平成十六年一月公演(前半:四日目、後半:楽前日)  

第一部

『寿式三番叟』

 初春公演、そして劇場開場二十周年ということもあるが、こうも隔年で出されると、評する方としては特徴的だった三業の成果に触れる程度にとどまらざるを得ない。今回の場合、松香の千歳と、文字久・新の三番叟が相応に聞こえたことを良しとするということなのだが、実は、言祝がれたのは、和生・清之助・玉女・勘十郎という、次代の中核となる人形陣の舞台だったのである。そしてこれこそが、今回の有意味性なのだ。その中でも翁の和生については、若干記しておく必要がある。もとより今の和生が、この翁の超俗性・神秘性を描出できるはずもないのだが、考えてみれば、小宇宙の最小単位であるわれわれ人間が、大宇宙=神の存在を認識するなど、そもそも不可能なのである。しかし、天声人語という言葉からもわかるように、われわれが目にし耳にし手に触れ味わい匂うもの、つまり森羅万象すべては、神の存在・意志の現前化に他ならないのだ。詞章で言えば、「甲に三極を戴いた」る「万代の池の亀」、「麗々と落ち」る「滝の水」、「鮮やかに浮かんだ」る「夜の月」、そして「さくさくとし」た「渚の砂」が、「旦の日の色を弄ず」るというのは、大宇宙つまりは神の存在・意志が、人間の感覚器官に認識可能な、具象化された小宇宙という形をとって、象徴的に表現されている、ということなのである(逆に言えば、ニッポニア・ニッポンの絶滅、里のカエルやトンボの消滅、等々の現実が、何の表象であるかということでもある)。今回、翁の和生が、これらの具体的な描写を丁寧に美しく印象的に演じて見せたということは、その意味では、「天下泰平国土安穏の、今日の御祈祷」をよく果たしたということである。とはいえ、翁の面を着けている以上、その超俗性・神秘性の描出を免除するわけにもいかないのであるが。なお、劇場開場記念式典における「寿式三番叟」が展示室のビデオで上演されていたが、あらためて二十年という、とりかえしのつかない時間の経過を痛感したのであった。
 

『染模様妹背門松』

「生玉」
 千歳燕二郎(ツレ咲甫清馗)の奏演を聴いて、前半が道行仕立てになっていることを再認識した。「夢に見て、現にあふて幻に」というマクラの通り、「じやらつき合ふ」お染久松の幼い恋模様が、美しく響いてきたのであった。「声無常めく」歌祭文も結構。代役清之助の久松は、常にお染を気遣う優しさを見せ、文司の善六も後半は動きがあった。観客に夢と知らせる趣向も、ようやく真っ当に考えられた抜群の方法を取り、今回の「生玉」は高く評価されるものである。ただその中で物足りなかったのが、紋寿のお染。大店の娘としての風はあるものの、派手という言葉が天性似合う積極性に乏しかった。歌祭文を二人並んで後ろ姿で聞く所、やや外側に傾いて離れ気味のお染の肩に手をかけている久松は不自然この上ない。ここは、二人並んだお染が自然と体を久松にもたせかけ、久松がその肩に手を回すのでなければ。「大事の一人子を木の空へ上げる色事、よう教へて下さりましたなう」という、この後「質店」での久作の詞は、あながち我が子可愛さゆえの当て言でもないのである。誘惑の魔性が感じられなければ、お染とは言えまい。

「質店」
 久作の「聞こえませぬ」で客席をほろりとさせ、手を叩かせるほどの出来は、住大夫錦糸ならではあるまい。冒頭の祭文売り、質受男と質入女房の描出、久作は活写され、「聞く久松は〜思ふ色目を押隠し」の運び、大店のお家様の風格、と、賞賛に余りある極上の床であった。ただ、お染久松恋模様を描く前半が物足りなく、面白からず。「両人に取つては世界中第一の大問題であると云ふ事」と『浄瑠璃素人講釈』にも述べられている通り、辻占に一喜(「お染はいさみ」以下)一憂し、死を覚悟する切迫感、それゆえにまたお染のクドキも「此娘一生中に又とない一大事を、自分の心の融け合つた情夫に打明ける文句」(同書)として一杯に語られる、その血走るが如く突き詰めた突っ込んだ二人の心模様が、残念ながら至らなかったのである。これは悪声とか難声だからということではない。現に山城弥七の「質店」を聴けば、文字通り命懸けのお染久松の様子が、鮮やかに伝わってくるのである(越路喜左衛門の場合は、またあの通りに聴く者をとらえてやまない)。それから、別名「革足袋」と呼ばれる以上は、「身の誤りと親の慈悲、骨身にこたへ詫涙」の詞章に至るまでにも、すでに聴く者に涙を催させねばならないのだが、前半の弱さも影響してか、そうはならなかった。当方にそれを聞くだけの耳が無かったのは当然としても、ひょっとして年齢的・体力的にしんどいということではあるまいかと、心配もしてみるのである。なお、「ぐわらり」「元利」「果報」の「く(ぐ)わ」音がまったく聞き取れなくなってしまったことにおいても、過ぎ去った時間を哀惜せざるを得なかった。人形、文吾の久作は、野良声の好々爺とは見えない。知が勝ちすぎているからだ。おかつの紋豊は納得できた。

「蔵前」
 白骨の御文章が省略されるばかりか、「ご尤もでござります。そのお腹ではなるほど生きてはいられますまい」「エエ悲しい事を云ひ出してたもる。五月こせば人の形、二人が中の奔走子。可愛や因果な腹に宿って月日の光も見ず、闇から闇に迷うと思や、身ふしが砕けていじらしいわいの」という、ぞっとするほどの事実認識を語る詞章もカットされている。「お染様」「久松」の叫びも、段切の山家屋清兵衛の登場も、ともに唐突で不自然、親太郎兵衛の意見もちょきちょきと剪定され、「薗八節とやらの道行に語られる様になったらば、おりゃモウ泣き死にかなするであろ」「必ず必ずアノお文様を、灰寄せに読まさぬようにしてくれよ」の衷心衷情も流される始末。原作通り「油店」を付けて「蔵前」まで出せば、詞章に齟齬もなく、人物関係も、それぞれの心情とともにすべて明快に把握されるものを。とはいえ、正月早々人が死ぬのはという配慮なら、茶番でも何でも、せいぜい派手にやって心を晴らしてもらわなくては。ところが、「栄耀がしたさぢやみな慾ぢや」の語りと人形の後ろ振りにも手が鳴らない。善六の詞ノリにもドッと来ない(後半の文司はまずまず)。ならば、英団七の床も紋寿の人形も、劇場側つまりは松之輔の改作意図を体現するに至らなかったということになるのである。ちなみに、太陰暦では当然大晦日は闇の夜であるから、現代日本人としては、それを戯曲に用いた巧みさも心して味わいたいものである。
 

『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責」

 前回復活された判決理由の件をふまえての完全版である。嶋大夫・簑助師の阿古屋はたっぷりと量感あり(勘十郎の左が巧緻)、咲・文吾の重忠は慈愛もあり厳然たる姿もある。津国・玉也の岩永は、津国が敢闘賞ものならば、玉也は殊勲・技能両賞を手にした。単なる儲け役ではない、敵役と三枚目を併せ持つ好演であった。呂勢・玉輝の榛沢は嵌り役。三味線陣は清介が大和風の運びにも意を用い、ツレの宗助による重層化と、何より三曲の清志郎が実に鮮やかであった(ただし三味線の音と並ぼうとしてはいけない)。これで、懐胎の身である阿古屋の、景清を述懐しての美しい哀感が、通奏低音としてこの一段を貫いて流れていれば……。とはいえ、正月公演としての華麗な一段という役割は、十二分に果たしたものである。
 

第二部

『良弁杉由来』

「志賀の里」
 三輪の渚の方、大事の一人子を眼前さらわれた、激しい悲痛の叫びが突き刺さってきた。ただ、地合の部分では、例えばマクラ、風薫る初夏の空に鳴く時鳥、「鳴きつる方の」と百人一首を踏まえて「ゆかしさよ」で、冒頭の情景描写は、「都の雲井」を眺めて思いを馳せる渚の方の心象風景となり、「いつしかに」で低くゆったり収めると、ハルフシの「近江に住居写(移し)絵の」で、今の状況説明へと移行する。こういう辺りの音遣いがなめらかに語れれば、立派なものなのであるが。あと、睦にはっとさせられたのと、南都が後半良くなったことを書き添えておく。三味線の清友は一段をまとめ上げた力を買う。人形は、文雀の渚の方が持ち役で、賢明かつ物堅いがゆえに、突然の決定的不幸の前には、狂乱するよりほかなかった女の姿を描いて見せた。乳母小枝の勘弥も品格が感じられた。なお、照明効果も意を用い、「弓手の比叡の山颪」の一点俄に掻き曇りという光の情景を描出していた。 

「桜宮物狂ひ」
 清治の三味線。その音で情景が描写される。渚の方の出、「乱れてし」の後の合の手が狂乱の姿を、「甲斐もあらし(嵐)のいたづらに」で、荒鷲出現の怪しく薄暗い空模様を、「空心さへ現なき」で放心状態を、それぞれ描いてみせるという、驚異の三味線である。一方の千歳。彼もまた渚の方の狂乱などよく心得ているが、楽日まで声が保たないというのは、無理に作っているからである。それは他にも、正気に戻った渚の方の詞章を、やたらもったいぶって大仰に語るという、勘違いも甚だしい表現にも見られたことである。渚の方の覚悟(覚めての悟り)、そして諦念、この自然な心の動きがまったく感じられず、まるで高僧が説法するような、あるいは一人高みに登ろうとする小乗の悟りの如き、作為ありありとした語りには、違和感を覚えざるを得なかった。むしろ、ワキの呂勢がよく、ツレの始の努力、咲甫・つばさと、この一段が道行景事風であることをよくわきまえて語った太夫連に、賞賛の意を呈したい。三味線は、二枚目の喜一朗以下、清志郎も加わって万全であった。人形は、花売娘と吹玉屋が儲け役だが、この明治の新作には、人形による舞台のケレンも、当初から大切な要素として組み込まれているから、客席を大いに湧かせ受けることが重要なのである。その点では、簑二郎が十分で、玉英はおとなしかった。 

「東大寺」
 喜左衛門の指導、津駒は「玄関(くわん)」と語ったし、伴僧の味も出したが、それでもすっくりと腑に落ちないところがある。渚の方の「胸に迫りてゐたりける」の三ツユリ、やはり「ウンヌ」ではない。もちろん三ツユリでも、節尻を弱く目立たず語り、消え入るばかりの悲哀等を表現するときは、「ウンヌ」とは言わないこともあるのだが、津駒の場合はいつも言わないようなのである。ここも、「るウ」と明瞭に語っているにもかかわらず、響き仮名の「ウンヌ」を語らないのは、問題なのではあるまいか。前回の相生(三味線喜左衛門)、他に伊達路(徳太郎)も、そう語っているし、ここのフシははっきりと落として締めるところであろうし、やはり津駒の三ツユリに関しては、これからもとりわけ注意して聞いていかねばならないだろう。また、伴僧の詞の前後に「これよりほかに思案がない」が繰り返されているのは(前回相生の踏襲ではあるが)、工夫がないと感じられるし、「厳かに、寄付くことも」できぬ大寺院の描出も、マクラから今一つ。今回この一段は「三番叟」千歳の松香と換え替えで聞いてみたかった、というのが偽らざる本音である。人形は、儲け役とは言え、その自然な善意あふれる伴僧を遣い、客席からも心温まる拍手を贈られた紋豊である。

「二月堂」
 何よりもその表現に品格を要求されるこの浄瑠璃は、今、綱大夫清二郎より他に勤められる人はいない。聴く者にもまた自然と居住まいを正させるものがある。行儀の良さ、つまり私心のない慎みである(論語「礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ」)。今回とりわけ際立ったのは良弁の述懐で、最初の「烏に反哺の孝もあり、鳩に三枝の例もある。われは闇路の魂よばひ、生れぬ先の父母も、空懐かしさ、はかなさよ」と、段切の「杉の梢も雨露の恩。恩と情の親心。恵みも深き二月堂。日頃の憂きは木の元に、悦び栄ふ孝の道」とが、この一段の骨格を成していることを、その奏演で気付かせたのである。前者には父母の恩愛に報いることも叶わず嘆く、「狐の段」の手が用いられており、後者には哀調を帯びたタタキの手が、全一音上がった華やかな段切の中に浮かび上がる。つまり、自己の内へ内へと省みる視線の下降と、彼方へ外へとあこがれる上昇の視線と、それは両者に共通して対称を成している。そしてまた、前者は落ちる涙に収斂され、後者は微笑みとして拡散されるという、対照的な描出でもあるのである。実はこのことは、玉男師の遣う良弁僧正の人形によって、というよりも、ほんとうにわずかな首の角度、この位置しかないという仰角と俯角とによって、観客に納得させられたものでもあった。そして、この両者の詞章の間に、この一段の感動の頂点、良弁と渚の方の再会があるわけで、「そんならあなたが」「そもじが」の語りから、「渚の方、人目も恥ぢず抱きつき」で文雀師の渚の方が良弁の胸に縋り付くところ、その母をやさしく抱きしめる玉男師の良弁、「喰ひしばりてぞ泣き給ふ」の泣キまでに、客席でも涙を流さない者は一人もいなかったのである。ちなみに、段切の見上げる視線は、長かった過去を振り返ることはもちろん、二人が生きて再会するに至らせてくれた多くの人々、母と子とそれぞれに関わった人々の善意と想像力とに、この上もない感謝と愛惜の思いを走らせているものである。この段切に、「桜宮」の船人や「東大寺」の伴僧の、温かい親身の言動が浮かび上がるとき、親子再会の愛の物語は、人間への信頼という愛の物語ともなるのである。深く根を張り天に聳える杉の大木をその象徴として。 
 

『八百屋献立』「新靱」

 伊達大夫が寛治師の三味線を得るとき、その浄瑠璃はもっとも魅力的なものになる。今回も、とりわけ後半には脂が乗って、ともすれば評判の悪い近松改作物を、面白く堪能させてくれたのである。しかも、悪ノリでも前受けでもなく、正攻法の義太夫浄瑠璃としてである。これが可能なのはやはり両人だからである。例えば、語りなら「はいと勝手の釜の前、濃(恋)茶と知らぬ半兵衛が、なんの気もなく差出す」には、色気婆もちゃんと描出されており、三味線なら「跡にはとほんと半兵衛、呆れてものも岩(言は)橋の、渡りせかれし千代が身の」の、掛詞と縁語を駆使しながら半兵衛の心情から続けて千代の出につながる詞章が、その奏演によって明快に浮かび上がっているのである。一方、人形陣はといえば、これがまた、荒唐無稽(狂言綺語としては非難さるべきことではないが)とは感じさせぬ、新靱の八百屋での一景として、誠実に演じて見せたのである。勘十郎の母おくまは、まさに虚実皮膜の絶妙な一筋をごく自然に遣ってみせる。天性の才に加えて、詞章を十分に読み込んでいるからだ。和生のお千代、どこまでも後に陰に裏に回る女だが、一旦表に出るや調子に乗る、その両方が不快に感じられてしまうという、近松原作の姿も垣間見せて十分。玉女の半兵衛は、養子であり源太かしらである、その性根を動かない中の動きで見せた。十蔵の亀次も分別あったが、幸助の嘉十郎が、遠慮知らずの甥っ子を活写する動きを見せ、いい意味でやはり目立っていた(ただし、遣っている本人が表情に出すのはどうかと思うが…)。清らかな涙のカタルシスの後は笑って追い出す、立派な狂言になったことは、次代を担う人形陣に託されたこの一段、十分その責を果たしたということである。伊達と寛治師の床はその後見であったとも言えよう。

 プログラム鑑賞ガイドのY氏による解説はやはりすばらしい。「文楽・知識の泉」(この企画と内容にはまったく脱帽である)と重複しないようにとの配慮も感じられる。それでも、もし瑕瑾を言い立てるとするならば、ここに書かれている中身が、目の前の床や手摺によって十全に表現されてはいない、ということであろう。しかしながら、それはまさしく三業の責任である。文字通りこれは、指針・羅針盤・指南車としてのガイドの役割を果たしているのであるから。