人形浄瑠璃文楽 令和六年十一月公演(初日所見)  

第一部

『仮名手本忠臣蔵』
「兜改め」
  碩はよく通る声、詞も明瞭。織栄は問題ない。聖は明確で張りあり。薫は標準的。亘は無難。小住は安定。三味線は燕二郎の響きが良く、清允が丁寧、錦吾にまとまりがあった。人形陣はそれぞれの個性を描出。修行の場としての大序が今も機能していることを感じさせるものとなった。若手がよく奮闘していたと言えよう。

「恋歌」
  睦は強さと落ち着きがあるが巨悪の趣は感じられない。南都は声色に陥らずに捌く。靖は勢いあり。三味線の団吾は確実であった。人形陣は後述するが、顔世の清十郎には気品が感じられた。

「力弥使者」
  省略されることの多い一段を出した功績は称える。希と友之助。下人を軽く捌いて、本蔵は「年も五十路の分別盛り」の詞章通り。人形の玉佳もよく映っている。戸無瀬(人形は簔一郎)は世話がかった感じがあり小浪(人形は紋吉)は純真。力弥は「故実を糾し」とあるように凜々しく描出。人形の玉翔が「さすが大星由良助が子息と見えしその器量」とある詞章そのままに立派な遣い方で際立っていた。眼目の梅と桜も初々しい二人の描出ができていた。

「松切」
  芳穂を錦糸が弾く。若狭之助は力感あるが源太カシラという点から見てもやや重い。「無念の涙五臓を貫く」とある詞はきっちりと描出出来た。本蔵は若殿に仕える家老ということで保護者的立場を明確に描き出していた。さすがは諸事万事を把握しており家老職とはどういうものかを如実に感じさせるものであった。人形も同断だが、最後の「戸無瀬は夫婦の縁を切る」との言葉に戸無瀬が無反応だった(小浪は「娘は勘当」にきっちりと反応していたにもかかわらず)のが気になった。

「進物」
  亘と清公。師直は重みがあり巨悪の兆しは感じられた。伴内は軽薄な感じを描写する。本蔵は落ち着きがあった。とりわけ、「手の裏返す挨拶に」とあるところの師直が活写されていたことが評価できる。

「文使い」
  睦と勝平。無難に仕上げる。人形の勘十郎師の勘平とおかるの一輔との恋仲恋模様が如実に伝わってきたのが印象的であった。それにしても、殿中刃傷の一因をおかるが作ったことがよくわかる一段である。

「殿中刃傷」
  呂勢と清治師。マクラが荘重、張り詰めた若狭之助もよく映る。そして「主従寄つてお手車」とある通りの師直の描写が見事、続いて「あてこする雑言過言」もできてこちらの胸にまでよく届いた。そして大笑いもよく語って客席から自然に手が起こっていたことは、実力の一端を示すものである。判官は「ムヽ」と堪えかねるところの描出が真に迫っていた。序切としては十二分な出来であり、切場語りの実力を備えていることが明白であった。もちろん三味線の指導によるものでもある。人形は師直が玉志だが巨悪とまでは行かずやや小ぶりな感があり、大舅カシラの真髄を描き出したとは言えなかった。若狭之助の文昇ももう少し一徹短慮が前面に出てもよかった。師直を是が非でも切り捨てねば気が済まないという思い詰めたところまで描出してもらいたかった。

「裏門」
  小住と清馗。魅力的な一段をそれなりに弾き語り果せた。語り分けによる個性化も一通りなされていたので標準的な出来と言ってよい。とはいえこの一段は何度となく聴き込んでいるところで、とりわけつばめ太夫を仙糸が弾いたSPが抜群のよさを誇り、下手な切場を凌駕する出来であったから、その序切跡の面白さを堪能させてくれた奏演と比較すると大いに不満が残る。もっともっと面白くできるはずだ。なお、序切跡については「文楽補完計画」中の論文三編において詳細に検討しているので、参考にしていただきたい(「三大狂言の序切跡 ―『義経千本桜』「堀川御所」を中心に―」http://www.ongyoku.com/hokan/jogiriato-horikawagosho_200901.pdf、「三大狂言「序切跡」の分析 ―構成と演出による―」http://www.ongyoku.com/hokan/jogiriato-kousei_201003.pdf、「人形浄瑠璃における「序切跡」についての考察 ―詞章内容および曲節の分析から―」http://www.ongyoku.com/hokan/jogiriato-naiyou_201004.pdf)。これらの考察が前述の優れた奏演を聞き込むことによって何らかのインスピレーションを得ていたことは確実で、すばらしい奏演に出会った場合、単なる鑑賞を超えてさまざまなことが脳内に湧き出してくるのであり、この「裏門」もその一つであったのである。劇評もまたそれと軌を一にするものであることは言うまでもない。とはいえ伴内に客席が沸いていたので、人形の簔紫カとともに評価してよいだろう。

「花籠」
  藤と清友。マクラが荘重、「事厳重」の詞章通りに活写した。九太夫に存在感があった。人形は勘寿。郷右衛門の誠実な一直線も届いた。人形は玉也。全体として大事な端場を丁寧に勤めたというところ。力弥の人形がやはり凜としていて印象的。顔世には登場時から憂愁が読み取れた。

「判官切腹」
  若に清介。荘重にして静謐、客席もじっと集中していた。上使二人(人形は簔二郎と玉輝)の白黒も確実に描写、判官は切腹が迫真で「通さん場」という名称を今更ながら実感させた。無念さ口惜さも客席へひしひしと伝わってきた。由良之助は「根ざしはかくと知られけり」とある腹芸を描出した。御台所の嘆きもよく届いた。床の実力がそのまま示されたと言ってよいだろう。流石である。人形も和生師の判官が気品もあって揺るぎなく、玉男師の由良之助も他には代え難い存在感があった。この両人は持ち役として完成形となっている。

「城明渡し」
  由良之助の人形が万全であった。無言劇だが心情がよく感じられた。薫と清允は一言だけだが筒一杯でよい。

第二部

『靱猿』
 別に忠臣蔵と関係があるわけではなく、時間調整のために持ってこられたものである。追い出しに付けたら客が帰ってしまうことも危惧してここに置いてある。今回の通しにおいてはなくてもよい演目である。女大名は希と紋臣で柔らかくそして権威も見せる。太郎冠者は咲寿と玉誉で明快。猿曳が藤と簔二郎で滋味があった。猿の玉彦は鮮やか。総体として踊りもしなやかでよく出来ていたとしてよいだろう。三味線も清志郎をシンに清丈以下よくまとまっていた。しかし感動には至らない。やはり夾雑物という感が否めないためでもあろう。狂言からの松羽目物特有の難しさも感じられ、まだまだ人形浄瑠璃として練り込まれていない感があった。当該物では『寿式三番叟』がやはりよく出来ており完璧な仕上がりで、『釣女』もそれなりに完成の域に達している。この『靱猿』は前半のやりとりがどこといって盛り上がるものではなく、猿の哀れさに感じ入って命が助けられるところで感動がもたらされるということでもなく、最後の御祈祷を楽しむというほどの見応え聞き応えがあるわけでもなく、ただただ話が展開していくという感覚が残るものとなってしまっている。「楽しうなるこそ目出度けれ」と詞章は終わっているが、さして楽しくもならず目出度くもなかったのであるから、竜頭蛇尾でもなく、蛇頭蛇尾としか評しようがないのではあるまいか。景事ならではの魅力というものが感じられなかったというところもマイナス点が高くなってしまうところである。すなわち、作が愚かなりとするかそれとも三業に不十分さを求めるか、いずれにしても、本作がこの後もいずれかのタイミングで上演されるであろうことを考えると、三業にはもう一度始めから本読みに本読みを重ね、工夫をして臨んでもらいたいと願うばかりである。

『仮名手本忠臣蔵』
「出合い」
 碩と寛太郎。二人の語り分けは、主人公勘平と血気の若侍弥五郎(人形は文哉)という対比で明確。勘平は「花を咲かせて侍の一分立てて給はれかし」との衷心衷情が如実に感じられた。聞き応えのある床であったといってよかろう。人形も同断。

「二つ玉」
 靖を団七が弾く。定九郎(人形は玉勢)は悪党の大胆不敵さを描出して納得、与市兵衛(人形は勘市)は弱々しい悲哀を感じさせた。ただし、芝居として面白いというところまでには至っていなかった。

「身売り」
 織と藤蔵。婆(人形は勘弥)がやや若いように感じられた。おかるは在所娘でも元腰元奉公ということがよくわかった。一文字屋(人形は紋秀)の出からは流石で得意なもの。勘平は前半は何心ないが、縞の財布からは詞章「肝先にひしと堪え」「二つ玉で撃ち抜かるるより切なき思ひ」とある通りの奏演で、こちらにもひしひしと伝わってきた。その後の「心を痛め堪へゐる」もその通りであった。一連の人形も印象的であった。

「勘平腹切」
 錣と宗助。忠六に名人なしの言葉をあらためて実感することとなった。全体的にするすると進んで、どこといって捉えどころのない感じでもあった。勘平が堪りかねて腹を切ることになる郷右衛門の「ことをわけ理を責めむれば」とある詞が今一歩。続く勘平の申し開き「血走る眼に無念の涙」とあるがここも今ひとつ。ただし三味線は問題なかった。婆の「目もあてられぬ次第なり」とある愁嘆も今一歩及ばなかった。ただし「我が望み達したり」とある勘平の詞は心情とともによく伝わってきた。何にもせよ時代物三段目切場を勤め果せていたのであり、全体を通してどこそこがいけない悪いというところもない、しかしながら感銘を受けるには至らないというもの。ということで、やはり忠六は難物なのであったと再認識したわけである。

「一力茶屋」
 まず明快な亭主(小住、人形は簑太郎)の案内に九太夫の三輪と伴内の芳穂のコンビが老獪さと軽妙さという個性を発揮して聞かせる。三人侍(津国・咲寿・亘、人形は勘次郎・亀次)の血気も伝わる。由良之助の千歳は酔態が巧みでよく映る。孔明首のつかみどころのない深遠さも垣間見せた。茶屋場の由良之助がこれほど語れれば、千歳も大した実力者である。人形も同断。平右衛門は織、人形玉助で真っ直ぐで一本気なところを活写する。力弥は碩で由良之助の子息だと納得できる若男。由良之助と九太夫の差し向かいに九太夫と伴内の掛合も興味深くかつ面白いものとなった。後半となっておかるは呂勢で伸びやかであり色気も感じさせた。人形も腰元、在所娘そして遊女と三態をよく遣い分けていた。由良之助とやりとりする場面も両者ともになかなかによく演じられていた。そして何と言ってもおかると平右衛門との兄妹の偶然の出会いから対面しての場面が全体として抜群の出来で、おかるが平右衛門に取り付くところで客席から拍手が来たのも当然と思わせるものであった。このおかると平右衛門の件は特級品であった。二人の衷心衷情が観客の胸へと確実に伝わってきたのである。茶屋場第一の見所聞き所となっていた。最後醒めての後の由良之助は国家老の格を見せてよくはまっていた。三味線は燕三と富助でともに切場相三味線格の実力者であり、その通りの奏演を聴かせた。今回茶屋場全体を通して芝居を楽しませてもらったと総括できよう。
 全体として今回の『忠臣蔵』通しは現在の三業の実力を如実に感じさせるものであり、満足と納得をもたらすものであった。劇場の椅子に座って一部二部通しての九時間があっという間に過ぎていき、舞台に集中することができた。これはもちろん『忠臣蔵』という作品がよく出来ていて独参湯と呼ばれるのがもっともというところはあるが、三業の実力がそれ相応にあるということでもある。ただし、鑑賞を超えてさまざまなことが脳内に沸き起こり、劇評の筆を進ませるというところにまでは至っておらず、その点においては残念と言わざるを得ず、今後に期待を掛けるという形でこの劇評も締め括るということになるのである。

 

 

【従是千秋氏評論】

休載