりわけ冴えており、クドキについては床の出来に左右されたので致し方のないところだろう。権太の玉助は端場から切場とさまざまな様態を示す人物の性根をよく捉えており、それぞれに納得のいく遣い方であった。梶原の玉勢も大きさが感じられた。
第三部
「道行初音旅」
綺麗に出来た。ということは豪華絢爛には至らなかったわけで、シンの織は悪くはないが大きさや幅や広がりという点に於いてふくらみが不足するところがあった。ワキの靖は依然として低音部に苦しんでいるが道行の何たるかは心得ているようだ。三枚目の碩は安定しているが線が細い。三味線は藤蔵がその中にあって華やかな奏演を聞かせ、替え手も派手で満開の桜とよく合致していた。二枚目の清志郎と三枚目の寛太郎もよく弾いていた。人形では勘十郎師の忠信に一分の隙も無いことは言うまでも無い。一方の静は一輔であるが流麗とか華麗とかという評言には当てはまらず、堅実という何とも色気のない言葉の方が適切であると思われた。これは故簑助師の静を見慣れていたというところからも来るものである。遣い方で一点気になったのが、扇を跳ね上げてキャッチする見せ場についてである。それがいかにもであったのだ。つまり、さあ今からやりますようまくいくかどうか不安だが怖々とやってみて何とかなりました、そのようなものだったのである。一連の流れの中で自然に行われたものでなく、いかにもそこだけ切り取ったかのようなもので、かつ扇の跳ね上がり方も十分なものではなかった。これでは興醒めである。やらない方がましであった。不自然極まりない遣い方であったのだから苦言を呈せざるを得ないのである。
「河連法眼館」
「八幡山崎」とも称される魅力的な一段、かつて駒太夫が勤めて楽屋をうならせた一段でもある。それを睦と勝平が担当するが、前半の静が登場するまでの男ばかりのところはそれなりに聞けたが、一音上がってさあいよいよとなってからはサッパリダメであった。想像していたとおりそのニンではなかった。これほどに役割を見て想像したとおりによくないというのも珍しいが、魅力を台無しにしてしまったのだから仕方がない。ここは以前に耳にしたもので言うと呂勢が錦糸の三味線で勤めたものが実に素晴らしかった。今回の配役で言うならば、芳穂錦糸がベストだと思われるが希団七というのもありかもしりない。ともかくも睦にここを割り当てた時点で失敗は目に見えていたということなのである。
切場は千歳と富助。狐詞は鋭角的ではなくおとなしい印象であったが、これはプログラムのインタビューでも述べていたように、「太夫が妙に入れ込んで語ると、お客様に引かれてしまいます」というところから来ている結果なのだろう。そのせいもあってか、三度目の述懐「親父様母様」以下がとりわけしみじみと心に響いてきたという点で、今回成功裏に終わったとしてよいだろう。静の地「かれが誠に目もうるみ」は観客としても同断であったわけで、詞章を見事に語り活かしたわけである。人形は勘十郎師の早替わりに尽きるが、最後の宙乗りで満開の桜を下に、金銀の紙吹雪を降らせるという仕方が秀逸で、実に美しく素晴らしい幕切れとなったのであった。