人形浄瑠璃文楽 平成二十九年十一月公演(11/11所見)  

第一部

『八陣守護城』
「浪花入江」
  まず、「毒酒」を出さずにここを出すと次々と登場する使者の意味がわからない。これはもう予習を完全に前提としていると言う他はない。そして琴唄が奏される。「毒酒」からだとこれが正清の悠然たる姿を間接的に表現したものであるとわかり、かつ、「毒酒」の屈託から解放されて美しい旋律に身を任せることができるのだが、開幕直後にやられても一向に有難味も無い。そして大船の具合を廻り舞台と共に見せて観客を驚かせるが、これも「毒酒」の後のインテルメッツォであればこそ有効であるわけで、これではまったく文楽とは舞台を観るものであると宣言しているようなもの。いくら時間的制約があればとて、間奏曲を最初に持ってくるコンサートなど皆無であろう。それが文楽では起こるのだ。要するに、文楽劇場はもはや切り身が並ぶスーパーになっているわけで、消費者が手軽に買い求めればそれでいいというスタンスなのである。クラシック音楽ならば、魚屋もあればスーパーもあるからよいのだが、文楽の場合は、国立がスーパーだといったいどこが魚屋をやるのか、ひょっとして過去の名演名場面がそれに該当するということなのであろうか。となると、当『音曲の司』における「浄曲窟」の責任も甚だ重大になってくるというものだ。
  とはいえ、この一段の出来は悪くない。まず、三味線の錦糸が何と言っても聞き物で、マクラでの左の利かせ方、琴唄での掛合(琴は錦吾)など惚れ惚れするばかりである。太夫陣は、希がいつもながら可否交々の状況で、マクラで不即不離が出来てきたかと喜んだものの、琴唄は情緒も雰囲気もなくただ詞章を言っているだけ。小住の鞠川が与勘平のカシラが映る語りで、真っ直ぐな白木の荒削りから進歩しているようだ。シンの正清は靖で、健闘はしているし低音部も響くようにはなっているものの、大笑いなど平板で迫ってくるものがない(声の大きさ強さとはまた別の話)。亘は無難。人形陣は、使者二人はこれだけでは何とも評しようがなく、雛絹の一輔がここのところ赤姫が持ち役になりつつあって、確かに清楚な趣は感じられる。中心人物の正清は当然にして玉男が勤め、「毒酒」なしのポッと出でありながら、大きな人物像を描出して流石であった。ただ、毒が回って眉の動きから懐紙に血を吐くところは、胸にグッとこみ上げたものを抑えて懐紙により確認するという一連の動きとは見えず工夫が必要で、また、船柱にもたれかかる所作も、彼方を眺めて何か考えているのか、毒の影響を受けた身体を支えているのか、雛絹に血糊を拭き取らせるのを型として美しく見せているのか、とらえどころがなく意味不明に陥る危険があった。まだまだ故師から学び取らなければならない。

「主計之介早討」
  マクラから聞き物である。この変化(強弱、足取り、間)を語り弾くだけで実力がわかろうというもので、咲甫に清友がまったりと厚みがある三味線でよく映る。腰元二人の会話は常套的なものだが、それを「折柄に」の後の撥でパッと雰囲気を改める技量がまたすばらしい。鞠川の与勘平は四月『廿四孝』の村上義清で再度お目に掛かることになる造型だが、「毒酒」なしだとより軽く扱わなければならない。文哉は相応だが、「毒酒」から出ると持たせてもらえたかどうか。大内義弘は孔明カシラだからすべてを悟る器量と掴み所のない大き(茫洋さ)が必要で、玉志は後者が今一つだが前者はよく遣っており、名将とある詞章に恥じない。そこへ出てくるのが灘右衛門こと児嶋で、段取りとしては「鱶七上使」そのままだが、カシラからしてその造型は「盛綱陣屋」の和田兵衛に匹敵させなければならない。荒物遣いが回ってくる玉也に死角はなく、曲者ぶりも後できっちり遣ってみせるが、そのカシラという点でもう少し暴れてもよいとは思う。病気見舞いばかりで気がかりな葉末(勘弥は堅実で好ましいが、子息で雛絹を釣る策略もある造形にまでは至っていない)のフシ落チで場面が行き詰まるのを、義弘が突然言を翻して正清を壮健というところから話が急展開するのだが、この変化を床がきっちり語り分けているところに実力が聞き取れる。主計之介登場で変化の面白みが続くが、その長台詞はもう一つ面白みに欠けた。最後は雛絹との恋模様が展開されると予測させて三重となるのが心憎く、まさに切場への渡し役としての詞章と節付があるのだが、床自体もその立場もしっかり勤め果せたと言えよう。新春の織太夫襲名は、咲太夫の遠慮(遠く慮るという意味)が実に立派なのであるが、将来綱太夫襲名に際して紋下(櫓下)が復活するという、重要な第一歩でもある。咲甫にその器量(自己を取り巻く他者関係を含めて)があることは、「婦人画報」(12月号)を見ても明らかであろう。

「正清本城」
  若太夫という豊竹の頂上に至るべき太夫ならば、この麓など難なく踏まえなければならないところだが、今回のを聞いて、麓というのが謙称以外の何物でもないということが、伝承ではなく曲としてよくわかった。音曲としての浄瑠璃義太夫節が完成した時期に現れた化け物で、「「表」の三本にて上が支へず「裏」の三分にて下が支へず、「ギン」の音と云ふたら「一二三」とも「ニジツタ」音より出て「張り強く、底強く、押強く」」とある太夫であるがゆえに、その節付の面白さは群を抜いており、「滿天下の藝界を振蕩し、其の藝人と素人の別なく、老幼婦女より出家、侍、町人、百姓に至るまで此の麓太夫の語り場を聞かんと、四方より堵の如く豐竹座に群集したり」とあるのも宜なるかなである。この「正清本城」も当然この例に漏れない。したがって、この一段をはじめ麓場を面白いと感じられない耳は義太夫節を聞く耳ではないのである。とはいえ、このいわば完全体とでもいうべき麓風を勤めるのはそれこそ完全体の床でなければ叶わない。今日麓太夫が勤めた諸段の上演回数が、戦前に比して激減しているのは、そのためもある。しかし、耳が出来ていれば脳内で補完することは可能であるから、麓場を出し続けることが、太夫陣ひいては人形浄瑠璃文楽の弱体化を防ぎ、観客の耳の醸成という役割も果たすことになるのだ。したがって、「正清本城」では客が入らないというのは、百年に及ぼうとする怠慢の蓄積に逆ギレすることに他ならないのであって、まして時代の変化(手入れを怠ったら赤鰯になりましたという身から出た錆を正当化する決まり文句)などという語で片付けることなど出来るはずもないのである。それにしても、昭和四十年代まで日本の伝統は継承されており、それ以後断絶したとする司馬遼太郎の指摘が的を射ていることを、「正清本城」においても、春子大夫と松之輔による奏演(劇場録音)によって確認することとなった。東京国立劇場の開場は、その意味からも重要な意味を持つものであったわけだが、開場当初こそ高邁な理念に基づきながら、まさにその伝統継承が行われていたものの、やはりお役所仕事(時勢に流される:決して流行を先取りしたり発信したりではない)に収まってしまったことは無念の極みである。あの足取りと間の具合、雛絹のクドキも正清の大笑いも十全で、しかも人形浄瑠璃を見る目を持ち浄瑠璃義太夫節を聞く耳を持った観客の反応と相俟って、麓場が理想的な形で現出していたことに、感動はもちろん感慨を覚えずにはおかない。戦後も文楽の危機は常に叫ばれていたが、あの録音を聞けば、当時はそれが外的要因に留まっていたことがよくわかる。現行の危機こそが、内的要因において山積している、文字通りの危機なのである。
  さて、今回の呂清介であるが、雛絹のクドキを逃げたのは床(太夫)の個性としてあってもよいことではあるが、これでは麓場のクドキの魅力が削がれてしまう(一輔も遣いようがない)。もちろん、その分は正清に主眼を置くということなのであろうが、いかんせん応えない。こう書くと、いやそれは声量の大小という表面的な現象にとらわれた僻耳であると言われそうだが、正清の出は大将格に欠け(玉男は小さくはないが二人の軍師を従えるほどの力量には及ばない)、続く詞も切迫感が不足し、手負いの娘は哀切に乏しく、柵の愁嘆の急速調は三味線ばかりが走っていて(勘寿が葉末との差をわきまえて遣うのは的確)、これでは大落シで手が鳴るはずもない。以下、段切前の正清「血汐を注ぐばかりなり」が、さすがに目薬だとまでは言わないまでも、普通に泣くことなど立ち役がするはずもないのだから、この程度ではとても至らない。何度も言うが、これは津大夫のような大音強声でないと勤まらないということではない(それに、津大夫の場合は雛絹のクドキが物足りない)。実際、前述の春子は化け物の美声家ではないか。それがあの通り麓風の大場を見事に客席(音源を聴いた当方もであるが)を鷲掴みにして語り終えているのである。春子はご存じの通り、太夫陣の危機によって三段目切場をあてがわれ続けた結果、舞台で倒れることになった太夫である。これでこそ「血汐を注ぐばかりなり」が正真正銘語られるのである。え?舞台で死ねとか芸のためなら女房も泣かすとか、そんなブラックなハラスメントは現代日本では犯罪行為ですと? こりゃまた失礼いたしました。これこそまさに、時代の変化ですなあ。とはいえ、この「正清本城」がどういう構成でどんな節付けがなされどれほど魅力的な一段であるか、字幕にチラチラ目をやる余裕もあったのでよくわかった。今回、麓場を語れていないが、麓場がどういうものかは語り知らせたというところであろう。麓太夫風という大山の裾野を一周してその偉容を仰ぎ見たと形容してもよいが、要するに、しんどいから山登りは避けた語りであって、三味線はドローンとなって全体を俯瞰したのである。この様子では、陣立物の大曲「竹中砦」が上演されるのはいつのことであろう。素浄瑠璃の音源のみが残るようでは文楽の明日はない。国立側がやらないのなら、大学などの自主的な上演を待つしかないが、新時代の幕が開くかは心許ないのである。

『鑓の権三重帷子』
  またしても、である。一方『堀川波鼓』は大阪国立では三十年間上演がない。この差は結局のところ舞台にかけて面白いかどうかという一点に尽きる。深刻さを割愛したからと言ってもよい。「岩木忠太兵衛屋敷」が省略してある場合はよりそれが明確になる。むしろその方が「ちかまつ軽チャー」として徹底化されているとも言える。平に成った時代にはもってこいの改作になると、西亭の先見性には脱帽するしかあるまい。
「浜の宮馬場」
  お雪がこれまで聞いた中で一番ではと感じたのは、単に高いところへ届いただけではなく、不即不離に進捗のあとが明確であったからという咲寿。特記すべきはこれくらいで、他の太夫ならびに三味線は相応の出来。そういえば、かつてギャロップ音を録音で流していたことがあったが、箱砂に椀という伝統的効果音になっただけで、新作曲改作物臭が抜け、近松物の古典に聞こえるのが不思議である。

「浅香市之進留守宅」
  順に書いていくと、まず髪結いの琴(燕二郎)がピタリ、下女の世辞はあからさまのようで実はよく手懐けられた結果であり、それが証拠にお雪の乳母への対応が女主人の意向をくみ取ったものになっている。われらがご主人様への忠誠心は、おさゐの目が(ムチとアメで)行き届いているからこそ、絶妙なバランスではぐくまれるのである。このことからも、一家の切り盛りをするおさゐの能力の高さがうかがえる。権三を婿に「そなたがいやなら母が持つ」のところで、例の悪弊である字幕先読みの笑いが起こる。もちろんこれは、床本片手の時代には一度も起こってはおらず、観客の責に帰するのは酷であるから、国立劇場側が義太夫浄瑠璃を妨害していることになる。実に「世なりけり」である。次のおさゐ権三のやりとりは、前場における乳母権三のやりとりと対比することで、権三の性格造形が明確になる。強く迫られると、その内容は小身者である自身の上昇志向に叶うものでもあるゆえに(大家の婿となるより他に道はない、幕末動乱期は遙か後の太平謳歌の真っ只中である)、相手が望む返事を自らの意思として与えるのである。しかし、決して権三側から主体的積極的に言い出しはしない。とは言うものの、お雪とは喜んで関係を結ぶし、酒樽を抱えて早速訪問もする。この辺り、自分が動かないとどうしようもない小身の家柄と、それと平行しての経験値不足が如実に現れている。一方の伴之丞などは無能であっても、大身の家柄が場数を踏む機会を自然にもたらすし、周囲がちゃんとお膳立てもしてくれるから、それに乗っていれば父や祖父と同じ道をたどることができるのである。しかも、大概のことは身分が何とかしてくれるのであり、おさゐに迫って伝授ともども濡れ手に粟と簡単に考えられるのも、その性格もあるが大身ゆえの傲慢が身についているからである。それに比して、権三は自分で決断しなければならない。しかもそれは、前述のように受動的であり消極的にならざるをえない。権三が容貌も才能も平々凡々たるものであったら、上昇志向など持ちようもないし自意識すら弱々しいものであったろう。なまじ自身に注がれた周囲の目と、呼び起こした評判とが、権三の性格をここまで育て上げたと言ってよいのである。さて、おさゐが「折々玄関までお出で下されても、わざとお目にかゝることもなし」というのは、封建期かつ武士の妻たるものとして当然のことであるが、それをわざと言わせた近松は、噂のみ高く実際に目にしたことがないだけに、おさゐ自身が想像をたくましくして思い込みにまで至るほどの妄執を抱かせることになったということを、示してくれているのである。なお、「玄関」(げんくわん)は津駒であり寛治師に弾いてもらっているがゆえの正当性の表現でもある。
  以上、人物造形についてこれだけの考察ができたのは、寛治師の三味線はもちろん太夫である津駒の手柄である。
      
「数寄屋」
  「底も鏡もすっぽりと〜」の情景描写は、普通の浄瑠璃義太夫節ならば地で処理をするところであるが、ここを詞同様にスルスルと疊込んで語るのが近松物に特徴的な節付けである。このあたり、先々代ならびに先代綱太夫の語りに明確であったが、咲太夫も鮮やか=近松物をよく理解するものであった。だいたい、近松物は三味線の技巧がそれほど確立していない時期のものであるから、典型的な義太夫節と比べて、一層その足取りと間と変化で聴かせるものなのである。さすがに咲太夫と燕三はそこがわかっていて、しかもきちんと奏演として再現できるところが、近松語りの系譜に繋がる床なのである。もちろんそれ以外にも、伝授での妖しい密やかさと嫉妬の瞋恚に狂うところ、女が引かれる現実と男がこだわる理想との対比、語る理想段切の二人が転落してゆく描出の見事さなど、かつて綱弥七が勤めたことを彷彿とさせる床であった。来たる新春公演での追善に先立って、近松物での追善となっていたとも思わせるもので、流石という言葉はこういうことのためにあると、あらためて思い知ることにもなった。

「女敵討」
  ここも順を追って書くと、オクターブ上を語る咲寿がよく通っている、盆踊り唄の賑やかさは清治師の三味線による指導の賜物で、その都会の雑踏まで感じさせる奏演なればこそ、二人がなぜここへ逃避行を決め込んだのかまで理解できるのである。睦は危なっかしいが何とか聞ける。「心も冴えて?も冴えて」と語ったのは呂勢の探究心ゆえだろう。改作通りなら「身」だが、原作は前後の詞章も異なるが「目」なのである。この一語でおさゐの造型や行動までもが一八〇度異なるから、自身が決めつけるのを避けて観客にそれを委ねたとも考えられる。最後の権三の詞は一本調子で口上を聞かされているような違和感があった。人形は、和生師のおさゐが結局は夫がすべてであったという遣い方、勘十郎の権三は斬られの最期が武士らしく誇りかなものであった。ただ、両人が橋上の市之進に見つかる場面、二人して水面に映る橋上のじっと動かない人影を確認するという遣い方はすばらしいが、声を掛けられて見上げるのはいかがなものか。後ろ姿だけでは確証がもてないのは当然で、見つめ続ける人物が不審で見上げたところで判明とするのは、改作とはいえよくわきまえた詞章といえよう。著作権により詞章も節付けも一字一句改変が許されないと、原作による批判者を封じ込めるのであれば、人形の遣い方も改作詞章をきっちり踏まえなければならないというものであろう。
  なお、本作全体を通じてのおさゐと権三の人形造型に関して言及すると、おさゐは良妻賢母が前面に出ているところは見事であったが、権三に絡んだ思いの噴出と過ちを自ら犯すことになる出過ぎた性格の描写が不十分であった。一方の権三は、評判通りの好い男で如才もないところとおさゐに巻き込まれる感じは素晴らしかったが、自身が小身者ゆえに上昇志向からその場しのぎの言動を見せてしまう欠陥については、考察がなされていなかったように思う。

第二部

『心中宵庚申』
「上田村」
  最初から書くことは決まっていた。三味線は亡父の女房役を勤めていたときの教えがしっかりと撥にも指にも現れており、近松物とはどういうものかを聴客に弾いて伝える。一方の太夫はさすがこの師匠にしてこの弟子ありと思わせる系譜の語り口が滲み出ているが、それゆえにまた足取りや間に近松物としてしっくり来ないところを、前述の三味線が引っ張っているから何とか事なきを得た。つまり、劇場へ行かずとも想定内の床で済ませられるのだろうと。第一、「上田村」は綱弥七が空前絶後で止めを刺すものとして、その奏演が有り難いことにきっちり残っているのである。これがあれば他は必要ないし、これを聴くと他はすべてニセモノ(もちろん語り方に唯一無二などというものはなく、個性があるのが当然だなどということは百も承知千も合点である)としか響いてこないのであるから。ところが、実際に聴いて驚いた。これだけ引きつけられしかも唸り声を上げざるを得ないほどの仕上りとは。文字久と藤蔵の「上田村」、以下にやはり順を追って書き進めなければならないのである。
  マクラ、三下リ唄の詞は恋模様であるが、これは古代より労働歌の常道であり(「多摩川にさらす手作り…」『万葉集』東歌を一つあげるだけで十分)、むしろここでは、この三下リが鄙の農村を示す雰囲気の方が重要で、その点において農民の普段着のような渋い色合いが不足していた。しかし、ハルフシ以下のマクラ一枚にはひたすら感心せざるを得なかった。田舎の大百姓平右衛門の豊かさを、下女の綿車という卑近さを途中にはさんで描写、ただちに変化して妻の病死にヘタルが、娘二人の存在から婿取りも済み平右衛門自身の仕舞いもついて問題なしというところまで走って、「万事限りの俄病」とバッタリ終焉も訪れたことを示す。三味線はこの「焼き止めば」の撥がまだ緩かった。しかし何と言っても地色(前述の足取りに間に変化と肝心要の音遣いそして詰んだイキ)が出来なければ近松物は話にならないのだが、出来ていたのである。もちろん、十全とはいかないし(「と言へども」「妹は差し俯き」「嘆けば」の変化など)、平右衛門はまだまだ映らないが(「万一うせたりとも、物言うな顔も見な」「エヽ憎や清盛」「灰になつても、帰るな」の心情解釈と描出、「孝心深き肝をひしがれ」と半兵衛がなるほどには詞が至らないなど)、師匠のたっぷりした行き方(それを間延びしていると表した人間国宝の太夫も現に存在した)には個人的に齟齬を感じていたから(「情」を語るという点においてはまったく至高のものではあるが)、今回藤蔵の三味線なればこそであったとは思うが(それでも、撥を皮に当てず強さや鋭さを応えさせなければならぬ箇所もあるし、うねうねとしたネバリも不足)、師匠のよりも今回の方を個人的には取りたいと思うほどの出来であった。さて、姉のかるがまず良くて(「道修町伏見屋の太兵衛殿」の音遣い、「よう戻りやつた」の心情描出は未だし)妹の千代もその嘆きが伝わる。続いて驚いたのが、金蔵の端敵カシラを嫌みよりは「口も気儘の途方なし」とある百姓の造形にしたこと。これは綱弥七に典型的な造型よりも真実味があるとまで言ってもよいだろう。「夜着に凭れて起き伏しも〜」がよく語り弾かれているので、「堪へかねて」からの千代の詞と地合が真に迫ってよく活きた。
  人形陣、当初の予想では至らぬ床を保たせてかと思ったが、むしろ床が手摺を先導するという本来のあり方になっていて、三度の驚きをしたのである。今回は床に驚嘆するばかりで、正直人形によって目を開かれるということはなかった。もちろん、この陣容で手摺が不十分なはずはない。

 「八百屋」
  作としても「上田村」の方がよく出来ており(いずれも近松の自己宣伝があるのは面白い)、それゆえに節付けも残る残らないの差が出たものであろう。この段は越路(つばめ)喜左衛門によって聴くに堪える一段として確立したのであり、それゆえに、千歳が富助の三味線によって語ることになったのである。マクラ一枚が上出来で、母(悪婆のカシラに引きずられず近松の詞章に依拠した描出が上出来)はもちろん登場人物それぞれについて性根の解釈と表現もよくなされており、全体を通して、師匠の一段をよく平成の世に再現したと評価できる。それでも、前段「上田村」と比較すると聞き劣りがするのはやはり作自身と節付けのためである(「上田村」の奏演が不十分だともちろんそれだけでよく聞こえる)。ただ、後半まで声が保たないのはもはや千歳の特徴になってしまったようであり、その欠を補って余りある語りに至れるかどうかが、故師との決定的な差となろう。さて、本作についてであるが、この一段の中心は奈辺にあるのだろうか。母の造型が客席に一番届くように作られていても脇役、千代の極楽から地獄行きは印象に強く残るが主眼はここにはない。この一段は半兵衛の母に対する訴訟がその中心的位置を占めるべきである。まず、半兵衛のこの訴えが「一言の答へもせず、涙に暮れてゐたりしが」とある地の文から考えられなければならない。この文章からすると、直前で母から何らかの咎めがあったとするのが普通だが、この「答へ」は、西念坊来訪以前の「〜十五年世話した親の嫌ふ女房に隨分と孝行尽くし、親には不幸を尽くしや。恩知らずめ」を受けているのである。つまり、西念坊の来訪とそれに伴う親伊右衛門と女房のやりとりも関係なく、ただ泣きながら考えていたのである。また、千代の極楽から地獄はこの半兵衛の詞によって予想されることであり、そこでも中心は「真顔に睨む目に涙」とある半兵衛の方である(これは「半兵衛ぎよつとし」との詞章からも判断できる。半兵衛は母に「美しう千代めをお入れなされ。その上にて私が〜」と述べているのだから、千代の戻りに驚く必要はない。この驚きは、自分と千代の夫婦関係を即刻ご破算にしたいと母が嫁をそれほどまで憎んでいるとは思ってもみなかったからである。心中はかねての覚悟ではあるが、それを現実化するには自身のこころろの整理がまず必要で、次に千代へどう対応するかを考えなければならない。その時間さえあたえられなかったのである)。そして、何よりも半兵衛が千代との心中(まさしく外題名に他ならない)を現実問題として決意した結果が、この訴えに表現されているからである。道行の心中場で、「辛い目ばかりに日を半日、心を伸ばすこともなく、死なうとせしも以上五度、恨みあるうちにもそなたに縁組、せめての憂さを晴らせしに、それさへ添はれぬやうになり」と述懐する通り、元武士の半兵衛にとって八百屋の養子とは、養母の性格(「こちや未来まで退き去りせぬ閨の同行が」などと、涙で離縁を訴えた半兵衛の目の前でフシに乗せ語りながら行くもの。千代が離縁を逃れるには母とともに半兵衛を過酷に扱うよりほかなかったであろう。加えて母の前で夫婦仲の良いところを見せてはならぬなど思いもしない千代であるから、この母の性格は一層先鋭化する)もあるにせよ、結局は身を削るものでしかなかったのである。だとすれば、ここの語りにもまたここでの半兵衛の人形にも、焦点化がさ不十分であったと言わざるをえない。やはり、近松物からはいつも深い考察を導き出させられるのであった。

「道行」
  千代を刺殺した後の半兵衛の所作がずいぶんとある。やはり『心中宵庚申』は半兵衛が中心であるべきなのだが、上の巻が復活上演されなかったから(内容的に出来ない、面白くなりそうもない、そこまでする意味がない、というのは尤もであるが)、「上田村」からだと千代が主人公として見られてしまう(『曽根崎心中』は「観音巡り」がないから、徳兵衛の不幸に初が巻き込まれるという見方になる)。寺の庭で最期をとの願いも成就せず、愚痴を言う自身を千代によって知らされ(半兵衛の「オヽそれよ」は千代の詞に自得するものであるのに、千代に確認するような語りは解釈の未熟さか技量の不足か)、最期まで捨てられなかった武士へのこだわりは結局は松風の海辺に消えるが如しという、理想と現実の齟齬を象徴する辞世二首(それと解釈して節付けした西亭はやはり流石である)。しかし、客席にはお腹の子への回向を頼む千代の愁嘆と悲哀が強く印象に残ったのであろう。なお、千代と半兵衛の最期の苦悶がリアルに表現できていたことを良しとする。
     
「紅葉狩」
  半時間の休憩後これで霜月の夜に追い出される建て方は『宵庚申』で帰れと促されているようなもの。なるほど帰宅してもよかったのだが、この三業陣だから客席に残ってみた。まず時候の出し物であるし、景事向きの床に中堅どころの人形なので。評については、まず初演当時の記事(「文楽座霜月興行合評記」鴻池幸武 武智鉄二 森下辰之助 樋口吾笑)をそのまま引用してみたい。
  鴻 まず驚いた事は此曲に足取りのなかった事です。「錦いろどる」の処でツレ弾きの使い方が悪いと思います。琴を出した事は無意味です。それは義大夫節で琴がはいる所は必らず其の間は琴の間が総ての支配をせなければならないのに、そうなって居ませんでした。
  武 維茂が只の公卿で武将になって居ません、其上山神の作曲が注進になって居ったのが感心できません、人形で見ると維茂が鬼女に喰い殺されて居った形でした。山神の人形は問題になりません。
  森 山神が「かきけす如く失せ給ふ」で団子屋の女房同様足をあげてエッサッサと走って這入るのは何と云う型ですこれなら「吹く凩と諸共にヱツサツサ??とかけり行く」と改作すべきでしょう、但し山神の人形にはこう云う型があるのですか。
  鴻 三味線の手からして全く三枚目の注進其まゝですから人形として止むを得ぬ次第なり……でしょうアハ……。
  武 鬼女の毛ぶり、然かも石橋の獅子の精その儘、是れがほんとの大車輪、見物は手を拍って喜んで居ます。
  樋 こんなのは左様に六つかしく云わないで、見物を喜ばしたらよいのでしょう。
  森 これがホンニもうかふる(もうかる)と云う訳ですな兎に角若い人達は成否を恐れず屡々新曲に乗出すべきだ。
  どうであろうか、そのまま当てはまるところが多いのではあるまいか。ということは、経年劣化はしていないが、作としてはこの程度のものということで収まりそうである。しかし、思い返してみると、南部呂三輪他、団六清介吉之助他、清十郎小玉一暢他(S.56)の分厚さと面白さ、呂松香津駒他、団六清介団治他、紋寿文吾和生他(S.62)の鮮やかさと楽しさに比して、今回は果たして数年後にその印象が残っているかというと、甚だ心許ないのである。とはいえ、欠陥や欠点を指摘することも間々あったこの景事にしては、難無く為果せたということでもある。まあ、再度劇場の椅子に座ったままはないということだけは確かである。

 鑑賞ガイドの(N)氏はどうやら(S)氏以来の聴く耳を持った制作担当のようだ。これなら次こそ「堀川波の鼓」が上演されるだろうし「上燗屋」も期待出来そうだ。また、劇場アナウンスが変に国立劇場とか古典芸能とか意識した荘重性に傾かず、聞き取りやすく明瞭なのは好ましかった。
  さて、新春は大名跡に至る織太夫の襲名披露である。久し振りに初日に出掛けてみようか。もちろん振る舞い酒と配り物に期待するという現金な思いからではあるが。