人形浄瑠璃文楽 平成三十年一月公演(初日所見) 

第一部

「花競四季寿』
「万才」
  ニンというものがある。かつては道行太夫だとかが存在し(これらは蔑称ではなく、太夫陣の層が厚かった頃、各自が存在価値をよく知っていたことによるもの。相撲全盛期にも横綱大関には至れないが名関脇小結として名を残した力士が数多くいた)、贔屓にし楽しみにする客もまた当然のごとく存在した。今、道行や景事は顔順と人数捌きの場となっている(もちろん、重要な曲の場合は相応の配置がされるが)。本公演の場合、咲寿と小住がシンとワキに座った方が、この曲には相応しかった。実際、シンの睦はハルフシからハズレてハズシており、ここではまだ苦笑する程度であったが、「声ものどけき」では詞章意味が理解されるから失笑せざるを得なかった。それが、どうも高いところへ届かないとか音階をたどれないとかではなく、浄瑠璃義太夫節として聞こえないと感じられることもあるというのは、心もとない。とはいえ、追善襲名披露公演を言祝ぐ大きさがあったことは、この人の良さが潰されず出ていた結果である。津国もまたニンではないが、少なくとも違和感なく聞けるというところは、年功というものでもある。
  人形はというと、晴れやかに賑やかにというのはわかるが、小躍りして浮かれる太夫(カシラは若男)など初めて見た。扇の乱れた遣い方にもそれは歴然としていて、やはりこれはカシラが違うと言わざるを得ない。おかげで、才蔵の方がツッコミに回るという、いくら現在の漫才がボケとツッコミのハイブリッド化を主流としているとはいえ、お株を奪われた方の存在感がまるでない(持ち役を入れ替えた方がよかったということか)。結果として、バタバタした(前受けのドタバタを狙ったものでないのが救い)忙しない印象しか残らなかった。万才だけに新春初笑いで福を呼び込むというのは理解できるが、それとは縁遠いまるで師走晦日の大掃除を彷彿とさせるものであった。やはり人形も本読みからきっちりしておかなければなるまい。

「鷺娘」
  別に振り付けが地味だからいけないというのではないが、ノシノシと登場し傘の上でバタバタやっていたのは、これまでこの娘は鷺の化身だと見ていただけに、我が目を疑う光景の現出であった。もしかすると、これは本読みが逆効果となってしまった可能性がある。確かに「幾重か重なる思ひ」「炭竈に冬籠もりせし一枝」とあるから、軽妙に飛んで出るわけにはいかないとの解釈が出るかも知れない。しかし、この冬籠もりというのは、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」を持ち出すまでもなく、初春の開花を導き出すものであって、春の枕詞でもある。つまり、娘が舞台へ登場すること自体が早咲き(雪を花へ見立てることも同様)の期待感、前倒し(英語の接頭辞ならpro-, pre-)の先へ先へと逸る心の描出なのである。節付もそのようになっている。したがって、今回の人形のむしろ下半身に重心のある落ち着きぶりは、やはりそぐわないと言うよりほかはない。文昇という人の芸として、この鷺娘はニンではないと結論付けるのが正しいと思われる。
  三味線も、清友をシンに喜一朗、清丈以下の陣容であるから、むしろしっとりとした情緒の描出の方が似つかわしいと思われ、「海女」の前半と「関寺小町」を聞いてみたかったというところ。残念ながら、本公演の初日においては三業バラバラに終わったと締めくくらざるを得ないのである。

『平家女護島』
「鬼界が島」
  この初春公演の、しかもこの位置へ出す理由がわからない。季節感も逆行しているし、目出度く大団円という内容でもなく、頻度としても三年前に出されているから、要するに時間と配役を考えて落着したということだろう。
  呂は東風頭領の系譜に繋がる太夫だが、以前から西風の方がよく嵌まる。英時代に「布三」を代役で勤めたことがあったが、これだけ語れるのかと驚いた記憶がある。それは、やはり越路師匠の薫陶を受けた結果であろうし、それがよい方向へ現出したものでもある(ただし、このままでは十一代目襲名へ至れないこともまた事実である)。今回も、マクラは絶海の孤島のイメージが清介の三味線とともに描出され、成経・康頼とも音信不通となっていた俊寛の悲哀が伝わってきた。次に、恋模様が浮かび上がってからは足取りの変化も絶妙で、成経の長台詞も実感があって「面白うて哀れで伊達で殊勝で可愛い恋」という俊寛の詞が空疎に響くこともなかった。その俊寛に「四人連れで都入り〜待つばかり」と、初めて未来という時間と将来への期待が現出する心の機微もよく出ていた。そこへ登場する瀬尾は悪役ではなく酷吏という描出で納得がいき、俊寛には前述の希望が芽生えていただけに「もしやもしやと存へて浅ましの命や」がよく効いていた。ゆえに「小松殿の仁心骨髄に」染み渡っての「真砂に額を摺り入れ」が大仰ではなく真実として語り弾かれた(人形は不足)。そして、俊寛が妻の横死(権力者清盛による)を知るところ、今後の展開に最重要の事実提示がきちんとなされており、これで一段の成功は見えたと言ってよいものだった。千鳥のクドキもダレることなく真情が乗り、続く俊寛の詞「我が妻は〜斬られしとや」の強さが決定的で(人形は斬られた所作をして見せた程度で不足)、瀬尾に騙し寄って切りつける場面の真実に至る。この一段を俊寛の物語として完結させたのは、切語りとしての資格が十分あることの証左である。ただし、これから段切までは物足りなく、壮絶・凄絶とはならなかった。「差し出たらば恨むぞ」「始終を我が一心に思ひ定めし止めの刀」「思ひ切つても凡夫心」、いずれも「我を仏になすと思ひ」「俊寛が乗るは弘誓の船」とあった理性の詞で収まる俊寛の物語を超越した、文字通り孤独と絶望の世界に封印される最後を創り上げた恐るべき近松の筆、そこまでには至らなかったということである。しかしながら、そこまでたどり着いたのは古靱(山城少掾)のみであって、呂(英)が師事した越路でさえも、人間俊寛は情愛と悲劇の物語というレベル(それだけでも凄い)であったから、今回は佳品としてその勝ちが認められるものであった。なお、「瀬尾太郎が首に掛けたる赦し文取り出だし」での近松物特有の語り口もきっちり表現されていた。
  人形陣も、簑助師の千鳥は成経と俊寛の真実心を反応させる衷心衷情が感じられ、玉男は人間俊寛をよく描出した。酷吏の瀬尾は玉志が、丹左衛門は対するに循吏として玉輝がそれぞれ納得の遣い方で、康頼の清五郎と成経の文司も安心して見ていられたが、後者にはもう少し色男が滲み出てもよかったのではないか。もっともそれは、今回三業の出来がうまく調和していたから、その範囲内で言うと問題ないものであったことを付言しておく。

「追善・披露口上」
  朝日座に初めて通ったのが二十代前半であったから、八世綱太夫の舞台に間に合っていない(弥七そして先代寛治と二代喜左衛門にも)。しかし、その芸は数多く残された録音録画によって全身全霊に染み渡るほど追体験し、その総体としての位置づけは、古靱>綱>山城少掾であると確信した。さらに、浄瑠璃義太夫節の面白さ楽しさという点では、古靱の上に位置していた。その綱太夫の五十回忌、これが百回忌だともはや伝説中の人物になってしまっているから、有り難いことに「いま・ここ」で綱太夫に接することができたという幸福感があった。それは、織太夫の六代目襲名披露と時を同じくしたということも大きな意味を持っており、戦後を以て一線を画される浄瑠璃義太夫節にあって、綱太夫家の芸として「いま・ここ」にあるという実感を伴うものであったのだ。そして、平成最後の年にそれが行われたことにより、昭和は遠くならず次の時代と連結して据えられるのであった。もちろん、織太夫は綱太夫の前名であることがその担保ともなっているわけで、二重三重の意味で、観客としてこの口上の席に連なることができた喜びを味わったのである。例年初日は避けていたところを、わざわざ振る舞い酒の列に並んだのもそのためである。したがって、初春公演初日には当たり前の木枡も、今回の自身にとっては特別なものであって(例年通り酒造元の焼き印があるに過ぎないが)、その清冽な木の香の高さも今回の追善・襲名に相応しいものと感じられたのであった。何十年ぶりかで珍しくも撒き手拭いを拾うことができたのも(拡げるとなかなか今風でセンスの良いデザインだったから、近年流行のタペストリーとして飾ってみる)、象徴的であった。敢えて幕内とは一線を画しているゆえ、その配り物とは無縁であったが、劇場内展示室でそれを目にし、なかなかすばらしいと認識した(後になって売店でも手に入ることを知ったが、記憶に残しておくことでよしとする)。

『摂州合邦辻』
「合邦住家」
  かつて「渡海屋」の端場を南都が勤め(三味線は誰だったか記憶にない)、その結果として今日の位置付け(掛合太夫)があるから、今回の端場に当てられたのはどういうことかと思ったら、三味線が清馗であったから、なるほど一門で固めたということかと納得はした。しかし、あの端場の印象が強く残っているから、語り自体についてはまったく期待感はなく、口上がなければ休憩時間の延長としてもよいと考えたに違いない。実際、マクラが始まると難声で読みやアクセントにも不審箇所があり、マイナス面がやはり出て来たが、それよりもまず、三味線とともにその足取りに驚いた。これは端場を十二分に心得たものなのである。そして、合邦の詞になって一層の驚きが加わり、この床は浄瑠璃義太夫節が血肉化されている方向に間違いないと思うに至った。以前から、南都が掛合で女形に役付けられるたびに、男役の方がふさわしいと言い続けてきたことの正しさが、今回の合邦で証明されたとも言える。それも、声色で似せようとし丁寧に心情を乗せていこうなどとしていたのなら、まったくお話にならなかったであろうけれど、足取りに間と変化も加えてよく稽古していたから、よく映ったのである(それに比して婆は婆の声で語ろうとする作為が抜け切れていなかった)。この端場にはもう一箇所お楽しみがあり、「夫の心汲む妻は〜」ヲクリまでの箇所、魅力的な節付に抒情味ある詞章がピッタリという、ここが見事に描出されていたのである。こうなると、盆が回る時に大きな拍手で送らなければならない。南都そして清馗で、このように手を鳴らしたことはかつてなかった。切場がお目当てで思いもかけず良い端場に巡り会ったという幸福でもある。これだから、劇場の椅子には実際に座ってみなければならないのである。追善・襲名の端場としても立派にその大役を果たしたことになった。
  追善、清治師に咲太夫。かつての花形コンビも今や大看板である。この「合邦」が人気曲であることが、両人の床を聞いているとよくわかる。マクラから絶妙で無類の面白さ。もちろん玉手の真情も乗っている。これから先、盆が回るまでまったくこの浄瑠璃義太夫節の虜になっていた。古靱・四世清六の録音に匹敵するものであった(三世清六のは古靱を正格として鍛えるべく雁字搦めにしてあるから、人気曲としての観賞用ではない。あれを「合邦」や「堀川」の内容と絡めて評価しようとする者は、浄瑠璃義太夫節を聞く耳を本来的に有していない―歌舞伎や能楽から最初に入った証拠ともなる―理屈付けに過ぎない)。杉山其日庵『浄瑠璃素人講釈』「合邦住家の段」を参照してもいいだろう。要するに、八世綱大夫家の芸、まさしく追善に相応しい床であった。
  襲名、織太夫の六代目を襲名した不惑の語りなればこそであった。人形浄瑠璃文楽が日本を代表する古典芸能であり、芸術の名に相応しいものであることは言うまでもない。ユネスコの世界無形遺産に登録されているのも当然である(ちなみに、ユネスコは各国の申請に基づいているのであって、遺産登録自体が日本の国家的意志であることを再確認しておく必要がある。ガイジンが勝手に決めたというものでは決してない)。しかし、近松と義太夫と三味線・人形による竹本座の芝居が、大坂の人々に支持されなければ、そして、豊竹座と競い合って全盛期を迎えるほどに、熱烈な民衆の芝居通いがなければ、芸術としての評価もなかったわけである。つまり、人形浄瑠璃はエンターテイメントなのであるという根本のところを、新織太夫は聞かせてくれたのである。明治大正から戦前の劇場で観客が楽しんでいた頃はこうであったに違いない。そして、八世綱太夫の全盛期に、戦後近代を象徴する劇場はガラガラであったにせよ、足を運んだ観客や寄席での素浄瑠璃にやんやの歓声を送っていた人々が耳にしたものは、まさにこの延長線上を遡ったものに違いないと実感したのである。上記杉山は「此合邦の段を今の一時間と十五分位以上掛つたら、満足に語れて居らぬのであると思つたらよいのである。節を付け勝手に朗読した上に、古人の風も、極り切つた「息」もメチャ/\で、其上に一時間三十分以上も掛つたら聴衆を半殺の目に合せ、給金斗り高く取るのは、此芸道の大罪人と云はねばならぬ。況んや一人前の太夫として、其段中の人形に同化する事が出来ずして、芸が動く筈がない。」と述べている。この「節を付け勝手に朗読」と「一時間三十分以上も掛つたら」とがツボであって、往々にしてそれは、陰気で辛気くさく地味な抹香臭さと小難しい理屈に「情」専制君主制が蔓延る世界と相関関係がある。また、ストーリーテラーとか人間ドラマが展開という表現にも気を付けなければならないのであって、これらはすべて、言語=意味・文字として音声が欠落している現代日本(人)を特徴づけることでもあるのだ。
  さて、「合邦」の中心はどこにあるか。杉山は「玉手の嫉妬は、此段の眼目である」と言うが、さすがは団平(大隅)や摂津大掾の浄瑠璃義太夫節が骨髄に徹しているだけあって、ズバリと的を射ている。シテは玉手御前に決まっているわけで、合邦もワキに過ぎない。もちろん、「『オイヤイ/\/\/\』の深情の破れ所が語れて、始めて合邦丈けの結び目は付くのである」と杉山が語るのは当然のことであるが、この「合邦丈けの結び目は付く」とある真意を理解せず、合邦をシテと見誤ってここに「合邦」を焦点化させようとすると、前述の朗読家に堕してしまうのである。今回の襲名披露は、杉山の言う「玉手の嫉妬は、此段の眼目である」そのままであった。この玉手御前は歴史に残るし新時代を画するものである。前者は浄瑠璃義太夫節三百年の中に位置付けられるものとしての、後者は平に成った時代の「朗読」と決別し「音曲の司」が復活(現代の観客にとっては初体験となるから新時代の印象)する契機としての意義を有する。もうこれだけで、織太夫の六代目を襲名した不惑の語りとしては十二分である。これで合邦が完全体になっていれば綱太夫を襲名させなければならないから。したがって、「これが坊主〜」の拍手がご祝儀三割、玉手からの流れ三割の結果としてもたらされたことこそ、織太夫の六代目を襲名した不惑の語りを象徴しているのである(ただ、玉手について一点言うと、苦しい息の引き方が女ではなく男のそれになっているのは、今後に向けて改善工夫を必要とするものである)。
  人形陣も、勘十郎の玉手御前に尽きた感がある。もちろん、そのシテに対してのワキの合邦を和生師、ワキツレの女房を燻し銀の勘寿、シテのツレが俊徳丸を一輔と浅香姫を簑二郎、そして奴の玉佳と、それぞれの役割を果たしたからこそなのであるが、今回は玉手御前が三業三位一体で中心に据えられ屹立していたから、それこそ二度三度と足を運んで、玉手御前に圧倒されながらもさすがに余裕が出て来た頃合いになって初めて、玉手を取り巻く人形を評することが可能になるレベルであったのだ。初見では玉手に圧倒されるより他はない。眼目の嫉妬の物凄さ(面白いこともこの上ない)は、裏返すと玉手の芝居そのものなのであり、この乱行があればこそ父合邦は娘の体に刃を突き立てざるを得なくなり、その結果、肝臓の生き血を以て自身の真情潔白を表明するとともに、俊徳丸の業病を癒やすことが可能になるのである(ここの遣い方が一見派手に見えるのは、嫉妬の乱行と対応しているからである)。とはいえ、ここに至るまでが不十分であると、この芝居は前受けの見世物になってしまう。ここでも杉山の言を引用すると、「玉手の「サワリ」は、一段中重複の意味のある一番六ヶ敷処にて、毛筋程の油断もなく、或程度まで玉手の心情を聴衆に感得させる」とあるのだが、勘十郎の人形は完璧で、まさにこの「サワリ」があったからこそ、俊徳丸に言い寄ると見せかけた玉手の本心が、「君が形見とこの杯」で描出されることになるのである。それは、恋慕対象の男が口にしたからではなく、死の覚悟としての「形見」であって、ゆえにまた手負いになってからの「母の心子は知らぬ片思ひといふ心の誓ひ」という告白が聞く者の胸に迫ってくる。そして、玉手自身がすべての言動の決着をつける場面、「調子上つて「取々」の「ハルフシ」から、「大落し」まで是丈けを又一段見做し、一大事に語り」と杉山が指摘するところ、これが縁起物語として完結するべく、「其以後は落合風の段切りと思つて語つて良いと云伝へてある」(同)とあるところと、仰天すべき圧倒的な語りと人形が現出したのであった。三味線はどうかというと、咲太夫の配慮から新織太夫を弾く燕三だが、もちろんこの三味線があったからこそ、上述の成功があったわけだが、最後に言及した念仏場と段切については、物足りなさというかやや取り残された感を抱いた。普通ならそれでも十分なのだが、今回のこの語りと人形の場合は、それこそもう弾き倒すというところへ至ってもらいたかった。その意味では、燕三がそのまま咲太夫を弾いて清治師が新織太夫を弾く方が、結果論としてより相応しかったのではなかったか。糸を繰る余裕もないのは十二分に理解できるのだが、それでもなお弾き切るにはというところ、おそらく、総稽古の時もこれほどではなかったのではないか。初日の本番でとんでもないものに仕上がったゆえに、追いつけなかったように思われる。その意味では、もう一度劇場へ足を運び、その三味線を聞かなければならなかったのだろう。
  全体として、この人形浄瑠璃を体験するのとしないのとでは、決定的な違いが観客に生じるレベルのものであった。未見未聴の方は今すぐにでも劇場に駆け付けていただきたい。そうしなければ、平成の次の時代を迎えることはできないであろう。

第二部

『良弁杉由来』
「志賀の里」
  冒頭の三下りからどうなることかと案じられたが、本調子にナヲスで文字通り直ってホッとした。こう書くのも、シンが団七でツレが友之助(に錦吾)であるから悪いはずはないのであって、すなわち、この作が偏に団平の節付になるものであることを主眼とするからである。中身としては序に相当し、筋書きを段取りとして示すものに過ぎない。しかし、当作があの朝太夫によって語られることを前提として節付されたことを知れば、三下り唄から始まり、美しい節付に滲み出る未亡人渚の方の寂寥感、それを通奏低音に茶摘み唄が配されると、渚の方の性根が詞の中に描出され、腰元の足取りの面白さとともに八雲琴を配した踊り唄を、亡夫への哀惜感を底にして存分に聞かせた「その折しも」の後、不安な三味線を聞かせて急展開となり、「天にも地にも一人子の」で観客はワーワーと叫び声をあげたことが、脳内再生されるに違いない。そして段切まで半狂乱の母の姿が急速調で強烈な印象を残すのである。現在残されている音源では、やはり綱弥七のものが団平の節付の妙とその意図をよく理解した奏演である。これを聞くだけで、数千字の「志賀の里」論は書けてしまうのだが、それはまた別の機会とする。
  で、本公演はというと、掛合で捌くのはもはや常識化しているから措くとして、三輪の渚の方が官家旧臣の未亡人としてよく映り、狂乱からも真実味があった(これらは人形の和生師に負うところも大きい)。「天にも〜」も逃げずによく語ったが、物足りないのは仕方ないところだろう。ツレも悪くなく、「歌ふ声々かしましく」の碩が師匠そのままで、将来性・有望性という点でも師匠の若手時代と同じだなあと、感慨を深くした。全体として三業の成果としては、人形>三味線>太夫であったが、これは陣容によるものでもある。なお、乳母(紋秀)が腰元とは異なり際だった所作を見せたのも納得のいくものであった。

「桜の宮物狂い」
  初演が若太夫の八世でこの人は美声家だったと、そしてその相三味線がかの豊沢松太郎であったというから、ここの節付にも団平の思惑は十二分に感じられる。前段が景事含みであるのに対し、此段は道行仕立てになっており、それを藤蔵、清志郎、寛太郎以下の三味線陣が、まずこれ以上はないというほどに大きく華麗で派手に鮮烈な印象を与えて弾いたことは、三人共に団平へと繋がる系譜に関わりがあるだけに感慨深く、それはまた別の意味で、追善と襲名という精神性を感じさせる奏演であった。ただ、物狂いに伴う哀感はというと未だしで(段切の情感も今一歩)、これが描出できればいわゆる模様が弾ける三味線ということになる。和生師の渚の方はここでも狂気そして正気ともによく描出し、早急に師の二代を襲名すべきものであった。冒頭の花売り(簑紫郎)と吹玉屋(勘市)も、現在なら造幣局通り抜けの花見客を目当てに繰り出した露天商といったところで、賑やかで華やかな様子を楽しく見せた。船頭を亀次が遣うと存在感が出るというのは流石に年の功である。

「東大寺」
  錦糸の三味線で靖が語る。毎回がその力量向上の試金石となるという、有望な若手ならではの立端場である。大分二の音がしっかりしてきたが、まだまだというところが浄瑠璃義太夫節の空恐ろしいところでもある。とはいえ、マクラで大寺院の格をきっちり出さなければならないところは合格である。この一段はもう一つ、伴僧の描出如何で出来不出来が完全に左右される。うっかりすると、チャリに傾きかつ威張るという性根になってしまうが、それでは切場「二月堂」の仇にこそなれ何の為にもならない。「人を助ける出家こそいと懇ろに」「筆に情けをふくみ墨」との詞章そのままに、自然と溢れ出る人情味が語れていたのは上出来であった。しかも、「先づお傍には御用人」以下の詞と「丸い頭を右左」の地、これまた自ずと感じられる軽快な面白みも出ていて、結構だった。加えて、渚の方の詞「エヽ勿体ない〜ありがたうござります」が真実心であり、ヲクリ前の節付に乗った情感がこれまた良かった。もちろん、三味線と二体の人形(伴僧は幸助)の功績があればこそではあるが、太夫は十分敢闘賞に値する語りであった。

「二月堂」
  初演の柳適太夫は措くとして、この一段は古靱(山城少掾)のための一段と言って良い。そして高弟綱太夫には今ひとつ似つかわしくなく(もちろん山城引退興行での師弟共演の渚の方が絶品であったことは言うまでもない)、越路太夫がよく衣鉢を継ぎ、先代綱太夫もよく語ったが、さて、この末世に一体誰が語(れ)るのか。なるほど、語るのは(語れるかどうかは不明だが)千歳以外にはないだろう。マクラから品格が要求されるが、正格といった語り口でストンと腑に落ちる。続いてツメ人形が活躍して場がほぐれるが、そこからがいよいよ長丁場に入る。良弁の述懐を聞いていると、ああこれは母を訪ねて三千里であると、三十代前半の良弁、カシラを見ると青年僧の趣のある(これは仏像でも同じで、釈迦の悟りは三十五歳である)そのままを体現した語りに、真実心が描出されていた。古靱だと高潔、越路や綱だと尊貴な印象で、母への思慕も昇華された上での感慨と感じられるところが、千歳だと直情(もちろん卑俗ではないし径行に至るものでもない)になっているだけ観客の心にもそのまま入り込んできたのであった。そして渚の方は、わが子探して三十年の積み重ねたそして最後の思いの吐露が作られずに自然と心に届く語りで、そういえば「甘輝館」の母もよかったことを思い出すほどに、その浄瑠璃義太夫節に引き込まれたのであった。そして大落シというよりも涙が感情とともに溢れ出る「喰ひしばりてぞ泣き給ふ」で、ついに涕泗流るるにまで至ったのであった。涙ぐむということならあり得るかも知れなかったが、落涙に加え鼻にまでとは思わなかった。見渡すと、客席のそこここで同様の反応が確認でき(こう書くと随分客観的だったように見えるが、現時点で分析しているに過ぎない)、これはもう見事なもので大成功と言うよりほかはない。本公演の狂言建てからすると、五段構成の一段に相当するもので、かつ追い出し付け物があるからには、紋下格の語り場である。そこを勤めて客席に感涙を催させたとなると、名に実が伴ったということになる。もはや幼名の千歳は上書きされなければなるまい。襲名は待ったなしの状況に至ったのである。なお、ここまで三味線の富助に言及していないのは、千歳の今日(本公演を含め)の語りがあるのは、富助の指導によるところが絶大であるためで、敢えて取り出して記述すべきものではないということである。
  それでも、まだまだこの「二月堂」を語り切ったとは言えない。近習が「権柄に」とある詞の描出が不足で、渚の方の「予て覚悟も今更に」が言葉上の説明に止まる。守り袋を一目見た「ヤレありがたや」は、単に錦の守りが同一だと判明したに止まっており、わが子であるかが判明する最後の瞬間で、もし違っていればその場でがっくりと息絶えたであろうというほどのものには感じられなかった。石山寺縁起の物語として過去と現在を通底させるところも今一歩。その前の良弁の告解から大団円に向けて足取りと間で進めていかなければならない。大落シ以降に語り込もうとすればもたれる以外の何ものでもないのだが、どうも平に成った世の観客は浄瑠璃義太夫節の構成を理解できないような奏演を耳にしていたからであろうか、最後までたっぷりと情を込めてというのが文楽だと勘違いしているようだ。もちろんこの責は観客ではなく演者に着せられる。段切「日頃の憂さは木の元に」の辺りは団平渾身の節付で、母子感動の涙を晴れさせるとともに、聳え立つ良弁杉の気高さに収斂させるものなのだが、ここも昇華させるには至らず、母子感動の対面物語としての終結であった。しかしながら、涙とともにその印象を持って客席を後にすること自体がすばらしく貴重なことであるから、今回の「二月堂」は成功を収めたと総括できるのである。
  人形陣は、ここまで何度も取り上げたように、まず和生師の渚の方が故文雀師の二代を襲名する披露狂言だと言っても違和感がないほど。別の言い方をすれば、「二月堂」渚の方の大落シで客席が手巾を濡らしたのは、「志賀の里」からここまで観客が目にしてきた主人公の渚の方があった結果なのである。良弁の玉男もこの動かない動けない人形をよく持って、しかもカシラに感じられる若さを千歳の語りとピタリ一致して遣うように感じられ、僧正というより人間良弁の姿に立ち会ったかのようであった(ここは千歳の語りにもそのまま当てはまる)。伴僧二人(文哉、玉翔)はこの経験を新しい時代へと繋げてもらいたい。

『傾城恋飛脚』
「新口村」
  追い出し付け物として持って来いである。親子の再会の後に別れというのは観音開きの感もあるが、昨今はそんなところまで狂言建てにこだわることもない(誰も気付かない)し、今回の役割からすると狙い通りと逆に評価されるかもしれない。
  御簾内、希と団吾が配されるほどに三業の層は厚かったかということになるが、これで切場を前後半分ずつ勤める床の顔が立つというもの。当然、両人の実力は御簾内に隠れるものではない。正真正銘、このレベルが御簾内に回される充実の三業であつたなら、どれほど喜ばしいことか。
  前、なぜ追い出し付け物に持って来いかというと、デザートの一品に相応しいからである。改作だけに人形浄瑠璃の面白さ楽しみが存分に詰まっていて、あの「二月堂」でメインまでを堪能した後、別腹としてのお楽しみ。したがって、もしこれを肉や魚料理に仕立てようものなら、もたれることこの上ない(もっとも、腹を満たせばよいという輩が平に成った世では蔓延りかけてもいたから、奴らが集う場においては勘違いの感想が吐き出されていることであろう)。さて、寛治師の三味線で呂勢が語るということで、劇場側もそんなことは百も承知千も合点だとわかる。まずハルフシが、なぜこの旋律がマクラによく用いられるかを納得させ、「世を忍ぶ身は後や先」の変化に足取りと間が絶妙、「凍える手先懐に暖められつ暖めつ」で情の乗り、マクラでこれほどの奏演は、このままでも十分に満足できる床である。女房の描出も巧みで、梅川の詞から最初のクドキには真情が感じられ、このまま後場の有名なクドキまで聞きたい気分であった。そのためではないと思うが、忠兵衛が陰に隠れてしまった感があるのと、冒頭「落人」とあるその哀傷には全体として欠けるところがあった。三味線がむしろ地味に弾くのは太夫の語りをわかっているからで、そうすると呂勢は梅川の成功以上に、哀切を描出する責任があったのである。聞き終わった印象としては人気絶頂期に至る二世越路というところか。つまり、南部を襲名すべきであるということになる。それほどに梅川は美しく情も描けていた。
  後、昨秋の「上田村」で仰天するとともに、こちらも襲名待ったなしに至ったと感じた文字久が、今回は宗助の三味線で語る。劇場側の狙いは明白で、孫右衛門を語らせることにある。もちろん、師匠譲りを期待してである。文字久の爺は「酒屋」の半兵衛がよく映っていたし、情も乗っていたから、今回の起用には120%同意する。それに加えて、「上田村」で足取りと間に変化が語れるまでになっているから、ここも名品になる可能性は十分にある。実際、浄瑠璃義太夫節のツボがきちんと踏まえられていて、実力が感じられる好演であった。宗助も存在感のある三味線であった。ただ、肝心の孫右衛門に関しては映るには至らなかった。しかしこれは、致し方のないまだ年齢経験が足りないから損をしたということだと思う。前述の「酒屋」でも宗岸はまだまだであったから、典型的な舅カシラは語れるところまで至ったが、この孫右衛門は宗岸と同じ定之進カシラであって、世話物の軽妙ながら滋味第一のしかも心棒が貫かれているという、その描出には至難を極めるカシラなのである。文字通り太夫の熟年期(絶頂期の後、芭蕉七部集で言うと「炭俵」)にしてようやく到達できるもの。だから、「酒屋」の場合も絶頂期まではお園で人気を博していても、晩年に至っては宗岸を語り活かすことが可能かどうかが問題になるのである。それを、熟する以前にその「情」を出そうとすると、たっぷりと念入りにそして必然的にもたついた局所肥大的なものになってしまう。よって、今回の文字久の行き方は全面的に支持されるべきものなのである。もう一つ損をしているのは、後場半段を語り場とされたことである。彼の語りは実は前から女役の描出に独特の情感があり、今回も前場から語っていたら、三味線が派手に弾く中に梅川の悲哀が浮かび上がっていた可能性はある。後場にも例のクドキという聞かせ所はあるのだが、前場ですでに梅川の性根が定まっているから、修正の施しようもなかった。加えて、むしろ不器用さをここまでに持ってきた誠実な太夫であるから、この人口に膾炙した、いわゆるこなれた浄瑠璃義太夫節はニンではないということもある。今回の評価が、もっと師匠の語りそのままに孫右衛門を描き出せという、一見当然そうに思われるが実は彼の今後をくびき殺すことになるものなら、耳を傾ける必要は全くない。新時代とは元号がただ変わるだけではないのである。
  人形について。梅川の清十郎と忠兵衛の勘弥は大阪者そのままで、息もぴったりである。前述のマクラ「凍える手先懐に暖められつ暖めつ」の遣い方は、決まった型なのであろうが、詞章通りにお互いの手を暖め合う所作にすると、よりそれが際立つのではないかと、素人目ではあるがそう考えた。全体としての評価は、一段通しての床であった場合に下されるべきであろう。孫右衛門の玉也、上に書いた定之進カシラの性根を自然と遣えるに至っていた。段切に傘を用いなかったのも、ロマン的詩情よりも人間的真情を、危機を脱して逃すのに一生懸命で、声も届かぬほどに離れたことにホッとした気の緩みが、降る雪と寒さの真ん中に独り立ち尽くす(長き親子の別れが現実化した)自らを認識させ、羽織で頭から覆い隠すという幕切れを、最も相応しいと本読みならびに自身の芸質から考えた結果であろう。納得であった。