「文楽のおはなし」
子供を舞台へ上げて体験させるのは画期的であったが、それ以前に人形のポイントを押さえた解説がすばらしく、親自体が感心して嘆声を発していた。また当日担当した幸助が実に上手で、客席の親・子それぞれの心をうまくつかみ取っていた。もちろん、人形に偏って太夫三味線にまで至らなかったのは残念だが、床の解説を体験型にするには、対象が少なくとも中高生でなければ難しいだろう。ただし、この人形が床の奏演によってどれほど生き生きと動き出すのか、最後にクドキの一節とか段切近くの躍動感を披露して幕にすれば、三業一体の意味も分かったろうにと、次回に向け更なる改良に心掛けられたい。ともかく前年までの壇上から訓戒を垂れるような形式から一転、結構であった。とりわけ舞台へ上がった子供たちにとっては、夏休み体験学習やら総合学習のよい成果となったことでもあろう。
「猟師源左の家より冬の湖畔」
嶋大夫代役呂勢。人魚姫の狐版で悲劇に終わるタイプのもの、とすれば出来ている。が、昭和3,40年代の日本では確実にどこでも見られたこの、慈悲深い(若い頃の苦労による)母と、仕事(家族を支えるものとしての)大切の孝行息子と、そして気も身もよく働く嫁という、家族構成を活写するには今一つ。また、「きっと心に決めたからは一度だけでも未練げに狐に帰る気はない」との強さ(右コンの死も自責の念ではなく、最後まで人間として源左の嫁でありたいとという)、それとは正反対の、正体を知られることへの恐怖、そしてこの話の主題をどこに置くか、そういうところまで要求するのであれば、清介の三味線があっても難しい。しかし、夏休み親子劇場である。所期の目的は十分に果たせたと言ってよいだろう。四月『菅原』「伝授場」の代役といい、確実に次々代を支える人材である。人形は白百合の紋寿をはじめ、源左の和生に、母を玉松、他狐たちもそれぞれわかりやすく、納得できた。
「埴生村」
端場を英喜左衛門。三味線は冒頭の三下りから雰囲気を醸し出し、切場へのオクリまで大夫をよく導いた。英は金五郎に工夫が見られ活写。しかし累と与右衛門の表現が弱い。姉高尾の怨念霊が憑依するのは単に美形の実妹であるからでなく、累にもそれ相応の怨念に感応する霊感があるわけで、自らに成り代わりその怨念を相乗的に発動させて、憎き絹川あるいは歌潟姫に恨みを晴らすことが可能だと見込んだからである。詞章に刈り込みがあるとはいえ、冒頭の「くわつと燃える火の累が胸のとけしなく」が不十分で、続いてのクドキとも自惚れともつかぬところも迫ってくるものに欠けた。一方与右衛門は終始屈折しているのであるが、それが忠義一途から来るということと、元は力士という任侠の世界にも通じる職業であったこととがきっちりと伝わらなくてはならない。それが不十分。実はこの両者の造形不足が切場においても同断で、結局跡場の「土橋」にまで影響し、最後与右衛門が堪りかねて累を害する場面での、両者への感情移入・共感が今ひとつのまま終演となったのであった。本水の使用も、客席を含めての熱気があればこそなのだが、期待したほどの効果もなかったのである。
切場は綱大夫清二郎。「天満屋」住師錦糸と換え替えならばと思われるが、今回『曾根崎』を人間国宝の至芸で固めるという方針だからということもあろう。当て節も顕著な江戸浄瑠璃を勤めさせるのはやはりお門違いだろう。近松物の地色の妙を味わいたかったのである(とはいえ実質「天満屋」は新曲ではあるが、綱大夫弥七の奏演(ならびに前回の綱清二郎)を聞いていると、やはりそこには近松物としての節付けの特徴が聞き取れたと思われたのだが、この点については改めて補完計画で取り上げてみたい)。勤めるとなればやはり眼目は累、そして与右衛門。女郎屋で儲かるのはむしろ罵倒される累にどれだけ感情移入して共感できるかだろうし。そして三重に急き立てられるように「土橋」へと期待感が続けば大成功なのである(ここには国立小劇場での越路大夫喜左衛門両師による絶品が残されているので、これもまた詳細な分析を補完計画で行ってみたいと考えている)。で、今回の綱清二郎であるが、累が己の姿を見知ったクトギに動きと激しさが出て、客席からも拍手があった。それならばよいではないかというと、そうではない。与右衛門は、例えば「所詮手短に金五郎めを追駈けて打ちはなし」云々や「了簡して下され三婦どの堪へてくれ女房ども」が今ひとつ応えないし、「浮世に秋の日の足も片足短き女房の」の変化も何のことはない。その累は「玉三郎」で受けても、前半夫を親身に心配する様子や、それ故の女郎屋への八つ当たり、夫へ身売りを申し出るところの切実さがやはりもう一つ応えない。そして「負はれ負はるる死神の」「研立て鎌は今宵置く草葉の露と消えよとか」にも、心用意はあるのだが表現力が今一歩。とはいえ、以前住大夫で聞いた時も陰鬱で暗澹とさせられる一段だとの印象のみが強かったから(その後公演記録映画会で越路喜左衛門の奏演を聴き飛び上がるほど驚いて、これは二度三度と聴き込んでみたいものだと思うようになったのである)、今回の綱清二郎も当然、切場大夫三味線としての職責は果たしているのである。
「土橋」
端場を文字久と宗助だが、ここを新たに切場への中として語り弾こうとしてはいけない。内容からしても格からしても、この「土橋」は「埴生村」の跡場なのである。ただ、累が嫉妬の狂乱に至る仕込みが切場でなされてないから、その分詞章が長くなっているわけである。だからさっさと片付けてしまわなければならないのであり、切場を三重で道具返しした期待感緊張感の糸を切ることなく、奥の累の出まで持って行く必要がある。公演前半ではそこが未整理のため、金五郎の長科白や与右衛門とのやりとりが丁寧すぎてダレ気味でもあったのだが、後半にはあと一歩というところまで漕ぎ着けた。文字久は大音強声、馬力があるし、時代物三段目を正面から堂々と浴びせ倒す大夫に成長してもらいたい。周りを見回す時、今や津大夫の後を継ぐ可能性を秘めた貴重な人材であるのだから、何としても懸命の努力を続けていただきたい。その際に気掛かりなのは、今以て浄瑠璃の節回しとは聞き辛いところ(音遣い)が間々あるということである。例えば、冒頭「とは言ふものの今一度」や三重「跡を慕ふて」等々、録音してでも自ら聞いてもらいたい。この点、呂勢には心配がなく、そこが両者の差でもある。が、もちろん文字久には破壊力というとんでもないものが芽生えつつあるわけで、何としてもこの、どうも浄瑠璃として腑に落ちない音遣いを早急に克服していただきたいのだ(三輪、咲甫もそれが完全には解消されていない)。そうでないと、結局は掛合での文七担当に押し込められてしまうことになろう。あと与右衛門の詞「何事も私がイヤサわしがこの胸にナア」「詳しい事はサ詳しい事は」となぜ同じ言葉を再三言い直すことをするのか、また、考えた挙句金五郎にその場の作り話をするところなど、与右衛門の置かれた状況、心情がこちらに伝わってくれば、立端場語りへと進むのだが、未だしである。なお、三味線の宗助はもう立端場クラスの腕である。
切場を清治が担当するが、前述の通り跡場の格だから、ここでじっくり腰を据えられると困るのだが、その心配は皆無であった。ともかく累狂乱へと至る描出が主眼であるところを、見事に出来た。マクラ「心も空に降る雨は晴れぬ思ひの稲村に始終聞くほどせき上す心の角を押し隠し」で三段変化を描出し、「燃立つ瞋恚を現はして」「ぞつと身の毛も」が眼前見るが如く、ガブの人形と相まってこちらへ迫るものがあった。「嬉しうて拝んでばつかりゐたわいの」「ガ」「今よくよく思うて見れば」のカワリも鮮やかとなれば、もう言うことはない。ただ、与右衛門の怒り憤りと反転しての慈悲恩愛の絞り出すような真実心の表現は、もっと切迫すべきだと聞いたが、段切で累を抱き上げるや客席から手が来たから、与右衛門の愛情は確かに観客の心にまで届いていたのだろう。もちろん三味線清治の左手ツボの具合やメリヤス等が有効に利いていたのは言うまでもなかろう。ともかくも本公演中全体として最も楽しめ、客席から身も心も前のめりになることが可能であったのは、まだしもこの「土橋」の切場だったのである。もちろんそこには人形の力も大であったのだが。
その人形陣は、まず文雀師の累が、激しさと動きには欠けるとも見えるが、深奥からこみ上げてくる怨念の表現や、霊力に憑依されたどうにもならぬ様子をよく描出していた。「秋雨降りしきる天の悲しみ目前に」とは眼前客席の同情悲哀の涙でもあったろう。そして文吾の与右衛門が真っ直ぐな衷心衷情、苦悩思案の様態をきっちりと表現、ただしこちらも力士絹川としての強さと思い切って累を面罵し最後害するという、忠義のためにゾッとする冷酷さを垣間見せるところまでに至らなかったのは、文吾の現時点での到達点を示しているものだろう。この大詰までの床の出来と併せて、本水の使用が今一つ客観的に感じられたのも、その激しさ強さがもう一歩及ばなかったため(カサヤのメリヤスでの立ち回りも含めて)でもあろう。金五郎の玉女、歌潟姫の清之助、女郎屋の勘寿、以下どれも鮮やかとは言えないが堅実に自分の仕事を見せてくれた。これが純粋に芝居として楽しめる余裕が出れば、この狂言も多様な面白みが出てくるのだが、そこに至るには三業ともに今一枚の薄膜を破らなければならないようである。
「生玉社前」
伊達富助がていねいに、しかももたれることなく、それぞれの人物に血を通わせての造形は、このコンビの理想的な姿である。段切、徳兵衛の無念さを共有し、「拳を握り男泣き」の涙が胸に応えたのは、大成功である。久しぶりに切語り格の伊達を聴くことができたのは、至上の喜びとしても過言ではなかった。
「天満屋」
住大夫師錦糸の床が玉男簑助両師の至芸と相まって演劇的相乗効果を現出する。ぜひ劇場の椅子にてライヴ演劇を鑑賞いただこう。
「天神森」
冒頭の三下りがこれほど効果的に聞こえたことがあっただろうか。近松の名文と作曲の妙を活かす寛治師(以下弥三郎喜一朗龍聿)の三味線。大夫陣は咲千歳で悪くないが、いつも通りの注文が今回もつく。南都も声を作る悪癖が出て、「南無阿弥陀仏」など義太夫浄瑠璃には聞こえない。お初を遣う簑助の顔も思わず歪んでいた。始も常の如し。玉男簑助両師は全く徳兵衛お初そのもので、両方の意味から一心同体の二人は、もはや舞台上の人形でも人形遣いでもない。手摺というものの到達点を示すものである。九平次を玉幸、亭主玉輝、以下遊女簑二郎勘弥女中玉英と、脇固めの布陣も十分であった。
ともかく、今回はここまで書き上げるのに、随分と時間がかかってしまった。カタルシス、感動の赴くままに筆が走っていくことがなかったからであろう。劇評を書くために書かなければならないということほど苦痛なことはない。そもそも劇評なとという不遜な行為を始めたのは、何も評論家面をしたいがためではなく、ともかくも劇場の椅子に座って得られた感激を形としてとどめておきたいというところから発したものであった。ならば感受性が摩耗しているのではないかとの指摘もあろうが、前述したように、越路喜左衛門
「埴生村」・綱弥七「天満屋」については、こちらの胸に残ったものを書きとどめておこうと思うのであるから。為にする文章など、とても書けるものではない。