「勧進帳」
景事である。団平の工夫は義太夫浄瑠璃としての存在感にある。鑑賞ガイドは弁慶の述懐にはふれるが、それよりもはるかに重要で、この一段を決定付ける箇所への言及がない。義経悲運の嘆きである。源氏の貴公子であり平家滅亡の立役者である九郎御曹司が、なにゆえ姿をやつし歩行立ちで遙か奥州へ落ち行かねばならないか。マクラに続く地と登場後すぐの義経の詞、これこそが歌舞伎十八番にはない部分なのである。ここは三枚目呂勢清志郎の割当であるが、義経の科白にとりわけすぐれて感心させられた。「微運の我が身」の音遣いで聴く者に涙を催させたのはただごとでない。それゆえ「仰せに皆々」以下四天王の地が真実心にあふれたものとなり、安宅の関の通過がいかに用意ならざるものかが得心されたのである。これで一段は決まった。富樫の津駒は予想以上で、冒頭の詞から張りがある。一杯の全力投球だけに、義経だと咎める笑いが苦しくなったのは、もう一皮剥けた大きさと幅を望みたいところである。三味線の宗助もあと一回りという点で同断。シンの弁慶は富助でお手の物だ。この両人をおいて相応しかるべきはない。となれば、主君打擲の「一期の涙」で客席をも慟哭させてもらいたい、と望蜀もするのである。なお、番卒の若手も思い切りよく好感が持てた。
人形、弁慶の文吾は型もよく杖の捌きも抜群で、詞章をよく体現している。延年の舞も自在。ただ、勧進帳読み上げに富樫と対峙するところ、緊張感が今ひとつと感じられたが…。その富樫は和生で、品格あり識見を備えた知将の風はあった、が、関守としての威厳には少々届かなかったか。義経は悪くないが、床の奏演ほどには見えなかった。四天王はよかろう。常陸坊は味があった。これは余事だが、襲名披露の追出し景事なら、いっそのこと花道を用いてもよかったのでは?
「茶筅酒」
伊達さんと清友、聞き慣れたこの一段を聞き慣れた床、しかし今日もまた新鮮なのは何故だろう。しかも楽日前には慣れではなく、新たに掘り起こしたかの如く粒立って聞こえたのには驚愕した。早春の在所に田舎爺と嫁三人、柔らかな日差しはそのまま一段の趣。しかし白太夫は覚悟を極めている。それは八重が持参した三方土器の件でわかる。そして切場が終わったとき、睦まじき八重との笑いや十作の言う晩に来て寝酒一杯が、すべて夢の中の物語のように思い出されるであろう。とはいえ白太夫は外面を繕っているのではない。心の底からの笑いは時間を止めるのだ。後先を考えてもどうしようもない、時間は淡々と過ぎていくだけである。この一段は客席の心もまさに春菜のごとく柔和にしてくれる。それでいいいのだ。そしてまたこの床をおいて他はないのである。
「喧嘩」
ああここは大丈夫、ここは予想以上、ここはやっぱり、と以前は一喜一憂しながら聞いた文字久であるが、ついに安心してその語りに身を任せてみることができるようになった。大音強声突っ張りも利くし、師の明確な語りも継承しているからは、いずれ三段目切語りが約束されているはずである。とはいえ例えば「それこそそこへ松王殿」「エヽこれ女房を…」のカワリは不十分。単に春から千代への変化でなく、夫へのくだけた口調を鮮やかに聞かせなくてはならない。また、喧嘩となっての千代と春の地と詞ノリ、もっと魅力的な快感に包み込まれるはずだ。三味線の宗助はもっと太夫を引っ張ってやってもいいと思う。
「桜丸切腹」
四日目に聞いたのだが、ほとほと感じ入ってしまった。訴訟でぐっと引き付け、「唾を飲込んで」が次の悲劇を暗示し、桜丸の述懐が心に染み入り、白太夫の嘆きは真実、そして八重との共泣きに客席が感に堪えず手を鳴らしたのは当然であろう。段切はまた錦糸がうまくリードして語り納めとなったのは、至高の床であったと称してよいだろう。ただ、楽日前はいつものご両人に戻っていて、八重の可憐さが今ひとつ、千代が嘆きのうちに去るところがもう一段琴線に触れず、桜丸はいささか粘り、段切のノリ間はクセ間に、縁起という神の視点の高みが物足りなく、という状態であったが、この公演後半はどの床も総じて自家薬籠中のもとして、個性を全面に(勝手に)出す傾向にあるので、むしろ、住大夫錦糸の特徴を聞くにはよかったと言うべきかもしれない。
人形は、簑助師の桜丸が動かずして品格と清潔さを出し、若きサムライの最も上質な部分を見ることができた。師が遣う男の人形という点からは、至上の出来ではなかったか。八重はまったく悲劇の中にある。紋寿は昨秋の濡衣といい、悲しみの女とでもいうべき造形が光っているのは、芸が一段深化したといってよいだろう。派手な前受けに傾くとされた時期の芸が、良い具合に寂びてきたということかもしれない。もちろん、ただ陰気であり鈍重であるのとはまるで違うことは言うまでもなかろう。白太夫を和生が遣うが、よくここまでと思われる出来。もちろん遣わずして遣うという玉男師の域には及ばないが、好々爺の表現や悲しみの描出など、性根心情を慮ってのいい仕事である。春はいささか老け過ぎか。松王梅王は、喧嘩などもっと伸び伸びと人形の面白さ楽しさを見せてくれてもよかったのにとは思う。
「寺入り」
千代と戸浪との語り分け、声色でなく足取りで見事に聞かせる呂勢喜一朗。千代は悲しみの通奏低音もよ伝わり、寺子連中も公演後半はより鮮やかに描き出され、千歳で聞いたとき以来の満足感に浸ることができた。5月東京の「大井川」、想像するだけでも楽しいのだ。
「寺子屋」
この寺子屋が四段目であるということを、舞台から感じ取ることは簡単ではない。舞台が片田舎芹生の寺子屋であり、三段目の佐太村と大差がないこと、二段目との関係が天拝山で一旦完結を見ているために直接的でなく、むしろ三段目の松王編として見た方がわかりやすいということもある。その誤解を防ぐものは、天照皇大神の軸が掛かった床の間と、そこに飾られている筆法伝授の一巻である。そして、何よりも寺入りの最初から舞台に登場している菅秀才である。だから端場で「一日に一字学べば」の詞が音を遣って品位を持って語られることが重要ともなる(ちなみに呂勢はすばらしかった)。ここは、菅丞相から一子秀才への伝授を橋渡しする場所であり、その意味で聖域でもあるのだ。もちろん今は、それが源蔵の高い精神性によって維持されているわけである。それを支えているのが、前述の軸と巻物、そして菅秀才の存在というわけだ。床からは、ヲクリが四段目風であり、マクラ「どりやこちの子と」から「機嫌紛らす折からに」までの足取りや音遣いの伸びやかさ(春先佐太村の野良とは違う)、音の収まり方等々で、はっきりと聞こえては来るのだが、その直後が深刻な源蔵戻りであるだけに、マクラ一枚はとりわけ大切なのである。綱大夫清二郎はそんなこと百も承知で、この一段の格を決める。それが成って、「せまじきものは宮仕へ」にスヱテ、玄蕃登場への変化、松王の大きさは病中とあって正体不明の感を含む、「退引きさせぬ釘鎹」の厳しさ。百姓のチャリで弛緩すると、その後は首実検の緊張感のため釘付けとなり、ここで盆が回るのは確かに無茶だと納得させるまで、二人の床は充実していたのであった。ただ、楽日前はそれほど感心はしなかったのは、本公演全体の傾向か。
後半を嶋大夫清介、贅沢ではあるがもったいなくもあるのだが…。ともかく、「小太郎が母息急きと」「門の戸ぐはらりと」「女は会釈し」東風への転換も鮮やか、千代の詞は音遣いで愁嘆あり、松王の苦衷の述懐でぐいぐい引き付け、千代の述懐に聞く者ももう涙涙である。そうなれば、全一音上がってのいろは送りはお手の物であるし、存分に堪能させて段切の柝頭へ、すばらしい追い出しであった。この床の実力にあらためて圧倒されたのだ。ただ、ここも楽日前日に聞いたときには、一杯だが語り崩されている感じもした。もちろん自分の浄瑠璃にしているということなのだが…。本公演は、襲名披露を三業あげて祝おうとする意気込みが、好ましい緊張感とともに現れ出ていた前期間の方を、より高く評価したい。率直に言って、これほどのものを劇場の椅子で鑑賞できるとは、と大いに感心し喜ばしく思ったのである。
人形、文雀師の千代は格が違う。オーラと言ってもいい。もちろん人形がである。中堅が陥る小さくまとまった芸との決定的な違いが明瞭。松王の玉女は貫目が付いてきた。首実検まで緊張感を持続できたのは肚が出来てきた証拠、そこに小太郎身代わりの成否を探る心と、我が子を殺す衷情、それをいかにふまえるかは今後への期待でいいだろう。あと、後半「倅はお役に立ったぞ」で戸に頭を凭れて愁嘆に暮れたはいかにも肝が小さい。ここで泣いてはダメだろう。そしていろは送りでの千代との情愛交感が薄いように感じられた。別に写実で悲劇を描出せよというのではない。師の芸はそういうところにはなかったのだし。源蔵の文司、これは褒めておきたい。よく意を用い神経を行き届かせて遣っていた。そしてぎくしゃくはしていない。ワキとして見事合格点をたたき出した。戸浪の紋豊は巧まざる味があり、今や名脇役として欠かせない存在感を持つに至っている。精密に遣いすぎないところが、かえって人形芝居の持つ面白みをふくらませているのだ。玄蕃の亀次は金時首の性根をよく掴んでいて、単純剛直そして滑稽味を底に踏まえた遣い方は結構だった。ちなみに今回のよだれくりは、浄瑠璃をよくわきまえて、床の流れを断ち切ることなく、笑いをうまく取っていた。ツメが悪ノリしなかったのもその波及効果であろう。評価する。
本公演、楽日前日はどうにも重くかつバラけた印象があり、全体を貫く心棒のようなものが感じられず、とても最終まで劇場にいることができなかった。この日、帰宅後左手の甲を見ると、十箇所以上のアザが出来ているのに気が付いた。睡魔を断つため無意識に抓った跡である。劇場に通うのも命がけ、とは大げさだが、魂を揺さぶられるか体を傷付けられるか、どちらにせよ来た時と同じ自分では帰れないことは確かなのだ。