平成十四年十一月公演(初日、23日、所見)  

第一部

「弁慶上使」(『御所桜堀川夜討』)

 端場を文字久・弥三郎。「天ざかる」のハルフシなど、やはり今もって浄瑠璃には聞こえない。西洋の声楽を聞いているような気になる。要するに音を遣っているのではなくて、歌っているからである。それがこの人の欠陥として固定してしまわないうちに直していただきたい。ヲクリの「皆々」を「みなみー」「なーあー」と切っていたが、どうなのだろう。「みなみな」と言ってから「あーあー」と引き字にすれば、耳から聞いても語義は明らかである。この二点はどうにも腑に落ちなかったのだが、あとは予想以上の出来で、掛合を卒業して端場を単独で語らせてもらっているのも、納得のいく実力である。千草結びも、おわさのタテ詞も、稽古の成果、腕を上げたとの思いを強くした。三味線の方は持ち前の堅実誠実に加えて勢いが出てきたのが将来へ向けての慶賀である。
 奥を伊達寛治だが、初日に聴いてほとほと感心してしまった(ただし23日には疲労感があった)。これは立派な切場の浄瑠璃である。このコンビ屈指の出来といってよい。とりわけ侍従夫婦が再登場してからが情愛滋味にあふれ、劇場全体が大きく包み込まれたのであった。あの難声で、「左ばかりが振袖の」以下のおわさのクドキが聴く者の胸に響くのは、語りに血が通っているからであり、寛治の豊かで幅のある三味線に負うところもまた大なのである。信夫が刺された後の狂乱も真実心に迫った。弁慶では「殺したはお主の、」で詰まるところには情感一杯血を吐くが如きものあり、それは後の「なにひとたまりもこたへうか。」も同じであった。これで大落シ「三十余年の溜涙」は実も実、観客の目にも涙が湛えられたのであった。手摺の人形を現実の人間以上に純粋に「人間」として息を吹き込み、血を通わせ、心を持った存在として動かすこと、この太夫三味線の床としての原点を、文字通り目の当たりにし、耳にしたのである。
 人形も文吾の弁慶が父性愛を前面に押し出して情愛豊かな遣い方を見せ、信夫の亡骸を抱きかかえるところなど、客席の涙と共感を誘い、大きな拍手がわき起こった。おわさの紋寿も前半のタテ詞に後半のクドキにとそれぞれにふさわしく味のある動きを見せた。娘への愛情表現も実がある。その他若手陣も脇役を問題なくこなした。
 全体を通して、人々に親しまれ愛された「弁慶上使」という浄瑠璃を現代の我々にも十分に味わわせてくれたのだが、弁慶が頼朝からの難題に苦渋しているという大きな背景、政治性については、印象が弱かった。弁慶が卿の君に語る「かねてなき身と思召さば、その期に臨んで不覚を取らぬ」に込められた裏の意味に対する用意、「つひ打明けていへばえに、暫く心奥の間に」の地の文の処理等、いささか浅く感じられた。なお、端場の文字久は懐胎を「かいたい」と語ったが、伊達大夫は「くわいたい」ときちんと語る。これは両人の実力差というよりも、師匠からの口伝(などというレベルの事柄ではないのだが、今日ではもうその領域に入るようになってしまっている現実がある)や昭和50年代までを支えた大夫たちの浄瑠璃をきっちり聴き込んできたかということである。現実に「くわい」音が滅んだから語られなくなったのではない。日本社会での「くわい」音の消滅以後も浄瑠璃ではしっかりと伝承されてきたのである。伊達大夫はそういう意味でもまさに切語りにふさわしい大夫と言えるだろう。逆に言えば、その「くわい」音を語れずして切語りを勤めるような大夫が、この先出てくるようなことだけはやめていただきたい。もちろん、伝統も口伝も風も捨てて自然消滅させるというのなら別に構わないが。
 

『冥途の飛脚』

「淡路町」
 端場は呂勢喜一朗で、若手から中堅にかかる実力者コンビである。とはいうものの、初日では近松物の大きさの前に、よく語り弾いてはいたが、上滑りの感があって応えなかったが、公演後半にはその実力ぶりが如実に感じられるものになっていた。まずマクラの三転がすばらしい。「みをづくし難波に咲くやこの花の」と、枕詞・古今和歌を用いての荘重な詞章から始まり、亀屋の養子分として大和から来た忠兵衛が大坂商人として成長もし、手慣れても来、結果梅川に上り詰めることになる描写部分、そして「飛ぶ足の」から飛脚宿の慌ただしい光景を眼前に描き出すまで、この語り分け弾き分けは鮮やかでもあり納得もいくもので、このマクラの詞章が近松の書き記した意図通り、聴く者に確実に届いたのである。国侍はいかにも固く融通の利かない様子を人形ともども表現できていたが、「銀拵へも胡散なる、(鉛)訛り散らして」との詞章、諸藩蔵屋敷の田舎侍を活写するというところまでは届かなかった。手代伊兵衛(人形の幸助は鮮明)と母妙閑も問題なく仕上がった。
 この公演において、初日(から)も23日(まで)も、狎れることなく、崩れることなく、最高の状態を保っていたのが、清治による「淡路町」の奥であった。寡聞ながら、これまで聴いていた中での最上位に置かれるものであろう。ともかく、変化、詰んだイキ、等々、鍛え抜いた技によって、近松浄瑠璃の意味の深みが浮かび上がってきたのである。羽織落としの寓意、犬に吠えさせた意味、そして梅川が忠兵衛に心を許した理由、等々。が、その前にヲクリから順に見ていこう。まず、三味線のジャランに「籠の鳥なる、梅川に」のカワリが鮮やか、「焦れて通ふ廓雀、(チュウ)忠兵衛はとぼとぼと」主人公の登場となる(ここで「蜘蛛手かくなは十文字」という戦場での手練を忠兵衛の腐心に用いた近松の皮肉は見事)。「妙閑の耳に入つていかやうの、(チ)、首尾になつたも気遣はし、(チ)、誰ぞ出よかし内証を」の焦って畳みかける語り、音の余韻を消したあしらいの三味線の鋭さは、忠兵衛の様子を活写。そして「忠兵衛はうそ腹の立ち煩ひて」も面白いし、八右衛門に声を掛けられての軽口も実に笑止な限りで、それが無効と知るや一転涙を流しての暴露話も確かに赤裸々な真実と聞こえ、八右衛門が鬼の目にも涙はさもあらんとの思いを持ったのである。母に聞きとがめられるところ、「と、(チン)、声かけられて、(チン)、詮方なく」の三味線でタイミングの悪さが表現され、鬢水入の一件で「似せも似せたり五十杯、母には一杯参らせし、その悪知恵ぞ勿体なき」に至っては、先刻の真実の涙は何処へ消えたぞと思わせるほどの、忠兵衛という男の人物像がありありと伝わってきたのであった。為替銀が届くや「忠兵衛いよいよ勢ひよく」となるのも、これで飛脚屋商売がうまくいくということではなく、先刻は金子五十両に窮した身が合計一千両もの金銀を前にして、自らの懐が潤ったように感じているのである。他人の金であるにもかかわらず。ここも実に巧みにありありと描写されていた。あと、前後するが、「また欺されし正直の親の心や仏の顔も三度飛脚の江戸の左右待つ夜もやうやう更けにけり」のところ、掛詞を介して連なって行く詞章の鮮やかさと、ヲクリというものの意味がよくお解りいただけようし、「声高に手んでに葛籠かたげ込む」では、今度は三重の勉強になるだろう。ともに理想的な奏演であるから。また、某太夫に課題の詞章の明瞭度も、足取りを弛めることなく保たれたのは、一段高みへ至ったことの証左でもあろう。もちろん、より高くあってもらいたいのだが。
 では、先に述べておいた三点について、清治の浄瑠璃を聴いて思い至ったことを書き連ねてみる。羽織は飛脚亀屋の主として武家屋敷へ届けるために着用したものである。実際「銀懐中に羽織の紐、結ぶ霜夜の門の口」からは一音上がってハルフシで語られるのであるが、それこそ詞章も節付けも固くハッキリと形式的に正しく装ってなされるのである。ところが「出馴れし足の癖になり」で、それはたちまちぐずぐずになってしまう。そしてとうとうその亀屋忠兵衛としての形式を象徴する正装の羽織が脱げ落ちるとき、忠兵衛もまたこの世での飛脚屋から脱落して、「冥途の飛脚」たるべく、梅川のところへ急ぐことになるのである。したがって、この羽織落としが完璧に演じられるとき、そこにはもう「封印切」が当然来るべきものとして用意されているのである。羽織こそ封印に他ならないのであるから。次に、犬が忠兵衛に吠えかかるのは同類と見ているからである。いや、口先だけで犬畜生と自虐(とは、他者から傷つけられる前に自傷することによって、自己の殻を守ろうとする、自己防衛行為である)する忠兵衛は、犬にしてはそれこそいい面の皮である。吠えかからずにはおられまい。「犬の命を助けたと思うて」と忠兵衛自ら語り、「六道の冥途の飛脚」とはもちろん畜生道も含んでいる。ちなみに八右衛門も「人間にもならうかと」(封印切)と語っている。その犬に石礫を喰らわせたのは、まさしく天に唾するも同じこと。泥は我が身に跳ね返る。最期は犬畜生以下の獄門首なのである。そんなどうしようもない男忠兵衛に梅川が惚れるのは何故か。それは、まさにその羽織を落とす、つまりは形式を脱ぎ捨て、人間という社会的動物の仮面も脱ぎ捨てて、生身をさらけ出すところにある。梅川は言う、田舎客の「理屈をつめてねだれ言」は結局見世女郎という社会的身分に梅川を収斂してしまうものである。「面が脱ぎたうござんす」とはまさにそこからの解放を願う叫びなのである。しかし、人間とは、この世に生を受けた瞬間に、自己他者関係、すなわち共同体=社会・世間の中に放り込まれる存在である。他者の他者としての自己という仮面をかぶった存在、その仮面を脱ぎ捨てるということは、とりもなおさず人間(じんかん)に誕生する以前の状態にもどることに他ならない。「道行相合かご」の狭い空間が文字通り生々しいのは、生の状態が辛うじて許された場所であるからでもあるのだ。それ故に、まさにその梅川が、小判を撒き散らした忠兵衛と邯鄲の夢枕を共にしたその時に、それとは逆に「一代の外聞」と語ったことの悲哀は、この上もないものとして観客の胸に迫ってくるのである。
 このように切場にまで思いが及ぶのは、清治の「淡路町」が至極上々吉であったがためである。こういうのを、切場を食ったと言うのであろう。「晴雨表」でも当然星印というところなのであるが、一段が立端場の奥という格であるので、晴印に止めておかざるをえない。とはいえ、今回のこの出来を劇評中において文字記録として書き留めておきたい。すばらしい浄瑠璃を聴くと、このように実に多くのことが頭の中をかけ巡り、それが次から次へと活字となっていくのである。こういうときの劇評は書いていても実に楽しいものである。短い方が楽だろうというのは、全く正反対なのである。
 なお、背景の引き道具、土蔵漆喰白壁から明かり障子の灯火へと移るのは実に印象的で、これだけでもう、忠兵衛が羽織をきっちりと着ていた出発点と、脱げ落ちた到達点とが、それぞれどのような場所であったかが一目瞭然であった。見事である。

「封印切」
 綱大夫清二郎。やはり近松物はこの両人に限る。近松物の名手先代綱大夫弥七の衣鉢を継ぐのは第一にこの人なのである。近松の浄瑠璃はいわゆる人形浄瑠璃最盛期のものとは異なっており、またその世話物のほとんどが新しく節付けされたものでもある。しかし、時代物とはいえ「甘輝館」をはじめ、今日まで伝承されている節付けからもわかるように、とりわけその地色を中心とする表現、音遣いに足取りの厳しさを体現するためには、正確な伝承とその深い理解、そしてそれを語り活かす芸格が必要とされるのである。芸力ではどうしても届かない芸格である。それは世話物においても、丸本に誠実に節付けを試みた諸作品ならば同様である。加えて、世話物の場合、近松心中物という一種のファッションのレベルでも消費されるものであるだけに、その真髄に到達することは意外に難しいのである。木を見て森を見ざる浄瑠璃如きではどうにもならない。現在でも録音によって聴くことができる先代綱大夫弥七の「河庄」「上田村」そして「甘輝館」等々、その究極の浄瑠璃こそが、近松物とはどういうものかを端的に示してくれているのである。至高の味わいと感動を伴って。
 さて、綱清二郎は、初日は前半が抜群であったが後半に勢いすぎて細密な表現に欠けるところがあった。23日はその後半が丁寧にたどられたが前半に散漫な印象を受けたのである。ただこれは当日の観客の質にも拠るので、三世相での禿の三味線にあれほどいちいち嘆声を挙げられては、人形が巧みに人間の真似をすることが文楽の主題と化してしまったようなものである。あれでは梅川をはじめとする傾城の真情にパラレルすることなど不可能だ。とはいえこれはその若手の人形遣いを責めているのではない。清二郎の三味線を研究してそっくりそのままを人形の動作にしてみせたことは評価できるのであるから。初日はここに得も言われぬ情感があふれていて、その唄の意味が聴く者に染み渡り、直前の梅川のクドキ「泣きしみづきて語るにぞ」がまた利いていたこともあって、客席はしみじみと近松浄瑠璃の世界に浸ったのである。八右衛門の男気もよく通った。この八右衛門が単なる悪役としては書かれていないということはよく言われることであるが、ではこの八右衛門が梅川から「あのさんには会ひともない」と嫌われているのはなぜであろうか。もちろん横恋慕はしていないし、忠兵衛とは友達でもある。それはしかし「淡路町」での分析でもうお解りのことと思う。八右衛門は「若い者の習ひ」でこそ廓の座敷にも上がるが、「傾城に誠なし」という世の人の典型なのである。さて、毎回課題であるのが忠兵衛の狂気の表現、決して剛直になってはならないのであって、「身も有頂天」という地に足の付かぬ、上の空の描き方が難しい。「忠兵衛は世を忍ぶ心の氷三百両、身も懐も冷ゆる夜に」であったものが、「上り詰めて」瞬間に沸騰してしまう、そして口から湯気と共にピーピーとまくし立てる、そして冷めてみれば空焚きの底に大穴、もはや鋳掛け屋ではどうすることもできぬ。大鍋がグラグラ煮え立つのではなく、薬缶オヤジの蓋が踊るのでもない、そこのところの描出である。梅川も、「小判の上にはらはらと、涙は井手の山吹に露置き添ふるごとくなり」という形容を表現するのは大抵ではない。美しくも可憐で、底に情愛のある悲哀に満ちたクドキは至難の業である。前者は先代綱、後者は越路にその理想型を聞き取ることができるであろうものである。なお、清二郎は例えば「ハア何事やら気遣ひな」「ハアとばかりに怖気立ち、身を縮むれば」の三味線の音に、不気味な不安定感を漂わせ、後の梅川忠兵衛の転落をも感じさせたし、「金銀降らす邯鄲の夢の間の栄耀なり」に忠兵衛のいわゆる狂気が表面的な華やかさに文字通り儚さをもって表現されたこともまたすばらしかった。と、色々と書いてきたが、やはり「封印切」をはじめ近松物は綱大夫でなければ叶わぬところがある。それは正徳享保期の竹本座浄瑠璃に共通している、清潔さ清廉さとでもいうものの表現においてである。詞と地とが分離して芝居がかってたっぷりとやれば堪能できるというのではないからだ。また、「くわ」音や風の伝承という点から見ても、正統派大夫としてその存在価値はいわば芸術院会員とでもいったところであろうか。その浄瑠璃を白湯汲み場において聴く者がいないというのは、この上ない不幸と言わざるを得ない。なお、例の件(当HP「情報資料室」「列伝・逸話」FILE2を参照)は途中で全一音下がる行き方であった。
 人形は、何と言っても玉男の忠兵衛である。世紀の源太かしら遣い、と言って過言ではない。「淡路町」「封印切」と述べてきた忠兵衛の性格造形についての考察も、玉男の忠兵衛なればこそ可能であったのだから。簑助の梅川も忠兵衛への愛と誠は言わずもがな、見世女郎としての庶民性もあり、その現代的センスはとりわけ女性の共感を呼んだに違いない。玉幸の八右衛門はあくまでも実に、大ぶりに遣って原作詞章の表現を崩すことがなかった。妙閑の紋豊代役は本役といって差し支えないし、儲け役下女まんの玉英も素朴でよかった。その他若手は、この人形浄瑠璃の場に同席できたことを貴重な経験としてもらいたい。

「道行相合かご」
 詞章も節付けも演出も、近松原作詞章を台無しにした駄作である。この梅川忠兵衛に雪を降らせるほど近松は愚かではない。横殴りの時雨に、群烏が鳴いてこその道行であるのだ。両者の科白も大甘で堪えられない。よって、初日こそ床の出来を確認し、夜の部の時間繋ぎにと客席に座っていたが、23日は見聞きせず帰宅。これが罷り通るのは、いわゆる癒しの時代というものであるからか(とはいえ、別に近松原作がすべてであると言っているのではない。改作の方が受け容れられるのならば、それはそれでよいのである。ところが、表看板が近松でなければ観客は寄って来ない。そこが問題だと言っているのだ。その点、今回は道行の改悪を隠すことなく、近松原作という角書を掲げなかった。この大阪国立制作担当者の姿勢は評価したい)。そんな見せかけのロマンに安らいでいる瞬間にも、世界征服戦争への挑発爆撃が落とされているというのに。―属国の民には幇間精神がよく似合ふ。―
 

第二部

『鬼一法眼三略巻』

「兵法」
 掛合。喜左衛門が捌く。23日には全体のまとまりも出た。清盛の津国は口あき文七という巨悪を描くには及ばず、人形文司はお行儀が良すぎたか。湛海の南都は儲かる役を真っ当に商売してしまう、人形の玉輝も同断のところあり。広盛の咲甫に瑕瑾はないが、それでも「無作法至極、と極めつくる」の詞からの変化等修業を積み重ねてもらいたい。人形勘緑はまずまず。貴の皆鶴は是非もなし。

「菊畑」
 本公演において初日、23日とも感嘆したもう一つがこの一段、咲富助の「菊畑」であった。しかも23日には一層磨き上げられていたのであるから、これはまさしく切語りと相三味線の床である。しかも浄瑠璃は二世義太夫播磨少掾の語り物、真西物。その、地味に聞こえるが、引き締まった浄瑠璃は、間と足取りと変化とを錬り込んで音遣いを以て征しなければならない。それが出来て初めて詞章にに込められた深遠な意味も浮かび上がってくるのだ。今回この咲富助の浄瑠璃を聴いていて、思い浮かんだことを以下に書き記してみることにする。まずマクラの三下り歌は、皆鶴の虎蔵への恋模様を表してもいようが、鬼一とその従者智恵内、虎蔵が、段切で天狗僧正坊、鬼三太、義経として身顕わしすることになる隠喩とも感じられた。これが二上り歌ではそう感じなかったであろう。マクラ一枚の重要さである。その歌が直って「今出川に名にし負ふ」からは、四君子の一である大輪の菊花が、高潔な鬼一と西風の清潔な節付けに響き合い、「白菊の目に立ててみる塵もなし」「黄菊白菊そのほかの名はなくもがな」の句も思い合わされて、実に清々しい凛とした情感を描出したのである。智恵内の奴詞に仲居女中の軽妙さ、そして鬼一の出と続き、その菊を愛でる詞「この花開いてのち、さらに花なしと思へば、取分け色香の身にぞしむ」には、自らの人生、運命をも淡々と受容する心持ちがある。娘皆鶴が六波羅へ呼ばれるに及んだ時から、こののちさらに生き長らえる命など持たぬという覚悟、というよりも行き着く先が現実のものとして目前に見えたことであろう。七百歳の齢云々とはもちろん誠の天狗となるという段切の伏線である。当然奉公人向けの日常会話になっているけれども。鬼一と智恵内との探り合いも面白く、その中で鬼一が父のことならびに源氏との関わりを話したのも、三歳で別れこの事情を知らぬ鬼三太に知らせるためのものである。我はまもなく世を去るのであるから。続く虎蔵すなわち義経の出は、智仁勇の若武者が、今は深く蔵して外面虚しきが如き有様も、内実ははちきれんばかりという人物像を活写。そしてついに鬼一が弟の詮議にまで及んだという事態にもかかわらず、のうのうと立ち帰った虎蔵への怒りの打擲はもっともである。「六波羅の玄関〜引掴まんと思ふ性根はなく」の詞に込められた意味は、この床ならば確かに感じ取れたはずである。以上、今回は実に収穫の多い床であったのだが、例えば、鬼一が病身であるということが、その咳きごもるという顕示的な方法以外に描出されれば(とはいえこれは鬼一かしらの厳しい性格表現を考え合わせると実に困難であるり、可能なのはやはり紋下格であろう)、ということ等、まだまだ期待すべき点も多々あることもまた事実ではある。
 後を英燕二郎だが、さすがにこの真西物の前には力不足の感を強くした。まず鬼一が上手へ去ってからは、義経・鬼三太という主従表向きの姿に戻れるわけで、その点からも詞章からも、厳しく強く畳み掛けるように、いわば前場の鬱憤が解消される行き方になるのであるが、今一つ小振りに終わってしまった。続いて皆鶴のクドキであるが、「嫌ひならこのやうに」以下、三味線は高い音を辿って姫の心情を表現するが、大夫はずっと低い音で語り続けるという、この西風のクドキが応えなかったのは、英の一の音二の音が十分開いていないからである。湛海の登場と横死の後、義経が颯爽と高らかに語る「ヤアヤア鬼三太」以下もいささか開放感に乏しかった。鬼一が僧正坊として身顕ししてからは、段切までもっと面白くてもよいところだ。浄瑠璃における後半の構造という点から見ても、カタルシスに至るべきところであるのだから。「世に頼りなき天狗が娘」のところも、鬼一が唯一父親の真情を吐露するところであり、観客の胸に涙の玉を一粒浮かび上がらせるはずなのであるが、残念ながら至らなかった。とはいえ、正格正攻法で真っ正面から語り弾いたのは、西風の浄瑠璃であることとも重なって、十分評価できるところである。なお、燕二郎の三味線では、前述の皆鶴のクドキや、鬼一の物語「御公達もちりぢりに」のあたりの表現は、音(とりわけ左手)によって情景が目に浮かんでくるなど、感心するところも十分聞き取られた。
  人形は、鬼一の文吾が前半の腹の探り合いは格別のこともなかったが、後半の心情吐露は、文吾からではの人間味あふれる遣い方で結構であった。ただやはり次代の座頭格としては、そこの克服が課題でもあるのだが。鬼三太の玉女は検非違使かしらでもあり、立役に至る前段階として肚のある遣い方は立派であった。兄の鬼一ならびに主の義経に対する苦悩の表現も十分であった。ただ、最初の奴詞のところなどは、もっと軽妙に、かしらも上向きに遣ってよいし、欲を言えばその鬼一と義経とでは神経の遣い方が異なるのであるから、そこのところも動きがあってもよかったと思う。しかしあくまでもサブキャラクターであるから、そこのわきまえぶりは感心するばかりであった。文雀が遣った義経は、源氏の貴公子として、また皆鶴に惚れられる若男として、その出から品格もありよかったのである。ただ、鬼三太に主人として振る舞う所など、より颯爽と形強くありたかった。湛海を切って捨て、鬼三太に血糊を拭い取らせる所など、源氏の若武者として格好よく極まればなあと感じられた(鬼三太が極まっているだけに惜しかったのである)。とはいえ、段切の「義理に引かるる牛若君、後を見捨てて出で給へば」と、泣かずに「われは出世」と御曹司の風格を見せたのは流石であった。清之助が皆鶴を遣うのはもう持ち役というものでもあるが、ともかくこの人の姫は品格もあり慎み深い情味も出る。ただ、湛海相手のところなど、よりキッパリと強さを出してよいのだし(鬼一の跡取り娘である)、虎蔵へのクドキはもう少し艶めかしくてもよかろう。これと決めた男には積極性と大胆さですべてを許すのがこのタイプの女性なのであるから。ここでの湛海玉輝も、もっとのさばってよいと思う。
 

『近頃河原達引』

「四条河原」
 歌舞伎の趣向を人形で見せる。ただそれだけである。ということであれば、玉也の官左衛門が藩の勘定方という嫌味な役を活写し、紋豊の伝兵衛も誠実な町人をひたむきに描き、松香も手練れでこの立端場一段の人形を見事に動かし、三味線の清友は夕暮れの冬の河原で起こった一部始終を素朴かつ丁寧に描いて行き、下座の細棹に唄は呂勢の高音が映り、これは出来たと言ってよいのだ。しかしそれだけである。将軍家云々、亀山藩がどうの、飛鳥川の茶入れがこうの、逆に筋が混乱するだけである。もとより切場にとっては蛇足。したがって、三業の皆さまにはご苦労様と申し上げるのである。仕事人としてこの一段を誠実に仕上げたことに対して。

「堀川猿廻し」
 住大夫錦糸しかあるまい。弾出しからマクラ、三味線の稽古屋風景(ツレ清馗)、ああ、こうなくては叶わぬ。これはあの四世清六が弾いている古靱の名盤「堀川」を超えたのではないか。与次郎の誠実愚直、それ故の臆病滑稽味、母の哀切子を思う親心、お俊の女としての愛と母と兄への思い、そして夜が更けて、ここで突然の交替である。何としても一段丸々このままで聴きたかった。とにかく初日はもうもう堀川の侘住居に展開される人間模様に居合わせた自分を発見したという、希有な体験が出来たのである(もっとも、23日には例の住大夫錦糸に戻っていた。無論それでも至高の一品であることには違いない)。
  後の千歳清介も、初日の猿廻しが絶品で、義太夫浄瑠璃「堀川」の猿廻しとして、底に哀感という通奏低音が流れる、それはそれは滋味深く、かつ与次郎のいい意味の若さが描出されていての、絶品であった。また、清介とツレの清志郎とのイキもぴったりで、技巧に溺れることなく、しかも鮮やかに弾いたものだから、「アヽよい女房ぢやに」でホロリと涙をこぼしたのは、これも劇場の椅子に座ってはかつてない経験であった(こちらも23日には、千歳は例の語りとなって、いわゆる「猿廻し」となり、清介も様々に替え手の技巧を見せ、おかげで清志郎と合わない箇所もあったが、これはまだまだ発展途上の三業としては勢いそうならざるをえないし、いい意味の遊び心でもあるのだろう)。ただ、そこに至るまでの千歳はやはり詞が明瞭すぎて芝居に傾き(これを新写実と呼ぶべきかどうか)強すぎるし、地合も耳に立ち過ぎるところがある。それに「そりや聞こえませぬ伝兵衛さん」をあんなにブチブチ切って息継ぎして(いるのがわかる)語ったのはよろしくない。綱大夫は8ミリ、越路大夫は16ミリと、それぞれ師匠の古靱太夫に比して言われたが、それはまさしく学ぶことが「真似ぶ」ことから始まることを体現したのであり(呂勢も故呂大夫の語る姿勢までそっくりになっていた。今になってもつくづく惜しみても余りある呂大夫の夭折である)、その基本習得の上に、それぞれの個性の花を咲かせ、見事な結実を見たのである。ここのところの千歳にはそれがない。いやむしろ住大夫の行き方を踏襲しているようにも聞こえる。それならそれでかまわないのだが、越路大夫から「真似ぶ」ならこの人だろうと思っていたものだから。が、稽古は師匠と真っ正面に向かい合って付けてもらうものであり、切場の住大夫に鍛えてもらっている証拠なのだろう。それならまさしく学んでいる千歳なのである。
 人形はやはり簑太郎の与次郎に尽きる。軽薄に落ちずチャリめかず、正直者で母妹思いの誠実無比の人柄を温かく描き出した。もちろん猿廻しをはじめ、その遣い方はよく神経が行き届いている。例えば前半部で母の悔やみ言に対して、「哀れにもまたいぢらしヽ」で眉毛を下げて見せ、それだけで、ああまた例の愚痴、そう気を病んでは直る病も治るまい。もっともそれが母者人のいじらしいところだが。という思いが読み取れ、そして眉毛を戻すと、ここは一つ力を付けずばなるまいかい、と、あの羊羹饅頭生魚の軽口に至るのである。また日々工夫していることは、その後の母が娘に諭しているところで、与次郎は夕飯に取り掛かるのであるが、初日は、お櫃の蓋を開けてみて空と見るや、こういうこともあろうかと昼の握り飯二つのうち一つを食わずに取ってあるのを、浚えて飯椀に盛るという感じであったが、23日は、蓋を開けて食おうとするのだが、ここで首を傾けて考え、いやいやこれは朝飯にでも置いておき、昼飯で我慢して残しておいたのを食えばよいと浚えにかかる、と解釈できるような遣い方であった。蚤を捕るのも、伝兵衛を怖がって箒で渡すところ等々、23日はより動きが派手になっていたが、初日できっちりとした遣い方を見せたのだし、その動きで浄瑠璃を妨げるという愚劣な行為には陥っていないのだから、千秋楽間近の解放感と観客へのサービスだろうとしておく。さて、母親の玉英は映ると言う方がおかしいので、無難である。娘お俊の和生は師匠譲りのわきまえある遣い方で、しみじみとした情感の醸成に寄与したと思う。

 以上、本公演は、とりわけ初日において、ミドリ建て狂言をそれぞれが特色を出して語り弾き遣ったので、実に充実した舞台であった。それはまた観客との相互作用の結果でもあるようで、通常は公演後半の方が入りもよく、好事家も客席に多いのであるが、今回は初日の魅力とでもいったようなものを享受できたことは望外の幸せであった。なお、これには劇場友の会や担当者の、心温まる配慮があったということに対し、感謝の言葉を申し述べておきたい。