「本蔵下屋敷」『増補忠臣蔵』
ここ15年をとってみて、この狂言が3回も上演されているのはなぜか。もちろん、戦前までは良いとこ取りの人気浄瑠璃であったことは確かだが、文楽を聴きに行くなどと言えばキザか嫌味にしかならない現在、作品の質、それこそ情を語ること第一とする点から見れば底の浅い本作を、頻繁といえるほど出しているのは(制作側の過去の上演順をそのまま繰り返すの愚は措くとして)、故伊達大夫と寛治師(団六)の存在あればこそだったからである。この両人の床ならば、見事佳品として仕上がり、曲の面白みが自然と浮かび上がるのである。ということは、今回寛治師の三味線を聞けということであろうか。確かに、「楼門」「琴責」等でその妙音を堪能したことは事実だが、本作もそれとして劇場制作側が選択したとは思われない。その証拠には、プログラムの鑑賞ガイドにも、奏演に関しては段切りの尺八と琴についてのほかは、何も触れられていないからである。この忠臣蔵増補物をストーリー中心主義で楽しめというのはいかにも愚かなことであり、たとえ成立事情に増補物の流行があったにせよ、焦点をどこに当てるべきかは、浄瑠璃義太夫節を日常的に耳にしていれば自ずと知れることである。観客側を取り囲む社会全般の状況が、もはやそれを許さないほどに変容してしまった以上、劇場側がそれについて示唆をすることは、決して押しつけでも差し出がましくもないだろう。それは「文楽・知識の泉」に譲るからというのでは、鑑賞ガイドとは文字通り何なのかが問われることになろう。
さて、前を千歳と清介が受け持つ。このコンビは珍しいが、千歳が、清治から富助そして清介と指導を受けてきた成果が、よい形で結実したものとなった。公演前半よりと後半の方が安定し伸びやかとなっていたのは、清介の手柄によるものに相違ない。とはいえ、前半の伴左衛門の勢いと動きはなかなかのものであったし、近年、人形が十分遣えるようにかは知らぬが、たっぷりと語ることがよしとされるかのような悪弊が定着しつつある中で、実に気持ちよいものがあった。それにも増して、楽日前のきちんと語り果せた千歳は、筒一杯かも知れぬが何とも汚らしかった彼の浄瑠璃が、見事上滑りせず上手ぶらずに、美しい結構を見せたことで、次々代を担う太夫として早くから注目されていたあの時点と、ようやくつながりを見せたと感じさせてくれたのである。なお、マクラ一枚のすばらしさはやはり特記しておかなければならないと付言しておく。
後は寛治師の指導する津駒である。本作のシテは若狭之助であって本蔵ではない。これは、本蔵はワキだということではなく、本蔵は狂言回しの地位にいるということである。若狭之助が、とりわけその詞が語れてこそ、この一段は成功したと評価できるのである。その点、津駒は最初から意をそこに用い、開幕三日に聴いたときすでに、若狭之助の詞によって、観客をホロリとさせていた。この若狭之助の詞を語るためには、主従関係とはどういうものかをよく理解していなければならない。これを、封建武士の上下関係と、例の頭でっかちが記事にするような形ではまったくいけないのである。この主従関係が、真っ当な人間関係、心の交流として感じられているかどうかは、実は次の四月公演でも確認する機会がある。千本桜二段目の切場、安徳帝の「仇に思ふな知盛」で終結する一言がそれである。これで知盛は碇とともに海に沈む覚悟を極めるのであるが、この一言を、家臣は使い捨てという天皇中心主義に聞くようでは、まったくお話にならない。知盛が泣くのは、典侍局を初めとする平家方の死と滅びを眼前にしたからではない。勝敗は時の運である。それが生死に直結している武士であるだけに、この認識は深遠なものとなる。負けたが故に泣くことは、勝てばガッツポーズを取るという、卑しい西洋スポーツ思想の裏返しでしかない。知盛の涙は、幼いながらも帝としての器を備えたその一言が、胸に突き刺さったからである。それはまた、軽々に言葉を粗製濫用してはならないと位置づけられた人物の言葉だからである。逆に言えば、ここの軽薄を以ては帝の位に付くことを許されないのである。綸言汗の如し、その一言の重みのために、帝王学はあるといってもよい。なお、知盛はそれでこまでの人生を無にしたのではない。「仇をなせしは知盛が怨霊なりと伝へよや」、この言葉によって、勝者の側からの歴史叙述を自ら規定しておいた知盛は、武士としての最期を全うするのである。四月公演、鑑賞ガイドなり新聞評が今から楽しみでもある。さて、主君として殿様としての成長を、その詞に聞かせた若狭之助であるが、あと一つ難しいのが笑いである。由良之助に討たれる覚悟の本蔵、その命を暇という形で助ける、すべてを見抜いての笑いと、段切りに涙を払い晴の(本蔵の本意が成就されるものである)出立を言祝ぐ笑いである。これは津駒の工夫努力にもかかわらず、やはり取って付けたような感が最後まで否めず、こういうものこそ年輪が語らせのだと痛感した。伊達大夫で聞いた過去はいかにも自然であったから。ちなみに、その最後の笑いの前にある万感を込めた別れの詞の底にも涙がたたえられていたのは、さすがに寛治師の指導だと感心した。琴もまた美しかったが、楽日前には悲しみの情も底に忍ばすに至ったのは血筋でもあろう。
人形陣、紋寿が主役若狭之助を遣うが、直情径行若さの殿をメリハリある動きでよく表現した。ただし、楽日前はいささか入れ込みすぎて前受けかとも見えたが、人形芝居の原点を忘れない姿勢は、評価されるべきものである。対して本蔵の玉女。鬼一かしらの性根と玉男師の後継者たる地位をともにわきまえてはいるが、あれほど動かないというのは、増補物の格といいこの作品の位置づけといい、首を傾げざるを得なかった。例えば、伴左衛門との問答は、人非人と言い相手にもしてはいないものの、皮肉を効かす詞まで不動の姿勢というのはどうだろうか。また、段切りで、主君よりの賜物が高師直屋敷の地図と判明したときも、あの無表情は如何なものかと感じた。この遣い方を、深い苦悩の表現などと評するのは妄りである。前者は伴左衛門との応対、後者はすでに主従心が通い合ったところ、それを、いくら塩冶判官を抱き留めた思い違い以来、苦悩の消えぬ日はないとはいえ、ここまでの不動は鈍重であり、木石となった人間であろう。故師が辿り着いた境地は重々承知しているが、ではその脂の乗り切っていたあの当時はどうであったのか。公演記録のテープなども見直してもらいたいものである。
「吉田屋」『曲輪[文+章]』
まず、プログラムのあらすじに大問題が二点ある。第一、地歌を聞きながら伊左衛門が「零落した身の上、いっそ逢わずに帰ろうとも思います。」、とは何事か。それは詞章に「変つたはおれが身の上」とあるからだと言うのだろうが、それこそ本読みがまるでなっていない。そこは、「弾くその主は変らねど、変つたはおれが身の上、あいつが心底、あのやうにあろうとは」と書いてある。零落した我が身に掌を返して大尽に鞍替えした夕霧、それは今の心ばかりではない、かつて自分に惚れていたと思ったものは我が金に対してであったと、それゆえに、あれほど皮肉を吐き拗ね廻るのである。第一、伊左衛門は零落した身をおどけては見せても、貧すれば鈍する男とは無縁の心持ちなのである。このあらすじでは、まったく伊左衛門という男が死んでしまっている。しかも、逢わずに帰ろうとするその直接的言辞は、「人の心は飛鳥川、変るは勤めの習ひぢやもの、いつそ逢はずに去んでくりよ」である。もはやこれ以上の解説は不要だろう。第二、「口説きましたが、伊左衛門の機嫌は直りません。…伊左衛門が仕方なく一口飲むと、夕霧はその盃で飲み干します。ここではじめて二人の心は打ち解け」とある。これはもう、浄瑠璃義太夫節を完全に捨ててしまったもので、ただ人形の動作をなぞったに過ぎない。いっそ歌舞伎のあらすじなら何ら問題ないのだから、そちらに行って書けばよいこと。いや、この罪は人形にあるとされるだろう。このようなことがあるから、以下のような指摘が本音として出てくるのである。
「今日は『文楽入門』ということなんですが、人形がないじゃないかとおっしゃると思うんですけれども、呂大夫さん、だいたいこのねえ、義太夫というものはもともとこの太夫と三味線の語りだけでできていたのに、その理解を妨…、あの、助けるために、この人形があとからついたということをよくうかがいますけれども、やはりその一番の中心になるのは、人形ではなく太夫さんだと思うんです。そう、そうじゃございませんか?」
(「題名のない音楽会」企画・司会黛敏郎/1995.8.27放映)
日本の伝統音楽とはどういうものかについてもよく承知していた、希代の音楽家ならではの発言である。ここの人形の動きはいったい誰が考えついたものか、よほどその時の床が下手だったのだろう。例えば、越路・喜左衛門のを聞けば、夕霧の文字通り血を吐くばかりの衷心衷情真実溢れるクドキに、伊左衛門の虚心はもちろん聴く者の心はすべて昇華されることを実感するであろう。それを、このように人形を遣わなければならなかったのは、とりもなおさず夕霧のクドキが胸に応えなかったからに違いない。盃のやり取りなどは、詞章通りに遣っては動きも少なく面白くないからという発想である。とはいえ、クドキは女形がその魅力を十二分に発揮するところであるから、この一連の遣い方を、夕霧・伊左衛門の痴話喧嘩一始末として見る分にはかまわない。ただそれは詞章外のことであるから、あらすじにそのまま書いてしまっては、本作はまるでもう浄瑠璃文学の体をなさないものとなってしまうのである。それは、例えば「忠四」で由良之助が刀を持ったまま御前に出るのを力弥が止めるという、そのことをあらすじに書き上げるようなもので、この所作は由良之助の動転した心境を表現する工夫として見ておけばよいのである。ひょっとして、このあらすじも前例踏襲で公演毎の点検もされていないのではなかろうか。床本の誤りともども、きちんと正してもらいたい。客寄せに近松を使い、今度は沙翁まで引っ張り出す、それはまあ営業努力として認めようが、その陰で肝心の基礎基本が疎かにされるようでは、すべては砂上の楼閣に過ぎまい。したがって、これについては四月公演以降も、注視していくことにしたい。
端場は賑やかであればよい。咲甫と喜一朗は職責全う。楽日前にはいっそうこなれていて、発展途上人はこれだから侮れない。もう立派に中堅の仲間入りである。人形もこういうところでならどう遣っても文句は言われないから、せいぜい派手に前受けしておくことだ。幼い頃の楽しい経験は、来るべき大人の苦しみでの挫折を乗り越えさせてくれるものであるから。
切場、富助はいつもながら一段全体の雰囲気を弾き出しからつかんでしまう。嶋大夫と組んでの「十種香」はもそうであったが、今回もそれで成功を収めた。太夫はというと、伊左衛門の詞が抜群で、かつては美声家だいや違うと言われもしたものだが、これはもはやコトバ語りの域で、こう書けばあの三巨頭の一人である六世土佐太夫に迫るということである。喜左衛門の詞もまたよく、太夫に、馴染み客に、使用人に、それぞれ意を用いてさすがは亭主である。サービス業コンサルタントとして、現代日本でもお呼びが掛かるだろう。夕霧ももとより悪くはないが、例のクドキなど連綿として、その心により舞台上も客席も覆い尽くされるようになってはじめて、伊左衛門の結ぼれた心も解けるのである。
人形陣、勘十郎の伊左衛門が抜群、というよりも完璧だろう。三日目に観て感服し、楽日前にはひとつひとつ丁寧に観察もしたが、とにかく隙がないしそれがまた自然でもある。伊左衛門になりきっているといえばそれまでなのだが、角度や位置までもわきまえて、見事としかいいようがなかった。このところの充実ぶりは、第一次黄金期を迎えたと言ってよいだろう。対する夕霧は、病身故として和生の手にも合ったと表現するのが適当か。傾城が病み上がりならばその髪型からして辛かろうということである。亭主の玉輝と内儀の玉英は安定しているが、パッとその性根がこちらへ飛び込んでくるということはない。それは前受けせよということではないが、ハッとさせる一瞬があればと思うのである。
「野崎村」
端場、英と団七は互いに浄瑠璃義太夫節が何であるかをよくわかっている関係である。しかも、それぞれの師系をたどればともにサラブレッド、当代の光であることに間違いはない。実際この「あいたし小助」も、その呼称に至るは当然の出来で、しかも端場の格を忘れず、床に身を任せればよしという、心やすい時間が過ぎていった。ただし、この位置が最終でないこともまた厳然たる事実である。隠居芸(これは価値あるものである。あの相生・重造の床など、得も言われぬ味わいがあった)に聞こえてよいのはまだ先の先である。試金石は四月の「堀川御所」だろう。本公演通しの本役で序切、楽しみである。ちなみに、跡で交替し道具代わりもするから当然三重で盆が廻るはずだが、さてどうだろう。戦後断絶したこの一段も、明治大正の黄金期に遡ることができる両人の床なればこそと、期待してみるのである。
切場の前は綱大夫師と清二郎。マクラ一枚の風を伝承できる床であるし、「くわんのんさま」と真っ当に発音できるのも、紋下櫓下を襲う資格あることの証明でもある。お染のクドキに聞き取れる間や足取りも、こうなくてはならぬ正調であり、この床に聞くべきものをわきまえていれば、耳をおろそかにはできないはずである。いわば、浄瑠璃義太夫節を聞く耳を持っているか否かの試金石であり、歌舞伎との組み合わせでしか理解できないかどうかもまた、判然とするであろう。
後は住大夫師に錦糸という、これはまた豪華なリレーである。久作に婆がすばらしいのは当然であるし、一言で客席の涙を誘う力量はまた空前絶後で、この一点に関しては、兄弟子の越路、綱、津、そして師の山城もなしえなかったものである。今回も三日目からまったくその通りで、客席からも盆が廻るや割れんばかりの拍手に、久作の「この通りじや」は泣き落としへの持って行き方の常として、錦糸の妙音匠技から造形されて、これまた拍手が鳴り響いたのであった。俊成ならぬ九十の賀も当代至高の太夫にはあるべきと思われる、その丑年の御代ゆえにか長大にして余りあり、堪能を越えて朦朧となってしまっていた。もはや楽日前の再聴にも及ばぬことと思ったが、その日も客席についた。盆が廻っての拍手はやはり恒例の盛大さを誇るものであったが、錦糸が弾き出し住師が語り出すや、これは!と耳を澄ますことになったのである。実によく詰んでいるではないか。息もつかせず、浄瑠璃の流れが次から次へと紡ぎ出されてゆく。気が付けば、三日に手が鳴った久作の詞にかかっていたが、この日は自ら呼び出しの手を鳴らしたのである。それは、ここまでの流れに運ばれ自然と久作の詞に辿り着くように節付けがなされているからであり、それをわきまえながらこの一言に至れば、もうそれは聴く者の胸の内から溢れ出るものが、そのまま両手を打ち鳴らさせずにはいられないのだから。情は語るに非ず、浄瑠璃の流れをして描出せしめるものである。ここのところ、クドキやオトシで拍手が来ることが多い。かつてはそれが日常であったのだから、客席も往年の如くようやく聞き巧者が揃うに至ったか、いやそうではない。現状は、赤絨毯の上をコンベヤで運ばれる一分芸に反応することを慣らされた者達が、局所芸で条件反射しているに過ぎないのである。それは、無表情な「待ってました」を初めとする掛け声にもそのまま当てはまる。昭和五十年代に至るまでの公演記録を観るがいい。東京小劇場の、あのお勉強スタイルといわれた客席から、どのように拍手が起こっているか。やらせアンコールのような切り花の空しさとは全く異なった、その時の舞台が観客と共に血肉化していたことを感じ取ることができるであろう。もちろん、同時期大阪での公演中継を試聴可能な環境の人は、そちらがより適当であるが。さて、楽日前はかの摂津大掾が言う所のジワが来た。秋には八幡の里で無月を嘆いたこの身であったが、ようやく野崎の早咲きの梅にその無念を晴らすことが出来たのである。やはり最低でも二日、日を変えて劇場に通わなければならないものである。幕切れの連れ弾き、清丈は結構だったと最後に付言しておく。
「油屋」
端場を代役の咲甫と清志郎だが、これは本役と見てよいであろう。切の師匠の指導よろしく、楽日前には一段と進歩が見えて前途洋々である。まあそれでも、お染久松の痴話喧嘩がより一層際立てば、千歳や呂勢の域にまで達するのだが、勉強家のこと、次に聴いた時はまた一段の成長があるだろう。四月の「幽霊」はついこの前まで師匠の役場でもあったところである。
切場は咲大夫と燕三で、昨秋に「正清本城」で今般「飯椀」と来れば、もう立派な座頭格の仲間入りである。名人であった亡父綱大夫の場所へたどり着いた、そう表現してもよいかもしれない。この厄介な大曲、その綱大夫弥七で聴いてほとほとその大変さがよくわかったが、三日目の鮮やかさは、まさにそれを彷彿とさせるものであった。これで、段切りのお庄と久松、そして勘六との情愛が十全に語れれば、文字通り墓前に報告と思われるところだが、それはきっちり楽日前に果たされていたのだ。ただ、その力点が置かれた分、鮮やかさは全体的に抑制されていた。名人綱大夫は、あんな浄瑠璃を語っていては早死にすると危ぶまれ、悲しいかなその予言は現実のものとなり、大名人には至ったが、長生きしてこそ到達する超絶名人にはさすがに六十五歳では若すぎたのであった。弥七の不幸もまた悔やんでも悔やみきれないものがある。「綱大夫四季」が岩波から再版され、ようやくこの大名人に現代の光が当たりつつある今日、やはり肝心の舞台なり音源なりが、広く一般には試聴困難な現状にあるのが口惜しい。子息咲大夫の芸力がその域に達したとはどういうことか、それを確としたものにするためにも、各方面からの善処が望まれるのである。そうすれば、燕三もまた紋下同格の相三味線としてどれほどに三味線が進捗したかを、計り知ることが出来るであろう。
人形陣、ここも勘十郎の小助に尽きる。チャリで遣ってはならず、弱きを毟る小悪党の才は、金欲物欲に口も手もよく廻るが、卑しさからは逃れられぬ。観る者を不快にさせるギリギリのところを遣うとは、降参するより仕方がなかった。久松の玉女は、三日目に見て本蔵同様不動にも程があろうと思ったが、楽日前には血が通った若男とこなれていた。お染の清十郎は、子飼いの丁稚を可愛がる積極的奔放さの片鱗程度であったものの、クドキの後ろ振りで久松の方に乗りかかる所が、ハッと目を見張らされたのは、大家の御寮人様様と言われる鷹揚さと支配の形が表れていたからで、これこそが先代清十郎の後継たる証ともいうべきものである。勘六は玉也だが、段切りにモドリがある懐の深さを感じさせ、四月いがみの権太へと期待を募らせた。乳母お庄を文司、これは芸の幅を広くさせる好配役で、師匠文吾亡き後急速に腕を上げた彼が、次のステップへ進む姿を見せてくれた。四月は川越太郎、まさしく故師の後継たるか否かが試されるわけである。山家屋は幸助で、これは陀羅助をきっちり世話に活写していた。お勝の清三郎は、紋豊の芸格を勤めるのは抜擢であるが、個性云々はまだ先である。全体的に、世話物の大作、その結構にも詞章にも節付けにも気圧された感があり、作品世界を浮かび上がられるよりは、その中に沈んだ出来であった。もちろん、これは身勝手な受け狙いの遣い方を推奨しているのではなく、まずはそこから始まるのではあるが、次世代への交替にはまだ少し時間が掛かるかと見えたということである。ただし、勘十郎はすでにその域であったが。
さて、四月は文楽劇場開場時と同一演目である。あの当時に比して、三業の陣容(そして劇場側に記者もであるが)についてはもはや語るべき言葉を失うが、それを乗り越えてこそ、新時代の幕が自ら開くのである。何にせよ、観客の側は期待して劇場の椅子に座るより他はないのであるから。