人形浄瑠璃文楽 平成二十九年七・八月公演(7/31所見)  

第一部

「金太郎の大ぐも退治」
  淡字幕が付かない。しかし、無くても理解できる詞章ではない。では、なぜ無いのか。詞章理解は必要ないからである。若手の床によるユニゾンは力強く大きく勢いがあり、舞台効果も抜群で、大ぐもをはじめ道具類もよく出来ており、宙乗りまであるから、少なくとも寝ることはない。ただ、そういう点からすると、頼光の剣が輝かなかったのはまずい。浮世絵でもこういうところは四方八方にまばゆい光が発せられているし、アニメやゲームなどでの視覚効果は言うまでもない。せっかくスモークなども派手に炊いて、照明効果もフル作動しているのだから、この剣の輝きで客席から歓声を上げさせなければ、大蜘蛛退治がなぜ可能となったのかさっぱりわからない(前述のように詞章を聞いての理解は放棄されている)。また、蜘蛛の糸も豪快盛大に目を引くには至らない。逆に宙乗りからの紙吹雪はなかなかよかった。これを、鬼童丸とは関係がないとして咎めることがなかった点も評価される。
  このように書くのも、VR全盛期を迎えようとするに際し、文楽はどのように対応すべきかが問題になるからである。もちろん、対応しなくてもよいという選択肢もあるのだが、夏休み親子劇場に限って言えば、過去の新作(つまり現在では旧作でかつ古典でもない作品)にしがみつこうすると、「赤い陣羽織」のように大失敗をするから、常に新作を模索するより他はない。ちなみに、「瓜子姫とあまんじゃく」などは、旧作ではなく古典となることができた希有な例であり、親子劇場の古典を作り出すというのも至難の業である。さて、大蜘蛛が今ひとつ客席にウケなかったのは、アトラクションのように直接体験できる、直に迫って来るものではないからである。所詮は舞台の中である。しかし、所詮は作り事と言っても、前述のVRなどは現実そのものと感じられる。映画やアニメの場合は映像中の人物と一体化できるような視点を持つことができるし、客観的に見ていた場合もとんでもなく信じられない光景が広がっていれば、衝撃が感じられるのである(テレビのニュース映像なども同じ)。ここで、文楽とは人形浄瑠璃であるという点が立ちはだかる。人形は人間になることはできない。もちろん、それを逆手にとって人間の持つ諸要素(思考や行動や感情など)を蒸留して見せることはできるが、そこには床の奏演(平成風に平たく言うと情を語るということ)が必須となるから、親子劇場に掛ける作品には当てはまらない。
  ゆえに、残された道は人形がその活躍する舞台とともに非人間的な世界を展開することである。かつ、江戸時代のからくり的魅力をも前面に押し出さなければ、現代日本の少年少女にとっては、中途半端なぎこちなく古くさい仕掛けとの印象しか残らない。その意味から、この作品の怪異性は見事にそれに叶っているわけで、だからこそ音響(これは前述のからくり的手作り感の方が有効)、照明、道具等に徹底した工夫と働きが求められるのである。それにしても、妖怪ウォッチが大流行していた時期に、なぜ妖怪物を作ってみなかったのか。太夫の入れ事はあったにせよ、それで終わってしまったのは実にもったいなかった。今後は世間(子どもたち)の流行を的確に分析し取り入れてもらいたい。
  ただし、小学校から英語教育が取り入れられ、英語能力の高い教師が優遇されることになる情勢を鑑みると、今回のように、かつては日本人の常識というより幼児から自然に覚えていた日本の昔話や民話を題材とすることが重要で、人形浄瑠璃文楽ひいては国立劇場の役割が、文字通り日本古典の日常的伝承(司馬遼太郎によれば昭和四十年代で断絶したとされる)という本質そのものになっていくことも、強く認識してもらいたい。決して、黒ネズミを舞台上で踊らせるなどということがないように(もっとも、そいつは著作権ビジネスにより保護期間を75年に延長しようと企む拝金主義者の看板だから、タダで使わせるということはあり得ないだろうけれど)。まあ、野菜達の盆踊りに紛れ込ませるという類なら、それはそれでアイデアだということになるが、庇を貸して母屋を取られるという喩えの通り、十二分に注意を払わなければならない。戦後の学校給食のお陰で飢餓から救われたありがたいなどと素朴に喜んでいるだけでは、まんまと余剰小麦を売り捌いてしてやったりとほくそ笑む輩に太刀打ちできるはずもないのだから。
  三業の若手連については、敢闘賞贈呈ということで特記することもないが、三枚目の三味線として印象に残った友之助と、デビューとして師匠そっくりの「まねび」から入った碩(「ひろ」とはまた難読名だが、本名からつけたもの)が期待の新人として耳に残った。最後に、一つ難癖を付けると、赤鬼が金太郎の「子ぢやわいやい」を受けて「さうかいやい」と返すところ、これがあの浄瑠璃のパロディーだと理解して語っているとは思えなかった。わかっていたら完全に三枚目役に成り切っていなければなるまい。本作は、親子劇場用にわかりやすく書き換えられたものとはいえ、このように浄瑠璃義太夫節であることを骨格において維持しているのである。

「赤い陣羽織」
  民話を上演することは上記の趣旨に叶う、そう思って持ち出してきたのなら大いなる間違いと言わなければならない。第一、この翻案は西洋物を江戸風にしたということではなく(そう見えたから歌舞伎も文楽も飛びついたわけである)、権力体制批判にもってこいだと例の如く(「夕鶴」に利用された團伊玖磨には同情するしかない。なお、本作のオペラ上演に武智鉄二が一丁噛みしていることころが、図らずもこの品物の本質を表現している)作者が二次創作した品物なのである(もっとも、作者はそれを承知していて民話ではなく現代劇だと公言しているから、作者を責めるのは筋違い)。
  では、民話云々ではなく、名作だから再上演したというのならどうか。「寝取り」「寝取られ」を親子劇場に持ってくること自体どうかと思う(大人が見る分には、それこそフィガロの領主権と対照するのも面白い)。では、その親子劇場の枠を取っ払えば、権力風刺コメディーとして楽しめるのではないか。なるほど、しかし、これは人形浄瑠璃ではない、という決定的な事実がある。すなわち、文楽として上演すること自体が不可なのである。初演の経緯は言うまでもなく、名人上手が出演しているにもかかわらず、観客数が減少し続ける現状を何とかしようと、手当たり次第に新作物を上演した一環にあるもの。すなわち、三人遣いの人形と、太夫と床の奏演が揃えば何でもかんでも文楽人形浄瑠璃になる、という思考回路から産出されたものなのである。人形については確かにそうかもしれないが、三人遣いという点で甚だ問題がある。その前にまず、太夫が語って三味線が弾かれれば義太夫節であるという認識が、いかに愚かなものであるかということを、確認しておく必要がある。
  例えば、童謡や唱歌を来日したウィーン・フィルハーモニーが演奏すればそれはクラシック音楽であるか。当然ノーである。しかし、童謡キラキラ星をモーツァルトが変奏曲としたものをウィーン・フィルが演奏すれば、それはクラシック音楽に相違ない。ここで重要なのは、モーツァルトというクラシック作曲家が創ったからクラシック音楽であるということことにはならないという点だ。モーツァルトが童謡を素材としてクラシック音楽として作曲したから(もちろんそれは、短絡的にはクラシック作曲家が創ったからということと同値に見える)、クラシック音楽なのである。すなわち、これを本作に当てはめると、「赤い陣羽織」を西亭が作曲し太夫と三味線が奏演するという限りにおいては浄瑠璃義太夫節ではなく、浄瑠璃義太夫節の範疇として創られていれば文楽の作品となるということである。ここで前述の初演事情を思い返す必要がある。新たに掘り起こす観客層は文楽、浄瑠璃義太夫節に馴染みがない。かつ、本作が素浄瑠璃として奏演されることは全くない。つまり、太夫が語り三味線が弾き人形遣いが三人で操れば、それは人形浄瑠璃文楽だと思う観客を対象として作られたものなのである。
  「音曲の司」たる浄瑠璃義太夫節を特徴付ける点を一つに絞ることなどは不可能である。しかし、表面的ではなく音楽性という点から見れば、当然ながら、地、詞ノリ―(地色)―色―詞という構造が真っ先に上がってこよう。で、本作はどうであるか。厳しい条件が課されていたゆえに、ほとんどがメリヤスと詞に終始するより方法はなかった(したがって、西亭を攻めることも筋違いである)。可能性としてはわずかにト書きの部分が残されているが、毒喰わば皿でむしろ中途半端なことはしたくなかったということのようだ。結果、浄瑠璃義太夫節の新作という範疇にも入らない、決定的な違和感が残り、国立文楽劇場まで何しに来たのであろうと錯覚させるものとなっている。この曲を聞いて、浄瑠璃義太夫節だと納得する者がいれば、それは前述の通り表面的形式的な定義によってであり、逆にそうであるからこそ、本作が新作ラッシュの中に紛れ込むことで存在価値を有していたという理由にもなっている(もっとも、真の聞く耳を持った浄瑠璃義太夫節愛好者が大勢いれば、新作の必要など微塵も無いということになるのではあるが)。
  その点、人形の方は自由自在と見えるかもしれないが、前記三人遣いというこれまた人形浄瑠璃の肝心要の部分が問題となる。一人遣いがなぜ三人遣いとなったか、あるいは、三人遣いとなることで人形浄瑠璃はどう変わったか。このように基本的なことを、ここで改めて講釈するつもりはない。要するに、床が奏演する浄瑠璃義太夫節によって描写される、登場人物の複雑かつ微妙な心理(平成風に平たく言うと「情を語る」ということ)に見合うのは、三人遣いによるまるで人間のように動く人形ということである。で、本作においてその心理を表現する箇所があるかといえば、皆無である。むしろ、三人遣いが大仰に見えて仕方が無い。もちろん、それは当然のことであって、見合う対象が浄瑠璃義太夫節ではないからである(ちなみに「瓜子姫とあまんじゃく」は二世喜左衛門が実に上手く節付したことにより、新作のカテゴリーを超越し古典となることができた希有な例である)。
  歌舞伎でもオペラでも「赤い陣羽織」を鑑賞したことはないが(原作に基づいたファリャ「三角帽子」が佳品であることはこの耳でもわかる)、[文楽]での本作と比較して見たとき、どちらが面白く(これは翻案者も言う通りコメディーである)受け取られるか。同じ人形でも、パペットを使ってそれぞれに(馬も含めて)声優を割り振り、小劇場で上演(あるいはテレビ番組として撮影)した方がよほど楽しいに違いない(子ども向けには寝取り寝取られを何とかしたいが、原作改変不可との厳命がある以上不可能)。すなわち、浄瑠璃義太夫節として洗練されたものでなければ、素浄瑠璃として聞くに堪えるものでなければ、人間によって演じられる作品はもとより、いわゆる人形劇よりも退屈するという結果に陥るということなのである。
  思い返せば、なぜ今日のように文楽が大衆受けしなくなったのかというと、大阪の地盤沈下という地域経済力的視点は措くとして、義太夫節を愛好する素人旦那衆がいなくなったからである。人口に膾炙したフレーズも、自身が口に出せる(あるいはうなれる)からこそであって、劇場の椅子におけるもっぱら享受者としての観客という立場としては、歌舞伎に勝てるはずもないのである(能楽は謡や仕舞という形で自演する場が、大学のサークルも含めてまだまだ残っている)。役者に酔い痴れるということを、出語りや出遣いに置き換えることなどできるはずもない。酔い痴れるのは浄瑠璃義太夫節に対してなのである。すなわち、浄瑠璃義太夫節を聞く耳を持った人々を育て上げることでしか、文楽の将来はないと言ってよいのである(何度も言うが、人形が床の奏演で動くということを以て文楽だとするのは、表面的な形式論であって、かつての新作ラッシュ―これは親子劇場を対象としたものではない―と同じ轍を踏む以外の何物でもない)。
  さて、三業の成果については、以上の点からして述べる必要はないのであるが、それでも浄瑠璃義太夫節になっていると聞き取れた奥方と、何とか終演まで客を持ちこたえさせた馬とに、殊勲賞を贈っておきたい。それにしても、同日団体鑑賞に来ていた生徒は可哀想であった。このままサマーレイトショーを見て印象を改めてもらいたかった(凄惨な舅殺しは教育的にどうかなどと北鵠南矢なことを言う御仁がいたら、夥しい人口を抱えた一惑星を簡単に破壊する宇宙戦争映画はどうなのか、凄惨な光景を直接描写しなければよいのかと問えばよい。もしイエスと答えたなら、8/6と8/10の凄惨さをかの国に実体験してもらうべくスイッチを押す役目をしてもらおう。いや、鎖で繋がれた猿だから、クビをちらつかせれば眼前では凄惨な光景は展開されないゆえに、スイッチくらい簡単に押すかもしれないが)。実際、何度途中退席をしようかと思ったほどの「非常に人気の高い作品」だったから。
  蛇足、「非常に人気の高い作品」などと、臆面もなく鑑賞ガイドに記載できたなとつくづく思う。なるほど、新派、新劇、歌舞伎、映画、オペラ(しかしまあよくもこれだけ並べ立てたものだ。虎の威を借る狐か)ではそうなのだろう。だからといって文楽もそうだということになるのなら、以下の一節を進呈しておく。季節柄、中毒には十分気をつけていただきたい。晏子反顧之曰、「江南有橘、斉王使人取之、而樹之於江北、生不為橘、乃為枳。所以然者何。其土地使之然也。今斉人居斉不盗、来之荊而盗。得無土地使然乎。」荊王曰、「吾欲傷子而反自中也。」

第二部

『源平布引滝』
「義賢館」
  この端場は初見であり初耳でもある。切場は公演記録映画が残っており、その際ここは嶋大夫道八と記録にあるが未聴。その床が勤めるほどの端場であったがゆえに、今回も期待をして暑い中を劇場までやって来た。今回は靖錦糸、なるほど納得の配置である。靖は女がよい。これは声柄や語り口に合わないようでいて、実はその情感をしっくりと聞かせる。師匠嶋太夫と三味線錦糸の薫陶によるものであろうが、今回も、葵御前の風格品位が見事に描出されていた。待宵から小姑応答迷惑と言われての「さればいな」と一旦砕ける変化も絶妙で、若手実力者としてただならぬものを今回も感じさせた。ところが、その後ハッとするところはなく(ダメというのではない)、待宵姫のクドキも応えず、義賢と行綱の件になってからは、低音が苦しいということもあり、アゴも使えておらず(というよりアゴを使うということを誤解している?)、そのまま盆が回るというものとなった。三味線が鋭く厳しいものであったのは印象に残ったが。ひょっとすると靖は東風の方がよいのかもしれない。
  奥、記録映像の勝太郎と今回の清友では、時代物でもあり勝太郎に軍配かと思いきや、清友の三味線が気合い十分で、持ち前の質感に加え強さも鋭さも感じられ、二段目切場をわきまえて存分に弾ききるという、新境地を切り開いたともいうべき快挙であった。実に心地よい。織太夫襲名が決まっている咲甫であるから、注目されるのも当然で、勢い辛口に見られることにもなる。対照となるのはもちろん勝太郎の三味線を得た大夫のそれで、大音強声にして切語りとなった大夫でもある。ところが、印象としてはエンジンふかしっぱなしでのべつ幕なし語っていると感じた。確かに時代物の切場として大舞台が展開した(歌舞伎ではご存じの通りの荒技を見せる)のだが、緩急自在や情感というものとは遠かった。さて、咲甫である。大音強声においては劣らず、そしてまずドクロの件を見事に仕上げ、無念さと憎々しさとを両方観客の胸に突き付けた。続いて義賢の詞ノリが快哉。
  ただ、「木曽育ち荒木を切って投げ出したり」とある詞章とは、人物造形が全体を通して不足する印象を受けた。カシラが検非違使であることも原因の一つであろうと思うが、勇将というよりは知将との感じが強い。「頭微塵に打ち砕」き、「踏みつけ蹴飛ば」し、「からからと打ち笑」うカシラとして、検非違使は相応しくないように思われる。かつ、行綱も検非違使であるから、印象が薄まってしまう感は否めない。そうすると、歌舞伎の造形の方が義賢の人物像を的確に捉えているということになるのだが、ここは二段目であるということが大きな意味を持つことになる。三段目切場の主役実盛が文七カシラであるから、ここの義賢を同じにするわけにはいかない。かといって大団七カシラはなるほど木曽育ちの荒くれ者にはなるが、愁嘆が映らないし端場での洞察とも違和感が生じる。となると、やはり語りと遣い方で通常の検非違使カシラを突き抜けなければならないのだが、前述のように物足りなさを感じた。そうなると、公演記録での大夫の一本調子とも言うべき大きさ強さがむしろ正解ということになる。しかし、全体をそれで通してはこの二段目切場における主役義賢の前後二つの衷情が伝わらない。実に難しい切場である。
  ここから段切へは、死を覚悟した義賢が自分以外全員に対し源氏の将来を託す形で落ちさせる、その言動と心情とが主眼になるが、まず「まだぬかすか」の詞章に込められた悲しみを伴った怒りを、咲甫がしっかりと描出して見せた。この悲しみであるが、咲甫は義賢のわが子への思いと解釈していると聞こえたが、ここは直後の台詞以上に、「後白河院を奪ひ出だすが忠義の第一」とあるように、詞ノリで討死と引き替えに源氏の再興を図るという覚悟を聞かせたにもかかわらずという、あくまでも忠義と大望を中心とした方が、義賢の大きさが表現出来よう。ちなみに、わが子への思いは段切できっちり用意されているところである。そこの情愛は確かに語れていた。後はやはり義賢の豪放磊落たる描写で、詞章にある「義賢両眼くはつと見開き」「大袈裟に斬つて捨て」「拝み打ち」と、壮絶な最期は碇知盛以上であり、検非違使の性根に合わぬこの表現はなかなか物凄いところへは届かないのである。とはいえ、今回清友の三味線と咲甫の語りによって、公演記録とのプラスマイナスそれぞれの差を聞き取れたことは、この床が立派に切場相応のものであることを示すものである。
  なお、人形については最後に総括するが、義賢の和生はなるほど故師の跡を襲うのは尤もな実力を示し、二カ所の衷情をよく遣って見せた。ただし、咲甫同様に、義賢の剛胆は公演記録(亀松)の方が上で、知将のイメージが強かった。それはもちろんカシラが検非違使によるからであり、その点においては何の不足もなかった。義賢とはどのような人物か、文楽と歌舞伎とで観客の回答がどのように異なるか、調査してみるのも面白いだろう。

「矢橋」
  小まんの性根を見せるところ。床は御簾内。亘は今度こそようやく新人脱出で、相応の力もある語りであった。とはいえ、新人がなかなかの初舞台を聞かせたこともあり、今度は尻に火が付く事態となるのだが、そこは競い合って上を目指してもらいたい。三味線の錦吾、音自体はともかくとして足取りを自らのものとしていたのは進歩である。

「竹生島遊覧」
  掛合と決まっているが、前公演までなら左衛門は津国でピタリとなるのだが、実盛が回ってきた。何を語っても違和感を覚えないのは、何を語っても一本調子という点が変な色付けをしないという良い方向へ作用するからである。これが津大夫の弟子であり年の功でもある証左なのであろう。その結果として左衛門が文字栄に振られたが金時カシラでもあり破綻は免れた。小まんの南都、女役は例の如しと思っていたが、安定した語り口、こうなると一度は掛合を離れて端場を聞いてみたいという気にもなるが、そういうわけにも行かないのは後述の理由による。宗盛の希はどうということもないのが当然。忠太の碩がやはりデビューとして好ましいと思わせたのはすばらしい。三味線の清馗はこの掛合専門職を弾くようになったかという印象で、ちゃんとまとめ上げていた。
  ところで、今回初めての体験をした。「と言ふにびつくり」で客席から笑い声が起こったのである。なぜ?考えられることはただ一つ。敵から逃れたはずが、何と敵方の船だったのである。「びっくりしたなもう」「あっと驚く為五郎」これは笑わずにいられない、喜劇笑劇であれば…。驚愕の事実を知らされるという表現があるが、この場合の小まんはまさにそれであり、その場合に笑いなど起こるはずもない。なのに客席からは確かに大勢の笑い声が響いていた。要するに、小まんの心情が客席に伝わっていないか、小まん(このドラマ自体)を客観的かつ冷徹に捉えているか、直前の「涙と共に一礼を」とあった小まんの言葉と詞章とが無視されているか、なのである。結論を出すには、別日にもう一度確かめる必要があるが、そのためにわざわざ出掛ける気にもならない。しかし、このところ頻繁とまではいかなくとも間々あるこれらの笑い声からして、観客にその理由があるとするのが妥当であろう。とはいえ、小まんを語る太夫にもその責はあるとも言えるわけで、これではさすがに人形が可哀想だと同情せざるを得なかった。もっとも、これが今回の同情だけで済めばよいのだが、どうやらこれも文楽を巡る一つの傾向のようだ。ちなみに、山城少掾が「こなた一人の子かいなう」(熊谷陣屋)での笑いを何とかしたいと語っていた、その笑いと同質であるならば、観客も気楽気軽に見ているわけで、古典芸能鑑賞などという堅苦しさとは無縁で結構と歓迎もできる。ただ、その場合にしても、戦前は自らも語り(そこまでいかなくとも風呂場でクドキをうなることくらいは日常茶飯事)浄瑠璃義太夫節を聞きに来ていた観客であるのに対し、現在はストーリー把握と情の描出とで人形を見るという決定的な違いがある。そして、この場合はそのストーリーと情が欠落しているから笑うので、やはりこれは甚だ危うい状況だと捉えなければならないのである。

「九郎助住家」
  中、冒頭の二上り唄から三味線の寛太郎が雰囲気良く弾いて太夫の希に語らせている。ここは仁惣太と婆のやりとり、突っ込みに肩透かしからの逆襲が面白いところだが、そこまでには至らず。その仁惣太も「大道横に」とある詞章よりずんとまともに聞こえた。ただ、不自然な押し出しや変な儲け心がない分、自然にスルスルと聞けたという点は良いと評価しておく。
  次、文字久を団七が指導する。冒頭の葵御前愁嘆はもう一つしみじみとしたものがなかったが、続いて白旗持った肘の件、「言わず語らず三人が」と顔見合わせるところは雰囲気が伝わって上々。そして眼目の瀬尾が登場し実盛とともに一同揃ってからは、話の進行を期待させる語り口で合格。予想では例の如く悪くはないが平板気味で面白さに欠けると踏んでいたものが、これだけできれば少なくとも序切レベルすなわち切語りの資格がある。となれば、いつまでも幼名の「久」をくっつけておくというのは、本人の謙譲よりも語り場に対して失礼に当たるわけで、織太夫襲名が確定している以上、千歳、呂勢、津駒とともに、実も名も一段上となるのが斯界の王道というものである。大相撲が日本プロレスに堕落したのも、一つには伝統的四股名を軽んじた(まるでキラキラネーム)というのが大きな理由なのである。これとは別に、今回の語りで書き留めておかなければならないのは、瀬尾の描写である。なるほど、「これ産んだか」「なくちや叶はぬ」など、あの人形の造形の如く、もっと個性的で面白くなければ物足りないのは事実である。しかし、「平家に名高き武士」とある、その大きさと強さは十分であったし、まさに端敵などの軽薄さとは無縁で、かつ最後にモドリとなって善性を顕す人物としては、この正攻法の語りでもっともと納得させるものがあった。これはなかなかの実力者でなければできないことで、三味線がかつて津太夫を弾いていた団七であったことも大きいが、ようやく自身の語り口にたどり着いたとも感じられるものであった。体躯といい持っているものはすばらしいのに、現代日本人としてやはり西洋音階に耳慣れて、ヨナ抜き音が混在し、地の部分はカラオケで歌うが如きトレースで、何とももどかしい思いを長い間抱き続けたが、浄瑠璃義太夫節のシャワーを浴び続けること三十数年にして、ようやく浄化が完成したというところか。こうなると、持っているものが最大限に活かされて、更なる高みへ至る可能性も出て来た。彫刻師ではなく生木を鉈で真っ向唐竹割りにする男、すなわち時代物三段目切場を丸ごかし語れる太夫(=最高位=紋下・櫓下)であるはずだし、そうなるべきである。イキを詰んでカスが残らぬよう大胆な足取りで語ること、これが可能になれば現実のものとなろう。役者出身ゆえ一芝居してやろう等の思いは皆無と思うが、引き締まった語り口こそが、最重要の課題となろう。
  切、名人の域に達すると、浄瑠璃義太夫節とはどのように語るものかが、如実に判明する。一段のヤマ・急所を押さえ、あとは人物の性根をつかめば、サラサラと筆を走らせてしかも偉大なる書が完成するという具合である。この切場で言うと、白旗を持った肘を継ぎ合わすところ、小まんを求心力として登場人物全員の心情が描出されること。冒頭から行くと実盛物語も重要だが、ここは三味線とともに詞ノリが血肉化していれば十全たるものになる。これを可能とした床とは、もちろん咲太夫と燕三である。
  奥、呂勢と清治師。布三は綱弥七を何度も聴き込むほどに好きであるが、その理由の一つに、この奥からの展開と段切の魅力がある。今回、素直に楽しめ、爽快感が残り、心地よく追い出されたのも、この床が浄瑠璃義太夫節というものを熟知しているからであり、現行にあって、素浄瑠璃としてあるいはCD録音ででも聴いて満足できる数少ない床なのである。笹竜胆紋の見台で臨んだのも見せかけには終わらなかった。しかし、不満がないとは言えない。例えば瀬尾のモドリ「一というて二のなき家来、執り成し頼む実盛殿」の詞、変化に加え台詞回しも鮮やかなのだが、「非道に根強き侍も、孫に心も乱れ焼き」とある詞章に比すと、心奥からえぐり出すような存在感が今ひとつで、なるほど上手く語ってはいるのだがしかし、と物足りなさを感じたのもまた事実である。清治師が西風三段目切場奥ということもあり、鋭くかつもたつかず弾いていくので、その流れに乗ってしまうと、どうしても語りが従になってしまうのだ。ここまで書いてきた咲甫清友にしろ文字久団七にしろ、どれも三味線が引っ張る形には違いないのだが、その三味線が後ろへ引っ込んでしまうような、そういう箇所がいくつかはあり、そこでグイグイと語りに引き込まれるわけだが、それがないのである。もちろん、それほどに清治師が偉大なることの証左ではあり、受賞記念CD「平太郎住家」にしても、見事な奏演で何度も聴くに値するものであるが、はあ堪能したということには至らないのであった。やはり太夫の語りが第一なのである。古靱と三代清六の「堀川」や「合邦」が面白くないのも、いくら三味線がすばらしいと言ってみても、結局は太夫が痺れて身動きが取れないからである。すなわち、この床の浄瑠璃義太夫節を毎公演聴いていくしかないのである。
  人形陣の総括。といっても、こちらの目に残ったところを記すのみで、書かれない場合は相応の出来であったと理解していただく。まず、葵御前の文昇。葵御前はこれまで上品なのはわかるが特記するところもなかったのだが、今回源氏の頭領の正妻としての位と格が見事に描出されていて、これならば行綱や実盛から敬われるはずだと納得ができた。実盛の玉男は段切での馬上颯爽たるところが好ましい。瀬尾の玉也は派手さがなくとも奥での滋味ある表現をとる。九郎助の文司、女房の簑一郎、太郎吉の簑太郎は、旗持つ肘の一件でそれぞれの心情が伝わって来た。清十郎は小まんは床で損をし奥方では得をしたという印象であった。最後に、一点苦言を呈すると、段切の仁惣太(玉翔)が実盛に捕らえられもがくところ、間が持たず早く首を切ってくれと待ちの体勢になっていたのはいただけない。例えば、昭和45年の公演記録、先代玉男師と紋弥(玉松)の絡みを見るだけでも補正できよう。

第三部

『夏祭浪花鑑』
「住吉鳥居前」
  西亭の補曲は当時の文楽を救うために必要なものであったと第一に考えるべきだから、その結果詞章がズタズタにされ継ぎ目も不自然になり耳障りな違和感ありありになっていても、今後は何も言わないことにする(かつてそれを槍玉に挙げた結果、当時のつばさ太夫にとばっちりがいってしまったことは、今に至るも消えない悔恨である)。
  口、元気はつらつ、それでよい。マクラなど何を目当てに語っているのか不明だったりするが、浄瑠璃義太夫節としては聞こえた。咲寿と団吾である。
  奥、地の不安定さなどいつもの睦である。が、不思議なことにそれでもちゃんと耳に入ってくるのは、まず三味線の宗助がよく弾いているからと、太夫の持っているものが良いからである。この太夫の口から出てくるものが、真の浄瑠璃義太夫節になった時、つまり、浄瑠璃義太夫節のシャワーを浴び続けることにより、不浄が洗い清められた時、三段目切場語りとしてまず第一に名前が挙がる太夫となろう。今はその時を只管楽しみに待つのみ。そのためにも、三味線には導師たる人(宗助もまさにその一人)を常にと願う。なお、今回は警護の役人の上から突っ張った語り口が耳に残る。間、足取り、変化にも進歩が聞き取れたが、これはほぼ宗助の功である。

「釣船三婦内」
  口、真っ向勝負、白木の角材、いずれ屋台骨とならん。悋気模様などまるで伝わって来ないが、巧く語ろうとしないところを今は買わなければならない。小住と清公である。
  奥、今回この切場を聴いていて、切語りまでごくわずかのところへ来ていると感心した。
今回まず驚いたのは、女房のおつぎがこれほど鮮やかに描かれていること。こんなに良い役であったのかとこれまでの不明を恥じた。三婦単独ではまだ映らないが、このおつぎだから夫婦の会話が見事に決まってその三婦が映ってくる。このような経験も初めてである。会話と言えば雑魚二匹も実に鮮やか、ここまでのものは過分ながら耳に残っていない。そして、お辰の心情、これは人形が簑助師だからというのは百も承知しているが(今回は、「差し俯いてゐたりしが」が格別で、鉄弓は決して怒りや悔しさや面子から衝動的に当てたものではなく、「何思ひけん立ち直り」とある強い意志が発動する前の、極道の妻として女としての絡み合った心理がそこにはあたということを、気付かせてくれた)、これを語れていたら合格に決まっている。後半は例の如く荒れたり(勢いが付くと三婦の年齢設定が吹っ飛んでしまう等)へたったりが感じられるが、疵というところまでには至っていない。これが何の心配もなくなれば、名実ともに切語り、昨今の持ち場からすると実質的なトップということになろう。ここまでに育て上げた富助の力量と千歳が永遠の優等生をいよいよ卒業して本物になるかとの期待を強く感じた。

「長町裏」
  咲甫の団七に驚愕した。走り付いて畳みかける台詞と、それに続く足取り、以下、その時々の心情を語り尽くし、素晴らしいの一語に尽きる。もちろん舞台上では、勘十郎の団七が超絶魅力的な、至上の美としか表現のしようがない、芸術的世界を創出している。この瞬間に立ち会えた幸せは、まさに「時よ止まれ、おまえは美しい」と叫ばざるを得ないものであった。一方の舅義平次、玉也も絶妙である。とりわけ、金が無いとわかってからの所作、切られての立ち回り、最期の執念に至るまで、この勘十郎を向こうに回し見事に遣って見せた。これまでに何度も見、場面も目に浮かぶからもういいかとも思ったが、客席に座ってみなければわからないとはまさにこのことであった。かつてすばらしい泥場を見てきたはずであるが、そんな記憶など吹っ飛んでしまい、ただただ眼前に展開する芝居に釘付けというよりも、感嘆しつつ型が極まるたびにうーむとうなり声が出そうになり堪らなくなるという状況であった。祭囃子の聴覚効果も相乗、それゆえに去った後の静けさが引き立ち、「悪い人でも舅は親」の台詞が屹立するという、狙い通りの完璧な幕切れとなった。もちろん、「八丁目、差して」の団七走りでとどめを刺されたのは言うまでもない。と、余韻の残る終演後に、これほどのものに仕上がったのはなぜかと考えることとなる。イキの詰んだ緊迫した引き締まった舞台であったが、結局それは全体を統括する力が作用していたからである。その力とは、三味線の寛治師以外ありえないのであった。津駒はこの中にあってよく埋没せず義平次を勤めた(これが自然に聞こえる太夫としてはニンに非ず)と言ってよいだろう。とはいえ、かつての伊達路であったなら、全体として芸術大賞(現代古典洋の東西を問わず)受賞(そのようなものは存在しないが、芸術選奨は個人単位であるから)レベルとなったに違いない。ともかく、今回は大絶賛の上を行く評価の域を超えたもので、空前絶後という語はこういうときのために用意してあるのだと、実体験により痛感したのであった。
  人形陣の総括。ここでもやはり言及しないのは相応の出来ということを意味する。主役級についてはすでに述べてしまっているので、三婦の玉輝から書くと、狂言回しとしての存在(この一段にとって不可欠な存在であるという意味もある)であった。これは語りの影響が大きい。そういう意味では、おつぎの勘寿が語り活かされた形となって、三婦より良い役になっていたのは、気持ちよく遣えたからでもあろうか。徳兵衛の幸助、三婦内での喧嘩戻りの方が活写されていたのは、やはり床の力が大きい。逆にお梶の一輔は割を食った形となった。
おまけ。団七と言えばビックリマンシールのスーパーゼウスとコラボしたそうだが、これは失敗。コラボ自体は結構だし、事実松王丸と静御前はなかなかよく出来ていた。しかし、スーパーゼウスは要するにレア度からしても最高のシールを、今回の人形では最も目立つ団七に割り当てたものであるが、キャラクター的にまったく不似合いで、無理矢理感が半端ない(シール世代の口調にしてみた)。元宿無で舅殺しからお尋ね者となった団七が、超絶能力を有する最高神のはずがない。文楽人形のカシラなら孔明(白髪姿なら鬼一)しかないだろうに。こういうマニア的な物は、細部にまでこだわる本物志向が求められるのだ。
  とはいえ、オークションにはすでに出品され、最低でも一枚一万超の価格設定、団七ゼウスはそれ以上という事実を見ると、失敗ではなく成功と言わなければならないのかもしれない(転売厨であろうが何だろうが、このシールのためにチケットを購入してくれる客が増えるのなら、商売としては喜ばしいに違いない。仮に、チケットを入口で見せ、その場でシールとの交換を要求されたら、終演後に配布すると対応するのであろう。では、上演中もロビーに居続けるあるいは終演に合わせて現れた場合は、どのように対応するのであろう。権利として当然シールはもらえるものと主張されたら…。―そのようなことは公演期間中ただの一度も起きなかった。愚にも付かない妄想で、劇場側に難癖を付けるのは止めろ。とりわけ今回はコラボ先のロッテにも迷惑がかかるのだ。これ以上続けるなら、名誉毀損でサイト管理者に訴え、記事の削除に加えHPの閉鎖も要求するからな)。―ということで、最終段落の括弧内の文章は抹消線が付されているとご理解願います。