『解説』
今の形としては完成している。やはり床と組み合わせたい。しかしその場で床を体験させるのは不可能。ならば、例えば体験道場として、この夏休み親子劇場で発表することを前提で、一定の期間週一練習のプログラムを組み、6月頃に応募を掛けてみるというのはどうか。
『小鍛冶』
松羽目物であるから神聖さを要求される。少なくとも超人性による不可思議な雰囲気は、前シテの老翁の時からすでに感じられなくてはならない。伊達大夫は声柄からしてニンではないはずだが、むしろ語り出しから荘重にして風格あり。中堅以下ではとてもこうはいかないであろう。後シテは勢いも威厳もあり、それが単なる力みや叫びに陥らないのが流石である。玉女も師の動かず肚で遣う人形を継承し、それでいて無理に作ろうとせず現在の力量で見せたのは好ましい。ただ相槌を打つところは、リズムに合わせることに気が行って、こせついた印象になってしまったのが残念であった。宗近は検非違使カシラとしてはまずまずの床と人形。道成はチョイ役でも孔明カシラであるのだが、その意識は床にも人形にもあったようで結構。団七は快打の部類に入るだろう。
「六角堂」
マクラ、霊地の格あり、「心のうちは六つの角」「ただ丸かれと夫婦仲」巧みに変化し、お絹の心中をこれだけで言い切っている詞章を十二分に描出する力量。千歳が清治を得ての成果は今回も瞭然であった。長吉への詞で「アイわしが入れぬ」を強く言い切ったのは見事で、これはもちろん長吉に言っているのではない。お絹の衷心からの叫びである。長吉・儀兵衛も無理がなく、まあ今少し自然体でもとは思ったが、世話物の詞をこれだけ語れるのだから、次々代の切語り(というより櫓下格)はその使命を果たしているというものである。
「帯屋」
前半は儲かると見えて実は難しい。チャリだけでは場が持たず途中必ず白けるし、第一この場を、割台詞でもなく本読みでもなく、義太夫浄瑠璃としての音曲の中で処理をするというのは大変である。もちろんチャリがチャリにならなければ丸でつまらない。ところがここを嶋大夫清介は完璧に勤めたのである。まず、それぞれの人物の登場時の際立った変化、これが見事であった。「井筒に帯の暖簾も、掛値如才も内儀のお絹」「洗濯物を引伸しの、皺は寄つても頑丈作り」「持て囃したる贔屓口、聞きかねて隠居繁斎」「裏の隠居へ嫁引連れ、行くと戻ると一時に」「と囁く弟、兄長右衛門は棒鞘の」と、すべて人形が出る前に、きっちり床が性根を描いて見せる。失礼な話だが、これほどの床であったのかと驚嘆した次第。もっとも正月公演の「紙治内」でその完成度の高さは感じてはいたのだが、病後見事に克服どころか、この高みにまで至ったのである。嶋大夫清介万歳!実際、チャリの3人は笑いを堪えるのが一杯でしかもあざとくなく、音曲の流れが中断することもなかった。そしてそれとは対照的に、繁斎、長右衛門、お絹三人の心情はひしひしと伝わり、繁斎の滋味と強さ、渦中のというからではなくやはり主役たる長右衛門の存在感、お絹の捌きと無念の怒り等々、客席にしっかりと届いたのであった。人形は、おとせの紋豊、儀兵衛の玉也、長吉の清之助、いずれも絶妙でしかも床を蔑ろにせず、前受けを狙わず人物像をそのままに浮かび上がらせ、傑作の一語に尽きる。
後半、マクラ一枚でしんみりと客席を鎮める手腕、蒲団の内の長右衛門の述懐、住大夫師と錦糸、至高の床である。個人的には正月の「沼津」と同じく、検非違使カシラ通常時の詞が生硬に聞こえるのと、クドキ(今回は繁太夫節)でもっとうっとりさせてもらいたい、ことがあるが、これらを含めてすでに床の個性であるから、もはや好みの問題である。人形は、お絹の紋寿は「私も女子の端ぢやもの」からの本心吐露がとりわけ鮮烈。繁斎の玉輝はよく映るというよりも的確な遣い方で十分、もちろん床がリードしていることはそれとして。さて、簑助師のお半は、「石部宿屋」で初めて枕を交わしたのが父性代わりかつ憧憬対象の長右衛門であり、しかも懐胎したという、極度に蒸留された純愛の結晶のごとき、箱入り娘の至上の愛を見事に体現した。これはもう爆弾であり愛情の地雷であるが、至極当然の帰結である。その愛情を抱えそれを踏めばどういうことになるか、長右衛門にわからなかったはずはなかろう。なにせ彼は色恋にも長けていた男であるからだ。芸子との心中未遂事件は若い時の過ちではあるが、誰でもそうなるものではない。心中してもよいと女に思わせる魅力が備わっているからであり、それは性格はもちろん彼の言動の為せる技である。そして長右衛門にも過激な発火装置が備わっている。しかしそれは普段の社会生活においては、彼の良識によって制御されており(心中未遂の一件も「詰まらぬ事で」と語っている)、事実その良識から彼は今回こそ自死を免れないと覚悟しているのだ。つまり、お半との情交は据え膳云々などではなく、また寝ぼけて自宅のお絹と間違ったというのでもなく、その発火装置が自然と働いたということになる。真実の色事師は長右衛門であるのだ。そこにはまた、お絹との情交が十分ではなかったことも考えられよう。「千万年も連添うて礼が言いたい堪能させたい」と独白するのがその証である。このストレスの塊のような家にあって、お絹もまたそれを発散させるような女ではなく(商家の妻の鏡ともいうべき賢い女性であるが)、長右衛門の川東通いは見せかけのものではなく、彼の奥深いところで実際心地良かったに違いない(お絹自身もそのことには気付いていたはずである。「年端も行かぬあの子でも、もしやお前の楽しみになりもせうかと」とお半のことを語る詞からもそれがわかる)。由良之助の茶屋狂いは敵を欺く手段ではあるが、本性として遊び心がなければとても無理であったろう。仮に郷右衛門が首領であったとして、彼の茶屋通いは想像だに出来ないしまず不可能であったろう。結果的に長右衛門はお半との過ちを後悔するより他ないのであり、尋ねてきたお半を冷たくあしらうのも強ちわざとというわけではなく、「道行」で「十四やそこらの小娘と」とあるのは、(世間がそういうのではなく)長右衛門自身が今から思えばそう言わざるをえないと認識しているためである。だが逆にその発火した時点、お半との情交は彼の性根からしても十分積極的意味を持っていたのであり、それはまたお半にとっても同じであったろう。打ち上がる花火の夜はそれほどに美しくあったとでも言おうか。生きているということ、人間であることは柔軟であること。硬直とは死後ばかりではなく、社会的立場において鯱張ることも言う。もっとも、そこで固まれない人間を、世間では愚かと言い弱いと切り捨てるのではあるが…。なお、石部宿は京という日常世界に戻る非日常の境界域であったことを付言しておく。旅はまた非日常の象徴である。その長右衛門を遣う玉男師はその柔軟な男の魅力を動かない検非違使の人形で滲み出させる。見事というより他ないであろう。
「道行朧の桂川」
二上りで始まり、宮薗節のサハリ、そしてフシオクリと、この魅惑的な道行は、寛治師の三味線とシンの津駒によって心地良く奏演された。人形もまたお半の、愛に殉じる可憐な姿を描出。ワキの長右衛門も納得。「男もとかう涙の縁」この長右衛門の涙の意味は、果たしていかなるものであっただろうか。
「合邦庵室」
呂勢清志郎の端場がすばらしい。マクラから講中の描写にまず引き付けられ、合邦夫婦も自然に聞こえ、「夫の心汲む妻は」からは抒情あふれる情感豊かな浄瑠璃で、「いとしんしんたる夜」の雰囲気を醸し出して切場へのヲクリとしたのは、大したものである。しかも二回目聞いた時に夫婦の情愛もその会話から滲み出るようになったのは、老人の映る年齢ではないゆえ無理に言葉を作ることはせず、音曲の流れの中で生み出されたものであるからであり、義太夫浄瑠璃のあるべき姿の一端が見事に示されていたともいえよう。大名人摂津大掾を目指してもよかろうと感じた。三味線は強く大きく溌剌たる意気を毎回感じる。
切場前半は綱大夫清二郎。マクラ実に立派なもので聴き入って十分。以下正格の浄瑠璃でいささかの揺るぎもない。ただもう少し客の気持ちを乗せてほしく、合邦の詞や玉手のクドキで食い付かせてもらえればと感じた。
後半は富助。大きく堂々として感情の突っ込みもありすばらしいもの。客席の反応もよく十二分に満足。とはいえ個人的には不完全燃焼気味に感じたのは、立端場からの影響とも思われるが、例えば、玉手の詞に手負いの苦痛がもう少し乗り、全体としてもう少々詰んで個々の人物がより際立てば、数珠の念仏なども客席を完全に巻き込んで、劇場のすべて(床+手摺+客席)が玉手の極楽往生を願うという、ものすごい状況が現出したろうと思われた。もちろん望蜀ではあるが、「合邦」の如き耳目に慣れ親しんだ演目の場合、必然的にそうならざるを得まい。
人形陣は総じて感心の出来。文雀師の玉手はまず存在感と強さがあり(これほどの自己犠牲を成し遂げる女性である)、その上に、俊徳丸への慈愛が仕掛けた恋の詞のところどころに思わず溢れ出し、手負いになってからの真情吐露には、人間存在とその意志の発動に崇高なものを感じるまでに至った。やはり余人の及ぶところではない。合邦の文吾は立端場から通して見てなるほどと納得がいく、一本きっちりとした性根が貫かれており、床や他の人形とも個々の所作が的確に応じて、この人のよく考え抜かれた合邦像として評価できる(とするとやはり床の方は淡泊だった)。俊徳丸の和生はこれはすばらしいもので、開眼しての気品と威厳もよく描出されていた。合邦女房の玉英、これまで簑二郎と組まれて損をした感があるが、「六段目」の婆といい、この人は少ない動きの中にこそ見どころがある。よく映ると言っては失礼になる年齢だが、こうして見ると師匠である玉男師の遣い方をよく学んだ結果ということであろう。となれば、尾上や政岡などを遣わせてみるのが面白いというものである。簑二郎はさすがに簑助師の弟子にして、玉英はさすがに玉男師の弟子なのであった。心底恐れ入った次第である。浅香姫は、上手屋台で一人いる時にどうしても遣い方がおろそかになるようだ。玉手の苦悩と真実を漠然と見つめてどうする。やはり手負うてからは始終伏し目であるべきだろう。とても正視できるものではあるまい。全体としては公演後半の方が前半よりは注意力が勝っていたようだ。今回は、前に見た時よりも、舞台にまとまりがあったように感じた。一音上がっての数珠の輪は全員の一段高い心の和でなければならない。それは観客の心も同じである。玉手の犠牲、そしてその玉手の魂が成仏するという至純の祈り、それが成し遂げられたとき、「合邦」は成功したといえるのではなかろうか。そこに音曲的法悦が不可欠であることは言うまでもあるまい。