「喜内住家」
端場を文字久清志郎で、ここのところ定番の二人である。まず、疱瘡除けの赤尽しが一級品の民俗資料、ここを活写。おりゑおむつの女二人は想像以上の出来。そして「堅く閉ぢたる障子のうち」でガラリと変化して喜内の出、母は驚きから、喜内の孫自慢に至るのだが、三日目は例によって感心しなかった。ところが中日過ぎに聞いてみると、すべてが改善されていて別人のごとし。立派なもので、これでこそ師匠の端場である。文字大夫を襲名しての立端場語りも現実味を帯びてきた。山城の近代心理主義が行き着いた一つの結果である住大夫の「情を語る」わかりやすい義太夫の後継者は、文字久を措いて他ないのである。清志郎が若手有望株であるのは言うまでもない。
切場、この現代日本人からすれば陰々滅々たるところを好んで得意としたのが山城少掾である。綱弥七も聞いたが、いずれにしても侍の一字、武士の二字が魂となって背骨を貫いていた。喜内は当然だが重太郎もきっぱりと厳しかった。「重太郎出かした」この賛辞が何故「わつとばかりに咽返る」との詞章にスエテでずっしりと一の音に落ちなければならないのか。真実大落シとして聞く者の胸にビシリと決まらなければ、この一段は封建時代の忌むべき不幸の典型としてしか受け取られないであろう。子を殺し、妻を自害させ、病父を見捨て、老母を残して敵討ちの名声とは笑止なり。そうなってはどうしようもないのだ。もちろん現代日本人の多くがそうとらえる危険性ははなはだ大きい。階層社会の現出は表面上「平らに成」った時代に紛れ、「いま・ここ」の薄っぺらな自由が謳歌されているこの国である。そういえば、『ローマ人の物語』も次回いよいよ完結とか。流れに乗った観客動員だけを目指していれば、とりあえずは何とかなる。しかしその行き着く先は…、言うまでもないだろう。その点において、この時代の正月公演に「喜内住家」をもってきたことは、その意図がどこにあれ、大きな意味を持つものであったのだ。ただ結果としてどうだったかは別である。
住大夫錦糸の芸は卓越しており、抒情味も十分である。が、やはり時代物というサムライ・もののふの世界を正面から厳しく鋭く描ききらなければ、少しでも弱くなると本作などはどうにもならないのだ。思えば、秋の「勘助住家」あるいは「山科閑居」も立派なものであったが、何かこうとてつもなく大きな世界がその外に広がっており、そこに到達すべく、綱も山城も、そして『素人講釈』での大隅も摂津大掾も、苦しんでいたのではなかったか。三味線にしても例えば『道八芸談』の記事が突拍子もないと感じられ、それに附した武智鉄二の注がまた大言壮語と感じられてしまう「いま・ここ」。時代が違う、そう、演者の責任ではない。が、それならば有無を言わさず納得させてしまうのが芸というものだろう。住師ももちろん情を語ってその域に達している。しかし、「重太郎出かした」に意は十分あったとはいえ、「さてもさても武士の義理ほど辛いものはなし」「死しての後の名こそ惜しけれ」など、やはり弱かったと言わざるをえない。時代物の場合、「慄然とする叙事性」とでも言うべき巨大な歯車が、その背後に聳え立ってなければならない。故津大夫が、最後の時代物語り(少なくとも現時点においては)であったと感じられる理由も、そこにあるのだろう。その叙事性を認識して生きる人間は、もはや「狂」となるよりほかはあるまい。「必死」という語も、そこにおいてこそ真実の姿を見せるのである。段切の詞章「その吉左右とは愛し子が命を捨てに行く旅路」「冥途の案内は嫁と孫三途の川を急ぐらん」とは老父母の悲嘆であるが、語り手の強烈なメッセージでもある。究極は「しをれ勇んで出て行く」と、「しをれ」を通奏低音ではなく前面に押し出していることで、こうなると、まったく(全一音上がってはいるものの)陰々滅々たる終結も当然のように見える。しかし、それこそ「武士道」という大看板を背負っていることが明々白々たる証拠であるのだ。光の輝きが広く強いほどに、その影の部分を同等に忘れてはならないからである。光なき「忠臣講釈」は全くの闇となる。立端場から暗示されていた白黒の記号的対立、この白を浮き立たせるだけの強烈な力と精神性がなければ、勤められる一段ではなかった。死は生を輝かせる、その白の捨て石が最後の最後に効きましたな、大きな碁盤全体を見通し掴んでいなければ、その石を解釈することなどできるはずもないのである。
となれば、人形もまたよく健闘しているが物足りないのは仕方ないところか。喜内の文吾は病中の鬼一カシラを活写しているが、物凄さには至っていない。これは、病だから強くはなれぬという芸談レベルを突き抜けた力のことである。重太郎の紋寿はマユを遣い過ぎる。これほど心中が揺れては敵討ちも覚束ない。もっとも大変わかりやすいことはわかりやすいのだが。おりゑは難しい。真実を知っての後に芸が出来るならよいが、その時は書き置きがあるばかりである。立端場と端場とは遣えている、が「胸に痞」を持ったままの切場は解答が出ず仕舞いであった。とはいえ今回はやむを得ない和生である。女房の紋豊は興醒めて悪態を付くところに強さがほしいが、素直な生活感に味はあった。おむつの玉英はよい。無論屈折した心理は必要ないからだが、本当によくなった。あのモタモタは何だったのだろう。芸が化けるという一典型だろう。
『卅三間堂棟由来』「平太郎住家より木遣り音頭」
うってかわって東風の伸びやかさ。端場が呂勢で、この人は義太夫浄瑠璃という音曲から、情を自然に紡ぎ出してくる。南部、呂そして嶋大夫と学んできた賜物でもあろう。今回もお柳の表現ならびに平太郎との会話に情愛が感じられた。あとは深みとコクそして切り込み方だろう。三味線代役弥三郎、そうすると淡泊だが、弾き殺さないのもこの人のいいところである。ただもう一段の欲を出してもらいたい。
切場、嶋大夫清介で極まる。「風が持来る斧の音」凄さが感じられ「身内の苦しみ」がひしと伝わってくる。お柳のみどり丸と平太郎への述懐が、それぞれの思いとして際立てばなおよかったろう。とはいえ、「葛の葉」ほどの厄介さはなく、その分東風の伸びやかさに乗せていけばよいとも言えよう。草木の精である分淡泊な表現か。もちろん情愛に隔てのあるはずもないけれど。木遣り音頭はみどり丸の悲哀が底に漂って好ましかったが、正月公演の追い出しでもあり、心地よい晴れやかさがもっと残ってもと感じられた。全体として佳品というべきだろう。
人形は、文雀師のお柳が持ち役、平太郎を勘十郎が常にワキで支えに回り、夫婦の情愛を描出。蔵人は孔明カシラだが、捌き役として玉輝がきっちり遣う。母は無難。ちなみに時代物とはいえ、これは母の横死をそのまま出してもどうなるものではなく、この出し方でよかろうと思う。その結果全体が童話的な印象でもよしとすべきだろう。ここもまた「葛の葉」とは大きく異なるところである。
『妹背山婦女庭訓』
この中途半端な建て方は太夫のためでも三味線のためでもなく、簑助師の女形人形を一定の枠時間内で見せるため。もちろんそれは正しい。ならば、外題そのものの解釈は措くとして(「聞所」を参照されたい)、人形をはじめとする三業の成果に絞ってのみ述べる。
「道行恋苧環」
お三輪はヒロインであることが、簑助師の遣う人形で一目瞭然。もちろん勝ち気な田舎娘であり、家は商家であることも明快だ。見事。橘姫の清之助がこれとは対照的に遣ってすばらしい。中の男郎花は影が薄くなるところだが、玉女は存在感を示したのが成長の証。太夫はしんの英は適役というよりも、このあたりは何でもしっかり勤められる実力を示す。ワキを南都が抜擢されて、これはまた想像以上の出来。当然の敢闘賞だが、南部や小松を聞いてきた者としては、身を任せられる域には達していない。求女は始と咲甫、ともに個性を感じさせながら道行をわきまえてよし。三味線はシンの団七は太夫と同断。ワキの団吾はおやと思わせる音を出せたのが進歩。三枚目の清馗は幅と厚みのある音色が好ましい。有望株はここでも上昇。
「鱶七上使」
端場、相子は「いざ白雲」と語ってしまっている。相生の家の芸、何としてでも伝えていただきたい。相生翁も忘れられない魅力があった。清丈は無難。睦、驚いた、すばらしい。若手勉強会などでぜひ立端場を聞かせてもらいたいものだ。語る姿勢も声量も声質も仕丁二人のコトバもよい。とにかく真っ直ぐに義太夫浄瑠璃をとらえている。聞いていて違和感もない。嶋大夫の弟子にして、呂勢からも学ぶことができる環境、生かせよ伸びよ。睦とは調和の意だが、その名をよく体現した語り、本公演の手柄第一と言ってよかろう。龍聿も悪くない。
奥は伊達さんの持ち役で、今更どうのこうのと言うだけ野暮だが、今回もとりわけ中日過ぎに聞いたときに、面白く魅力的であった。実に味がある。鱶七も入鹿も自家薬籠中である。清友の三味線がまたよく合致し、鈍角の良さというと語弊があるが、千歳や錦糸が逆立ちしてもどうにもならない世界がある。豊かな多様性が存在する喜びを感じたい。その上、この持ち役は新たな興味を引き出してもくれた。四段目の端場(実質立端場)である以上、例えば前半と後半の官女が主体となる地の処理など、金襖物の特徴を引き出すことができるのではないか。別の魅力を探ってみたいものである。
人形は、鱶七の玉女は大きいが野性味が不足。が、これからだ。入鹿の紋豊も横道な権力者には至らない。とはいえ、床がそれらしく遣わしてくれたので幸いと言えよう。
「姫戻り」
ここは、公演記録で南部松之輔を聞いてしまっのがよかったのかわるかったのか。とても素敵な佳品であることがわかったのだが、ナマでそれを体現してもらったことがない。寛治師に津駒で期待が大きかった分、うーんというのが正直な感想である。橘姫の清潔感が描出されたと言うべきなのか、やはり太夫の線が細い。となると、寛治師はもとより弾き殺したりはしないから、幅も厚みもある音が浄瑠璃に十分は反映されなかったようだ。端場で参りましたという体験の再現など、高望みは後が辛いということとなった。
人形は橘姫の清之助に尽きる。道行ではいささか緊張感から堅くなっていたが、ここでは理想的な令嬢であった。これで「月の笑顔をぴんと拗ね」(「杉酒屋」)などどう遣ったか、是非とも見てみたかった。なお、求馬代役の玉志には賞を呈したい。
「金殿」
四段目で金襖物なら美声家の語り場、とはいえ、ここはかつて津寛治も勤めたことがあり、よく考えてみれば、ヒロインは「片鶉」であり、官女はいびり役、金輪五郎は前段の鱶七で、豆腐御用のチャリまでついているとは、むしろ異色な四段目の切場であろう。ここを咲と燕二郎が奥として勤めるが、立派な切場になっていた。
竹に雀がより哀感をもって美しく響いたならば絶妙であったろう。「横笛堂の因縁かくと哀れなり」の「哀れ」で美の極限に至ることが出来たなら、受領格の浄瑠璃であるのだ。つまり今回は、チャリは手の内で、官女の突っ張りが効き、お三輪の狂気も十分、金輪五郎の大胆な大きさも出、立派に切の字が許されるのである。三味線がこれまた立派で、この大きさと幅が感じられては、燕三襲名に異を唱える者は一人たりとも存在しないはずである。ちなみにカゲ打ちがまたこの立派な一段に触発されてか、しっかりと出来ていた。
人形は、簑助師の華やかかつ的確な遣い方が目に焼き付く。あの脱力した姿は師が編み出した表現であり、人形遣いの工夫として長く伝えられるものである。このお三輪を見るために劇場へ足を運ぶ観客の存在が、補助椅子を用意させるのだ。いい意味でのスター制は必要であり、それがミドリ建てから通し狂言に及ぶことができた時、最盛期であると言えるのだ。東京国立の昭和40年代はそのことを象徴しているのである。さて、金輪五郎の玉女は型も極まってきたし、大きさもあるが、「勇み立つたるその骨柄」「鍛へに鍛へし」となると、粗野と表裏一体の勇猛果敢とは見えずおとなしかった。ここは勘十郎の方を見てみたいというのが本音だが、これは玉女の実力をいささかも貶めるものではない。立役の守備範囲は広いのであるし、玉女の真骨頂はまた別に目にすることになろうから。 ともかくも今回の「金殿」は、簑助師のお三輪を十分サポートして余りあるものであった。四月燕三襲名を控え、充実した内容に満足である。