人形浄瑠璃文楽 令和四年十一月公演(初日所見)  

 着席しようとして、アナウンスが実に聞き取りやすく心地よいものだと感じた。杉浦アナウンサーそっくりとでも言おうか。第三部は人が替わっていたが同じく耳にしっくりきて、こちらは去来川アナウンサーに似ているかもしれない。ともかく、こういう何気ないところも実は大切なのであって、劇場側が面接の上で採用したのだろうけれど、なかなかよくわかっていると感心した。
  展示の方も工夫がしてあり、床本のサワリ部分をクイズで答えさせるというのも面白かった。年代層と正答率との関係がわかると、よい資料にもなるであろう。ちなみに、解答はどこに掲載されていたのか(もちろん見なくても解答できたが)、見つけられなかったのはこちらの探し方が下手だったのか。

第一部

『心中宵庚申』
「上田村」
  毎回このマクラ部分で、人形が観客の歓心を買おうと余計な動きをして床の邪魔をするのではと神経を尖らせていた覚えがあるのだが、今回何事もなく済んでホッとした、というかこれが当たり前のごく自然な入り方だと実感した。こんなところで前受けを狙っていた人形遣いの気が知れない。マクラの重大性を蔑ろにしているだけで出禁処分が至当だが、悪ふざけとチャリとの区別がつかないようでは、もう一度研修生からやり直しだろう。ここは、手抜きをしてのおしゃべり程度でよいのであって(詞章「我が見る前ではちよびかはして」の裏読み)、詞章にもある通り「ちよつと立てばはやどこへ」と女子どもの不在が観客に伝わればよいのである。ということで、今回の若手人形遣い三人は、当然のこととは言え、これまでと比較して賞賛に値する。
  千歳富助で聴くのは初めてである。「上田村」は以前から綱太夫弥七による奏演が完璧で、それ以来家の芸との印象が強く、前回の文字久は師匠が勤めた跡を襲うという意味で配されたのであろうが、むしろ三味線藤蔵が家の芸でうまくリードしたことにより成功を収めたと感じたのである。千歳はマクラから巧みで「家富みて」「大百姓」などのカワリも見事であるが、大げさというか針小棒大というか細部の彫琢を組み合わせているというか、全体として浄瑠璃義太夫節の自然な流れに欠ける。どこかヒヤヒヤさせるといういつものパターンでもある。こうなると、同じ心が動くのなら文字久の方が感心し続けでよかったということになる。しかしまた、今回の奏演は現代に近松物を蘇らせたということにもなる。テレビを視聴するように人間ドラマが展開されて行き、人々の心理が克明に描写される結果となったからである。これは是非とも現代人(昭和四十年代以前を未経験な人々)にこそ客席で聴いてもらいたい奏演である。以下に分析してみる。
  姉のかるが登場してからそのドラマは開始された。「心忙しく奥より立ち出で」この詞章が語り活かされたことによるが、人形の簑二郎が実によく遣ったこととの相乗効果でもあった。とりわけ、「姉も驚く顔に血を上げ」からの詞、この上気した趣が見事に伝わったのは今回が初めてである。すなわち、これまでは意識もしていなかったが、姉の詞を聞くうちに冒頭の地の文「姉も驚く顔に血を上げ」が再認識されたのである。続く金蔵も百姓然として良く(人形の文昇も)、「落ち来る肉に」「老いの繰り言」は強すぎて畏怖の念まで起こったのはどうかと思ったが、半兵衛の登場からがまた実に良く、姉そして妻千代との応対も抜群で、「あれ女房いつからここに」の詞など絶品で、ここはもちろん人形の玉男の遣い方も鮮やかであった。続く親平右衛門の声に千代が本読みにかかるところの可憐さ、父のために孝を尽くす娘の嬉しさまで伝わってきた。それに比すると眼目の平右衛門述懐は相応の出来であったが、その後の「親の病をかとも言わず」が超絶で、決して娘を責めるのでももちろん皮肉るのでもなく、「悦ぶ顔を見る親の心のうちの嬉しさ」とある詞章を十二分に体現していた。こうなると、千歳はむしろ住の後継者ということにもなるのであるが、そうなるといよいよ木を見て森を見ざる過ちを一刻も早く直してもらいたいと強く望むものである。とはいえ、名実ともに切語りであることは確かな奏演であった。三味線の富助も、自らの指導が反転して大曲や切場を弾くまでに至ったことを満足に思っていることであろう。

「八百屋」
  これまでこの「八百屋」を実質の切場として感じたことはなかった。傑作「上田村」が頂点で「八百屋」は悲劇の現出場(と言う意味では切場とも言えるが)として位置付けていた。しかし今回、越路師の相三味線であった清治師の三味線で語る呂勢を聴いて、なるほど改作『八百屋献立』を捨てて原作回帰し、詞章を繰り返し語り弾いて深め、性格悲劇として確立したがゆえの切場であると納得した。
  まず、悪婆カシラ伊右衛門女房の造形である。いや、これがすべてであると言っても良い。本作を嫁いびりによる悲劇と捉えるのは『献立』の喜劇をただ裏返しただけであって、何らの進展もない深みなどとは無縁の解釈である。「上田村」で垣間見た千代の性格と、この冒頭で活写される母の性格を掛け合わせれば、千代が嫌われるのも無理はないと十分に思わせられる。姉のかるが嫁入りしていれば、好かれるほどにうまく応対して(あしらって)いたことであろうとも感じられよう。可憐とは相手に対して憐れみを買わせるわけであって、買う気がない者にとってこれほど面倒かつ不快なものはない。相手が憐れむのを意志的(可し)に感じればそれは愛情へも転じようが、憐れむことが義務命令(可し)のように相手へ捉えさせるものとなると、不愉快さは嫌悪感にも至るであろう。自分中心、すべてが自分へ回帰するのでなければ気が済まないこの母にとって、千代という嫁はたとえそれが姑に仕える嫁の形をしていても、可憐である以上は面倒かつ不快なものとなるのである。ちなみに、この憐が愛となって「可愛い」となると、ぶりっ子として嫌われもしたあの女性歌手になるわけである。
  さて、床の奏演に戻ると、その母と半兵衛のやりとりが真実面白く、三味線はまたそこから西念坊へのカワリが鮮やか。三味線の名人芸はその後もたとえば「お千代が重なる五月の、重き身ながら足許も手も軽々と帯の下」など顕著である。語りも近松独自の透徹さがひょっこり顔を出す「湯を沸かして水になる。末知らぬこそ儚けれ」なども巧みで、続く半兵衛の詞は文字通り覚悟が滲み出ていた。千代ただ一カ所の美しいクドキ「こなさんの孝行の、道さへ立てばわしも心は残らぬ」の素晴らしさに、「伏し沈むこそ道理なれ」の三味線の響きが心を打つという、至福の浄瑠璃義太夫節であった。その三味線は「善悪照らす御明かしの、火を見るよりも居眠る下女」で時の流れまでも感じさせるという、正真正銘至高のものである。
  今回、「八百屋」が切場で「上田村」は仕込みかつ魅力的な立端場という関係であった。
「先代喜左衛門氏作曲の「下」の方が、復活上演(正確にはその再演)以来、越路大夫氏の語りの深まりによっていっそう格が上がり、少なくとも興行上は「下」の方を格が上と考えざるを得ない状況が出来ていたようにも考えられます。」とあるとともに「現在の「心中宵庚申」の「切場」は「下」の「八百屋」と考えるのが穏当で」というご教示(http://www.ongyoku.com/F1/jouhou1.htm)が、ようやく胸に収まったのである。
  もう一点、これはいつもこの場が出るたびに言及していると思うのだが、半兵衛がいつ自害(心中・切腹)を決心したかということである。詞章「半兵衛一言の答へもせず」とあるが、直前は老夫婦の会話で(今回伊右衛門の詞に大幅カットがあるのは残念、ここは近松とモーツァルトの共通点が指摘できる箇所でもあるだけに、文楽の普及という点からしてもこのカットは大損というか大誤算・大失敗である)、半兵衛へ母からの問いはその前の「恩知らずめ」にまで遡る。もっとも、伊右衛門への愚痴雑言の中にも散りばめられているから、それをじっと聞いていてということになろう。母からの千代離縁は覆らず、呼び戻すことは親不孝となる。そして半兵衛自身が冒頭に言う「武士の釜の水で育ちしこの半兵衛」、これらの複合体が決心の源である。誰一人として悪人は存在せず、それぞれが己の心に従って発言し行動する。まさに性格悲劇そのものである。そしてこれは、次の心中場の意味をも規定することになるのである。

「道行」
  「あれが何の武士の果て、鰹節の削り屑」とは平右衛門の怒りの言葉、また「二本差が怖けりやなア、田楽屋の門を通れんぢやないかい」とは太兵衛の負け惜しみであるが、百姓も町人も、彼らがどれほど土地田畑や金銭を所有しても、所詮は武士というもの(の苦悩)を理解できないのである。また、半兵衛は「エヽさすがぢや、見事に死んだ」と思われるものとしているが、誰一人としてそれが切腹だと気付きはしないだろう。これらには、元武士たる近松ということが関係しても来よう。武士は食わねど高楊枝、武士以外には嘲笑の諺であろうが、武士その人にとってはこれこそが武士本来の姿なのである。床はその武士を南都が見事に捉えて語り、千代もまたその可憐さを芳穂が適格に描写した。ツレの咲寿は安定期に入り、口開けの聖はまず合格であった。もちろん、かくまとめ上げたのは三味線シンの錦糸であり、二枚目の勝平、三枚目の友之助もよく弾いていた(燕二郎を上げないのは上げるまでに聞き分けられていない筆者の耳が悪いのである)。
  人形陣。お千代半兵衛の勘十郎と玉男は、どこがどうと指摘するのが憚られるほど適格な遣い方で、確実に令和の玉男簑助として観客動員第一の立役者である。平右衛門の玉也、母の勘寿、伊右衛門の玉輝とベテランの燻し銀があるべきところで輝く。姉の簔二郎、金蔵の文昇と中堅陣はもう上位陣の端に位置しよう。その他、端役に至るまでよく遣っていて、本公演第一番の出来はこの第一部であった。

第二部

『一谷嫩軍記』
「弥陀六内」
  あまり出ないので印象も薄いが、そこここに気の利いた節付もあり、若手が勤めて聞く者をハッとさせれば前途が開けると言う一段か。逆に言うと、中堅がやり損なうと次からは掛合専門ということにもなろう。今回は睦で三味線は団吾。マクラなど地は震え声だし言葉は不分明なところもあるしと今二つ、お岩の台詞も面白くなく、小雪のクドキは美しからず、そして「渡す心も味気なく〜」の長地もうっとりとはならず。どうにも困ってしまった。内容からしても位置からしても出語り出遣いにする必要はなく、御簾内黒衣が妥当なのではなかろうか。しかし、人形は敦盛の清五郎が優美で品格あり、小雪の簑紫郎も的確、お岩(紋吉)もよく動いていた。人形といえば、弥陀六を見ていて感じたのだが、人形遣いが遣う人形とそっくりつまり一心同体化するいという現象である。その役になりきるということの現れなのだろうけれど、出遣いでこれをされると、人形遣いが歌舞伎役者に見えてならない。舞台上に人形と人形遣いが同じ役で芝居をしているという印象を受けてしまうのだ。ところが、先代玉男や簑助そして文雀などそうではなかった。人形はその役ピタリなのだが、人形遣いはいつも同じその人すなわち無の存在と化していたのである。現陣容ではベテラン勢がその域に達している。ということは、玉助はまだ発展途上人ということになるのだろう。出遣いが目障りという発言を素人の感想だとバカにしてはならないということでもある。

「宝引」
  咲太夫師が休演のため織が燕三の三味線で勤める。軽々とやってのけ、客席の反応もあったし、さすがは家の芸である。とはいえカットがある短縮形でもあり、堪能するまでには至らず、物足りなさが残る結果となった。その省略箇所であるが、詞ではなく地やフシがほとんどということからも問題が見て取れる。つまり、詞がチャリ=この一段の中心と捉えているわけで(かつて錣襲名の際に先代の録音を流していたことがあったが、その時も詞ばかりであったことが想起される)、劇場制作側が明らかに浄瑠璃義太夫節を聴く耳を持っていない証拠である。「宝引」を語らせては右に出る者のいない八世綱太夫も述べているとおり、マクラの地からしてこの一段のチャリ場としての特性を如実に表しているのであり、これが聴き取られることにより、観客の耳はまた一つ成長するのである。このカットでよしとするなら、それこそ歌舞伎役者の台詞だけでも十分ということになろう。折角楽しみにして来た「宝引」であったが、冒頭「行く空の」が「東雲近き」と続いたからそこでもう萎えてしまった。要するに、不完全バージョンだからこの程度で仕方ないということなのである。
  思えば、綱弥七の超絶録音はさておき、劇場での実体験として笑いを堪えかね思わず声を発したのは、相生翁重造と相生(三味線不明)が勤めた時のみであった。考えてみれば、あまり出ないとはいえ貴重な体験だったということになる。ちなみに、代表的チャリ場と誤解されている「笑い薬」は、もっぱら人形の滑稽な所作と詞の笑いそのものがチャリの要因であり、浄瑠璃義太夫節のチャリ場としては数段劣るのである。しかし、上演回数からしても「笑い薬」がもてはやされるということは、現代人の耳が出来ていない証拠ということである。世界無形遺産の和食が食育を掲げるように、人形浄瑠璃文楽も聴育を何とかしなければならないのではないだろうか。もちろん、現代の浄瑠璃義太夫節は人形のアテレコであり、筋書きを辿り「情を語る」だけで十分というのなら話は別であるが。平成以降の悪癖は直ちに改めなければなるまい。とりあえず、漱石枕流、綱弥七を聴いておくことである。
  人形陣はツメの活躍もあり、端役に至るまでよく遣っていた。手摺>床というところであったろうか。もちろんこれは、演者ではなく内容と形式についての比較である。

「熊谷桜」
  端場が段書きしてある、為所のある一段である。希・清丈で勤めるが、マクラ、「要害厳しき」をきっちり押さえて立派なもの。ツメの退場から「遙々と」のハルフシへの変化が出来ており、この両名の床は中堅の先のレベルにまで到達しているということになる(もちろん「弥陀六内」―中堅から若手へ逆戻り?―より格上)。そして、相模、軍次、藤の局、平次景高、弥陀六と重要人物が続々登場するが、無理なく語り分けられており、自然に芝居の中へ入って行ける。ようやくここでホッとすることができた。

「熊谷陣屋」
  切場前半を錣宗助で勤める。往年の津寛治の跡を襲うというところであろうか。とにもかくにも安心して傾聴できる。と、盆が回るところまでスルスルと行き着いてしまった。耳障り無くという褒詞が相応しかろう。
  切場後半は呂と清介。笛の件はロマンあり、「くわ」「ぐわ」音あり、段切に鮮やかさあり。これもまた心安く進んで柝頭となった。自然体である。
  前後半通じて合格点なのはもちろんであるが、感動したとかハッとした(良い意味で)とかまでには至らなかった。この一段は飽きるほど聞いており、詞章を見れば節付が頭に浮かんでくる(風呂場で唸れる)ほどであるから、その耳が違和感を感じなかったというのは、津そして古靱に遡るまでの名人に劣ることはなかったことを意味する。したがって、切場としての使命を十二分に果たしたわけである。しかしながら、それでも名人芸の追体験以上に、「いま・ここ」で客席に着かなければ体験できない幸福感をもたらしてくれるのが、名人そのものであり櫓下紋下と呼ばれる類のものなのであろう。切語りとその相三味線にそれを求めても、望蜀とは言われないと思う。
  人形陣。和生師の相模は別格、手摺はもちろん床をもリードする。熊谷の玉志、前半の物語がよくて型も極まる。後半は、相模と藤の方がやりとりしている間をどうするか。動かない熊谷は何かキョトンとした魂が抜けてただそこにいる人形という感が強かった。これはカシラの角度がまず問題なのだろうと思う。立役は動かない間が勝負、先代はもちろん二代の玉男の域に達するにはまだ時間が必要そうである。藤の方の一輔がよい。どこにも隙が無い。前公演の「紅葉狩」でも驚いたが、この急成長はむしろ熟したという評言の方が適切であろう。亀松を襲名してもよいレベルである。義経の玉佳がまたいい。この動かないが颯爽たる大将、源太カシラの魅力を十二分に発揮した。姿勢はもちろんカシラの向きと角度、目や眉を含めた動き自体が見事であった。彼もベテラン陣の末席に配しても良い人形遣いとなった。軍次の玉勢はなるほどこれこそ家の子郎党であると実感した。宗清の玉助がタテ詞で拍手が来たのは本物である。平次景高(文哉)問題なし。

第三部

『壺坂』
「沢市内」
  第三部は彦六座・団平に因む建て方だが、劇場側はそこに言及せず。一般の観客には無用のことという訳か。場内やここにもひとり耳の客、芭蕉でなくとも去来の指摘で十分なのに、耳を育てるどころかそれを放置する有様である。
  床本に書き込んだのは二カ所、人形お里の貞女と献身ぶりが見事と清十郎を賞賛し、「この年月の廻り根性」と卑下自嘲する沢市の内向・内攻をよく描き出したと簑二郎を褒める。では床は。予想通りの出来、まさにこの言葉通りの藤と団七の勤め方であった。

「山」
  三輪が切場を勤める。時なる哉である(もちろん褒詞)。三味線は清友で納得。ツレ(清允)もよく弾いていた。その語りは一杯一杯で、「狂気の如く」もそのままだが貞女と献身はどこへ。「晨朝」をじんじょうと言う。「ありがたや忝や〜年立ち返る心地ぞや」など疑問。それよりも怒鳴ったり喚き散らすように聞こえたのは僻耳か。目明きと盲目の差も聞き取れなかった。三味線もこの一大切場に気後れした感があったと聞こえた。次の『勧進帳』は失礼すると決めたことでもあり、何とも複雑というか後味悪く劇場を後にして帰路についたのであった。まあ、ここは浄曲窟で取り上げたこともあり、あらためてそれを聴き直しておくことにする。

『勧進帳』 
  未見にして未聴は不見にして不聴となる。急激に寒さが増した夜に帰宅が十時半となることと演目を天秤に掛けた結果である。一行が関所を去った時点で退席しようかとも考えたが、演者に失礼であろうし中途半端はやめることにした。夜の部にしては客の入りも良く、この客層に任せておいて大丈夫であろうとの思いからでもある。評に関しては前回上演時に記した前半部分に尽きる。http://www.ongyoku.com/gekihyou/16aki.htm#勧進帳
  とにもかくにも、『勧進帳』はあの記録映画を視聴することにしよう。
  歌舞伎といえば、「四の切」を咲太夫師(燕三)の床で菊之助が人形振りをしたテレビ放映をたまたま観たのだが、その妖艶さに魅入られて最後まで鑑賞してしまった。この一段、人形浄瑠璃文楽でもなかなか感動とまではいかないもので、とくに狐忠信の述懐が長々と感じられることがしばしばあり、仮に無人島へ文楽ベストテンを持って行けるとして、そこにはとても入らない一段なのである。それが、この狐忠信には魅了されてしまった。まさしく狐に化かされたとはこのことで、例の白塗りの役者が舞台で何か大仰なことをしているという感じがまったくなかった(その後、調子に乗って歌舞伎の「熊谷陣屋」を見た時はやはりそう感じた)。人が人ならざるものを演じる、ここに狐忠信の人形を遣うに際しての大きなヒントが隠されているような気もする。

 

【従是千秋氏評論】

第二部「一谷嫩軍記」

コロナ第8波の兆しはありますが、行動制限は無く、切語り二人の登場とあって、劇場はなかなか盛況でした。

☆弥陀六内の段
    睦太夫
  冒頭の「世にあらば‥」から音程が定まらず、探り探り進んで行くので、聴く方も困惑してしまいました。全て平板で、抑揚なくリズムもないので散文です。「‥むごい、つれない御心」も「恨み嘆」いている様子は無く、次の敦盛の声と変化も無い。どうしたものか。
  この人は大音で声質も良いので、精進すれば大成するかもしれないのです。しかし現在、方向性が把握出来ていないのではないか。浄瑠璃は音楽であると心得て、先達をトレースすべきでしょう。

☆脇ヶ浜宝引の段
   咲太夫休演の為織太夫

 難しいチャリ場を難なくやってのけ、その技量に感心しました。
基礎が出来ているので、音程、抑揚、リズムも確かです。安心して聴く事が出来ました。勿論「アちつくり笠にふりがある」や「山畑かせぐ百姓ども、‥ドイヤドヤドヤ‥」は綱太夫をよく学んでおり、流石でした。
  こうして「笑い」へと導かれて行くのですが、見物の反応も良く、代役の責務をよく果たしたと言えます。
  しかし天才綱太夫の究極のチャリ場「宝引」はこのレベルではありません。

 何故なら綱太夫の「宝引」は「生命の躍動」であって、「笑い」は生命の弾みの頂点で咲いた「華」なのです。内容的に猥雑さが交じるのも、生命力の現れで、百姓達は嬉々としているのです。この純粋な喜びを、綱太夫は天才的なリズム感で護謨?が跳ねるが如く、百姓達の詞として発するので、聴衆もその喜び、即ち躍動を共にして笑ってしまうのでしょう。
  この笑いは生命力の証です。
  生きている喜びとは、そうそう感じられるものでは無い。しかし綱太夫は空気の振動で我々を共振させ、その共振は「存在」を共振させ、「存在」は我々を「笑い」へと突き上げるのです。
  翻って、織太夫の「笑い」はどうか。理性的で計算された笑いで、ややもすれば、聴衆を「笑い」に導こうという魂胆がチラつきます。百姓の声もあまり区別が無く、整い過ぎています。計算を打破して、「生命」へと向かいましょう。そうすれば、あの「あひる笑ひ」がもっと吹っ切れるでしょう。「あひるの哄笑」は「存在の哄笑」であると。

 この段、藤の局は登場するだけで、手先までもが美しく、この美しさが「陣屋」の可能性への希みとなりました。
  またツメ人形はイヤ味無く、自然ながら的確な動きをしていて、実に好ましかった。

☆熊谷桜の段
    希太夫
  「行く空も‥。」は良く、これからの展開が期待出来ました。「オオ軍次‥。」以下相模の声も的確で、「誠に一昔は夢と申すが、‥」の長い詞は表面的ではあるがリズムはあって、この人は何か掴みかけていると思わせられました。藤の局の「世の盛衰は是非もなや。‥」の声と旋律も訴えるものがあり、相模と藤の局が、上手く語り分けられたのも、各々の人物をどう表現すればよいかを模索した結果でしょう。「ヤアそなたの連れ合ひ‥」‥「『ハツ』と吐胸の気を鎮め」あたりには緊迫感が漂い、浄瑠璃を語って場面を先導して行くという自覚が感じられました。
  但し時としての大音声が、やや聴き手にとっては辛いので、どんな風に聞こえているのか、自分の声を点検してほしいものです。

☆熊谷陣屋の段
   錣太夫
  いつもの様に、熱意と誠実さは充分で、「花の盛りの敦盛を‥ものの哀れを今ぞ知る‥」あたりには荘重の気味も漂い、期待が膨らみました。‥が徐々に気持ちは高まっても表現は平板になって行き、「不届き至極の女め」「ソソソソレソレソレまだ手傷を‥」などは厳格さに欠けて甘いので、緩みが感じられました。つまり情景が立ち上がって来ないのです。説明があっても抑揚やリズムに欠けているのは、この人の内部で情景が構成されていないからで、緊迫へと登り詰める力が乏しいのです。人形も含めて凝縮よりも拡散の方向に流れてしまい、残念ながらそこに熊谷は居ませんでした。

  切  呂太夫
  この人の特長はその羞恥心にあります。羞恥心が我身を顧みる客観性となって、殊に女性心理を正確に穿ち、心に沁みる旋律と抑揚を形成するのです。流麗でもあり、切迫もし、微妙に揺れて、それに三味線も絡み付き、絶妙です。何より退屈せず、音楽に浸っていられます。女声が美しく、相模と藤の局の立場の逆転も語り分けが効いている為、より哀切です。
  義経上品、弥陀六迫力。そして「十六年も一昔。」はサラリと語り、「柊に置く初雪の‥」に嫋々たる余韻を残したのも、三味線と相俟って、却って段切りの俯瞰性を導く契機となりました。故にこの「切」浄瑠璃は十分堪能出来たのです。
  ‥‥熊谷が現成しない事を除いては。

☆ 然らば熊谷は何処に。
  嘗てDVDで観、聴いた津太夫と先代玉男の熊谷は、不条理、理不尽な運命を耐え忍ぶだけでなく、却ってその運命を自ら意志的に引き受けて一歩踏み出そうとしていた。「修羅」を踏み超えて異次元の世界へと。
  「首討つたのが小次郎さ。しれたことを」の詞は異次元への険しい道を示している。
  この「修羅」から異次元へ超越せんとする決然たる意志こそが熊谷の本質なのだ。然るにその本質が今回、錣にも呂にも人形にも現れて来なかった。
  故に熊谷は何処にも居なかったのである。

 それではもう熊谷は今此処には甦らないのだろうか。
  否、一輔の藤の局に希みがある。
  藤の局の白い顔は美しく浮かび上がっていた。一輔の才能は人形の顔を最も美しく見せる角度を瞬時に精密に示す事が出来る。‥‥それは美しい死者の顔だった。成る程文楽人形は死者だったのだ。
  現今「生」のみが重んぜられ、死者など無価値と軽んぜられるが果たしてそうだろうか。
  小林秀雄は「無常といふ事」の中でこう言っている。「歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。」と。
  つまり死者こそが「動じない美しい形」で現れて、生ける現存在即ち「人間になりつつある一種の動物」と、確固たる「存在」を繋いでいるのである。「死」無くして真の「生」は無い。
  「陣屋」は死者の世界であって、其処にこそ「退っ引きならぬ」人間の本質が現れる。熊谷は運命を超える決然たる意志の人として、津太夫と先代玉男によって具現化された。「死」の一点から噴出する多面体としての、先代玉男によるおおいなる姿、空間を翻り決然と停止する扇の位置は、津太夫の語りによって前方に押し出され、遂に熊谷は今此処の現実に届いたのである。
  昭和の「陣屋」はこうして熊谷を甦らせた。熊谷は厳然と現成した。
  今回令和の「陣屋」では熊谷は現れなかったが、呂太夫の繊細な語りによって、一輔が藤の局の「退っ引きならぬ」美しい死者の相を呈示した。その白い顔は闇に浮かんで、今此処を凝視している。
  死者は甦りつつある。

 然すれば、文楽の可能性とは、「死者は生きている」と言う逆説のうちにあるのだった。

 ‥とは言え令和と言う時代に於いて、「逆説」とは「困難」の同義語であるかもしれないが、と思いながら、雑踏の中を帰りました。
          以上