平成十三年十一月公演  

『本朝廿四孝』

第一部

「諏訪明神百度石」
 今回は「通し狂言」という名目なのだが、それが三重で始まるというのだからたまらない。そもそも三重は場面転換や道具返しがあるときに用いる旋律形だから、どうやらこれは発想転換とか常識返しとかいう洒落のつもりなのだろう。「山田君、座布団全部持って行って!」。しかも掛合というのだから、人形浄瑠璃の現状と将来を憂えてお百度をも踏む健気な人々の思いを一刀両断にするというものだ。とはいえ、若手陣が元気一杯、よく頑張ったから、結果オーライではあったのだが。マクラは咲甫が勤める。よく稽古している。声質ゆえにこねくり回す癖があったのだが、随分と改善されてきた。今後とも三味線との付き離れを中心にして芸道に励んでもらいたい。板垣兵部の始は、公演後半実に際立って聞こえたのは、これも稽古の賜物だろう。濡衣の呂勢は語り口からいってもそのまま十分だが、例えば雛鳥などをどう語るか聞いてみたいものである。横蔵の松香は今回のいわばシンに当たるのだが、流石に年功なり、どっしりとしたものである。ただし、濡衣の跡見送って「余所はない命でさへ神の納受で生きるのに」の詞から「生きることはさておき胴取りやくさる」以下の自分に返る詞への変化が面白くないなど、立端場の奥を安心して任せられるかとなると残念なところだ。景勝の新は大名の嫡男風だと心得て語るが、「が」音が耳障りで(これは若手太夫の多くにある問題。日常会話に師匠との稽古が引きずられるというのは情けないことである。いい耳なきところにいい浄瑠璃なし。)一本調子なのはまず改善すべき点である。道三は三輪だが、この掛合だけというのは酷い。しかも今回の建て方では道三の価値は、「山科」が出ず「刃傷場」丸坊主の本蔵のようなものだから尚更である。いくら地色に不安があり詞にまだ見所がある太夫とはいえ。どこかでこの冷遇を跳ね返すべく奮闘努力してもらいたいものである。相子、つばさ、睦の三人衆は今後がますます楽しみである。それぞれの声質語り口には個性の双葉が芽生えていて、まずはそれを本葉にするべく稽古に稽古を重ねてもらいたい。これをまとめるのが三味線の喜左衛門で、丁寧に指導する弾き方は、三代目の存在証明、為すべき仕事をきちんとするということでもある。人形はここで気になった三点を。まず横蔵が百度参りの濡衣を追い回すところ、濡衣はきちんと会話に応じているのに、横蔵は俯いてただ単に廻るばかり。景勝は文七首で若者の表現を要求されるので難しい。道三は確かに大舅首の格であるのだが、初段も四段目跡もない今回の建て方では、安易にこの大舅首を晒し者にすることになって不届きであろう。

「桔梗原」
 口を貴弥三郎で勤めるのだが、この両者はもう古参とも言うべき存在になってしまった。越路、津や弥七ら名人の芸に直に接していたという体験は決してないがしろにはされないし、さすがに浄瑠璃というものとは何かを体がわかっているというのは、若手が逆立ちしても及ばない強みである。三段目のマクラたる心得、二人の女房が登場し下部を分けるカワリ、等その現れであろう。なお、ヲクリ直前に入江側の下部(人形)が主人をとどめる動作をしたのはいただけない。「残す詞も針の先、真綿に包む唐織が立寄るところを、とどむる下部」という詞章を表面的に読んでいるからこういうことになる。入江側は主人も下部も尖って冷笑していればいいのである。
 奥は伊達寛冶で立端場の雄、さすがに滋味風合がある。やはり越名弾正が面白く、入江の描写もよし。一方高坂弾正と唐織にはきちんと品格がある。冒頭慈悲蔵の愁いは三味線の功が大である。とはいえ、もっと面白く、語り映えのする一段であろうという思いが残ったこともまた事実である。人形は、やはり儲け役の越名弾正が玉輝文司のダブルキャストで見応えあり、とりわけ文司にはその出から幕切れまで感心させられた。丸目金時首の性根を掴み、実に大きく遣っていたのだ。入江は玉英もざっくりとした面白みがあったのだが、勘弥の行き届いた神経と解釈に軍配を揚げたい(もちろん事細かに遣えばよいというものではない)。高坂弾正は簑太郎も申し分はないが、玉女が中堅クラスで孔明首がよく映るのが素晴らしく、さすがは師匠なり弟子なりである。唐織の和生にも同質の思いを抱いた。

「景勝下駄」
  染太夫風である。咲富助の床で初めて聞いてそう思い、調べてみるとそうだった。知識が先にあったのではない。眼前の床に三百年の芸の伝承が再現されていたのである。それは「山の段」を何度か聞いたことがある人なら、背山の床との共通点に気付いたであろうということでもある。そしてその染太夫風、武張った語り口や産み字で特徴的なアゴの遣い方に鋭く厳しい三味線等々が、まさにこの一段にぴったりと映るのである。「秋の末より信濃路は野山も家も降り埋む」のマクラ、「女ながらもゆゑあつて男のすなる名を名乗る」勘助母の気概、「万卒は求め易く将は得難しとこの隠家の弓取を慕ひてひとり門の口」に佇む景勝の心意気、「このぐらいの難題に困るやうな器量では智者と呼ばれて人に知らるゝ弓取にはなられぬぞよ」以下の詞の厳寒さ、「詞詰め威風鋭き北国武士」として切場へのヲクリ。これが染太夫風なくしてどう語り活かせようか。その染太夫風の語り口を喩えて言えば白柄の大長刀というところであろう。もちろん振り回すというのではない。それはまた師政太夫が勤めた「千本桜二段目」知盛のそれを象徴として受け継ぐものでもあるのだから。伝統の継承が盲従でも墨守などでもないこともまたここにおわかりいただけたであろう。とはいえ、一本調子に張っているばかりが染太夫風ではない。前述「降り埋む」の骨太から「雪の中なる白髪の雪」と老いた母への描写への変化、「山道をゆがまぬ武士の梓弓」と直江山城の面影を聞かせておいて、それを「胸の袋に押包み孝を外さぬ慈悲蔵が」と世話風に変わるところ、「子を思う心は一つ」から「ひと間の内そつと窺ひ」以下への足取りの妙、等々浄瑠璃の面白み魅力を味わわせてくれる一段なのである。以上、すべては咲富助の床を聴いて触発されたものである。それだけでもう今回の床の成否は自ずから明らかであろう。咲富助が勤めた今回の「景勝下駄」、この成果の大きな意味を噛みしめるとき、本公演随一の出来と賞賛することもまた諒とされるに違いない。人形は後述するが、一暢の景勝がその白柄の大長刀をなるほどと思わせる遣いぶりで存在感があった。文七首とて重々しくならず若々しさを失わなかったのは特記に値する。

「勘助住家」
  筍の段の三難「解らぬ」「六ヶ敷い」「前に受けぬ」とは『素人講釈』にも述べられていることであるが、名人が語ればこれほど面白い浄瑠璃もなかろうというのもまた事実である。実際、マクラから段切りまでの構成・節付けを見ればおわかりいただけるはず。まず世話風に軽々と進み、唐織の出からは「匂ふ留木の高坂が」のハルフシが三味線の音より高く出る東風で足取り等に変化があり、慈悲蔵お種との三者三様(母親の鋭い差し込み詞も)の駆け引きで聞かせ、「コレナウ峰松一世の別れ」からは抒情溢れる節付けに乗って琴線に響かせ、慈悲蔵の苦衷の詞に再び抒情的な地、そしてお種の切迫した詞と急速調の展開のうちに、最後はノリ間で盆が廻るのである。後半はマクラに続いてのノリ間から、兄弟の争いはメリヤスを通奏にし、母親の登場に新展開となるが、横蔵とのやり取りでは世話のくだけた雰囲気も加味される。そして投げ手裏剣から身現しとなって、山本勘助・直江山城両雄の詞となり、時代物三段目切場のお楽しみ、大時代でのノリ間の勘助物語とともに段切りまで進むのである。
 さて、前半の住大夫錦糸だが、さすがに見事。峰松を捨てたと聞いた横蔵が「エヽ捨てゝしまふたか」と思わず本性を現すところや、その峰松を唐織が抱いて夫婦に語る詞の迫り方は、お種ならずとも「わつと泣き出す」もので、「忠六」は郷右衛門の詞を思い起こさせた。住大夫は確か今年喜寿のはず。それでこの大曲至難の「筍の段」前場を語り切る(しかも東京国立から続いて)とは、もはや賞賛の域を超越した偉業であろう。もちろん、慈悲蔵の「詞鋭どに言ひ放す」、同じく「兄貴への義が立つまいぞよ」から「オヽ何かに紛れて」への変化、二ヶ所のノリ地の抒情味、お種必死の「八寒地獄」に「義理も情けももうこれまで」からの鬼の形相、等々、これらが今一つ突っ込みに欠けるとするのは、枯淡の渋みを知らぬというものだろう。『猿蓑』の充実のみを論じて『炭俵』の軽みを解せぬようでは、蕉翁も苦笑せらるるに相違ない。錦糸の三味線はこの住大夫の女房役として唯一無二。前述の諸処でここぞとばかり弾き倒すことなく、浄瑠璃を弾き活かすのである。
 後半は清治で、やはりこのコンビ以外考えられまい。その思いに違わず、破綻無く段切りまで進む。「一つの眼に雨が下見下ろす富士の山本勘助、三国無双の弓取なり」これが手摺共々極まって、丸に二引両(源氏嫡流笹竜胆が絶えて以後はこれこそが武家における至上の紋である)の白籏が辺りを払うが如くであれば、それこそ四半世紀や半世紀に一度の体験となるのだが、今回それは無理というもの。何せ素通り狂言でもあるし、「Show the FROG !?」ゲコゲコと須股運平よろしく番場忠太の手先として逼うて出るような御時世でもあるし、その責は床にあらず。相応にちゃんと時代物三段目切場後半を勤め果したのだから、結構かと思う。
 では、人形について総説しておこう。まず慈悲蔵の文吾がすばらしい。よく映っている。持ち役と言ってもよいほどだ。「優美の骨柄長裃爽やかに立出でて」と直江山城として身現して以降も詞章通り彷彿とさせるものがあった。ただし、ネムリ目は使い過ぎ。どうやら峰松に関わる詞章になると忠実にそうしているのがこの人らしいが、それでは解釈が甘過ぎよう。例えば、唐織が抱いて登場し、女房が「飛び立つばかりの胸押鎮め」の所、さては武田家に拾われてかと慈悲蔵も意外の展開に驚いて顔を下手へ背けるべきなのだ。ここをネムリ目にすると、この事態を予測していたようになり、「桔梗原」で国境にわざと置いてどう拾われるか試したかの如くになってしまう。以下、何ヶ所かあるのだが詳述しない。次にお種であるが、例の抒情味とひたむきな母性愛の発露と、老け女形首の性根がよく映り、申し分なし。玉松はこの「廿四孝三段目」の母という大役をよく勤めた。さすがに年功である。自身にとっても忘れることのない思い出の一つとなったことであろう。唐織の和生は品格あり厳しさも忘れずの上出来。そして玉幸の横蔵、前の世話場はなかなかよく映り、いわゆる総領の甚六的わがまま勝手も十分に遣っていた。後の山本勘助と名乗ってからも大きく遣おうとの配慮は見えたように思う。しかし、例えば、「膝口はつしと手裏剣に」はいいとして「尻居にどつさり詮方なく」が演じられず、ただ左足負傷というのみだったし、「父が苗字を受け継ぎ山本勘助晴義」とカゲ打ちで極まる型が縮んで見えたし、「三国無双の弓取なり」も座頭首文七のいわゆる破天荒な周囲を圧倒する迫力には至らなかったのである。(それよりも驚いたのは、パンフレットに掲載されている写真の方で、これは東京国立で玉女が代役を勤めた時のものに違いないのだが、その素晴らしいこと。その瞬間をとらえた写真家の腕前もたいしたものだが、それにしてもこの13・14ページにある三枚の写真は、これはもう実に立派な堂々たる座頭格の遣い方極まり型と言って過言はなかろう。このままフォトスタンドに入れて机上や壁に飾っておきたいほどの出来である。)最後に、全く以てこの「筍の段」の舞台美・色彩美には息を呑むばかりである。そしてその至上の白黒美はまず慈悲蔵の朱によって彩られ、次いで勘助の金によって光り輝くようになっているのである。
 とはいえ、私はといえば十分に満足のいく「勘助住家」であった。冒頭に述べた構成と節付けが頭に入っているので、そこにアンプリファイをかけて視聴すればそれで何の問題もなかったのである。極言すれば、もはや浄瑠璃の詞章を読むだけでその感動が味わえるものなのだ。リアリティーの希薄なところにバーチャルが有効なのは現代日本の状況そのままであろうか。
 

第二部

「武田信玄館」
 御簾内でソナエから始まると、ここからスタートだともっともらしく思われるが、語り出される詞章を聞けば、たちどころにそのたくらみは露見する。「死は武士の常ぞとは常の詞と思ひ子に、今ぞかかれる甲斐の国」、初段で信玄の意地があり、百度石で濡衣の切実があってこそ、このマクラは重い意味を持って迫ってくるのである。そして奴二人の軽妙なやりとりへと足取りが変化するのだ。同じように見えても「忠臣蔵二段目」冒頭とはまるで異なる。これもまた素通り狂言にねじれ仕立ての為せる業と思うと、まさに已んぬる哉である。さて始清志郎も咲甫喜一朗も問題ない。本来ならその下のクラスの出番なのだが、これも軽薄短小志向の狂言立て故に持ち場がないのである。角助の人形(玉佳)がなかなか行き届いていたが、誉めるとこれを誤解してやたら目立とうとする若手が出てくるかも知れないのでやめておく。

「村上義清上使」
 ここも英(宗助)が勤めるような一段ではないのだが、切場綱大夫(清二郎)の顔を立てる意味もあってのことだろう。全体を通して二段目の足取りが出来ていて、常盤井と濡衣とのやり取りも丁寧に、そして村上義清の無慈悲無遠慮高圧的で嫌味な描写(与勘平首で『菅原』三善清貫の格だ)も十分で、言うことのない端場であった。なお、朝顔に象徴される季節感を大切に感じ取ることが観客には要求されよう。

「勝頼切腹」
 段書きをすると、そして切場は最初の半時間が大切という芸談にあてはめると、切腹までがこの一段の中心のように思われるが、そうではない。この「二段目信玄館の切」は後半にこそその真骨頂があると言っていいだろう。もちろんマクラから盲勝頼濡衣の衷心、常盤井の心の闇とそれ故の愛ある裁き方、盲勝頼の衷情と健気な若男ぶり(清之助)、と大切に語ることは当然だが、この纏綿たる情緒を文字通り「ぱつしり立切る生死(障子との掛詞であることを注意)の境」として後半に至ってからが、この切場のヤマなのである。虎王首板垣兵部の悪人ぶりも面白く、モドリの述懐も真実味があってよかった(玉也)が、やはり孔明首信玄の大きく颯爽とした物語が結構(玉女)で、段切りの簑作=勝頼との駆け引きも絶妙な面白みがあり、人形浄瑠璃段切りの真髄を満喫させてもらった。それ以上に素晴らしかったのがその簑作=勝頼(玉男)で、簑作と真の勝頼の語り(遣い)分け(今回、玉男も文雀も四段目切場よりこの二段目切場の方の出来を取りたい。それは三業の総合成果としても言えることだ。とはいえ、人形浄瑠璃の初心者はやはり作品自体の出来によって、当然「十種香」の方がよく見えよく聞こえただろう。某紙感想文士もまさにその通り絶賛していた)、盲勝頼切腹の始終を聞き、飄々と立ち出でようとして兵部と争う一連の場面は、床といい手摺といい、ぞくぞくするほど面白いものであった。濡衣も気働きのする腰元として、かつ盲勝頼と情を通じ合った娘として、納得のいく出来(文雀)であった。常盤井は対濡衣、対上使、対愛息、対兵部、そして対夫と対簑作=勝頼それぞれに心の動きが感じられ、仕草の変化にも神経が行き届いて(簑太郎)いた。村上義清はこの陣容の充実した舞台の雰囲気によく叶っていた。いい体験いい勉強になったことだと思う。床の綱大夫は前述の通りやはり男性首の表現がすばらしく、三味線の清二郎は例えば「ヤアヤア濡衣言ひ付け置きしもの早々持て、ハヽア、(チン)」の、そのチン一撥の愁いで、信玄公の命とはいえ悲しみとともに登場するであろう濡衣を、次の詞章も人形も待たずに脳裏に描くことを可能にしたのである。しかし何と言っても今回の床は段切りがとりわけ素晴らしく、「白洲へ降りて蓑と笠、世に降る雨は凌げども、わが身にかゝる横しぶき」の詞章抜群、また信玄の投げる鉄丸を簑作=勝頼が笠で受け止める所以降は、玉男玉女の息の合ったやり取りに、文雀簑太郎(玉也)が加わる舞台のすばらしさもあって、浄瑠璃を十二分に堪能したのであった。ここは朝顔の花に絡めて見事な花尽くしの詞章になっているのだが、段切りの旋律とともに、陶酔の境地に至ることを可能にしたのである。なおこの詞章は、三段目「桔梗原」へそのまま繋がり、そして「景勝下駄」のマクラ「秋の末より信濃路は野山も雪も降り埋む」から「勘助住家」のマクラ「木曽山木立荒くれて」へと、厳しい白黒の世界に移っていくのである。この、作者半二の工夫・手柄は、残念ながら今回の素通り狂言とねじれ仕立てのためにずたずたにされてしまった。実はもう一ヶ所、この二段目には無惨に切断された詞章の辻褄が存在する。それは「百度石」で道三が語る「雨宿りする雨が下、人目を凌ぐ雨具をくれんと、着たる菅簑脱ぎ取って」と、先刻述べたばかりの「白洲へ降りて蓑と笠、世に降る雨は凌げども、わが身にかゝる横しぶき」とである。いわば二段目を貫く心棒とでも言うべきこの背骨を解体してしまったのであるから、どう拵えてみても、通し狂言とは称せないであろう。少なくとも私は、そのような厚顔無恥の振る舞いは致しかねるものなのである。

「道行似合女夫丸」
  二段目四段目という似通ったものを接合するに、「道行」を以てす。無用のことなり。しかも二段目段切りの花尽くしがそのままずるずると花作りの簑作へ。節付も二上り唄はあれども、十三七つを聞き慣れた耳へは立たず。手摺も何事かある。初段と四段目跡場を建てて、この道行を捨つるに如かず。床、津駒は来春早々の「楼門」ですべてが決まる。津国は柔を体得する機会として、南都以下は発声練習としての役には立ったろうけれど。三味線シン団七、二枚目清友以下、如何にしてももったいない限りであった。

「景勝上使」
  文字久と清太郎。若手から中堅への中でも期待がかかるが故にこの一段を任された。結果は、公演前半の状態では暗澹たるものがあったが、後半には稽古努力工夫の甲斐あってよくなった。重たいだけの前半戦だったのが、後半戦には厳しさが出たのである。この両者は似ているようでまるで違う。男ばかり登場するこの一段の陥弊は、まさしくその前者にあるのだから。あと、文字久はやはり「が」音が耳障りなことと、景勝に颯爽とした若々しさが不足していること(人形の一暢は心あり)、関兵衛が映らないのは仕方ないとして、簑作の表現に腑抜けた調子外れの気味が聞かれた(若男首を描出しようとして逆効果)、等々を今後の課題としてもらいたい。三味線の清太郎にはむしろリードする力量が感じられた。

「鉄砲渡し」
 呂勢と喜一朗・清志郎。場割りの格では前場の下だが、実力はそうでもない。とりわけ大夫などは声柄と語り場との相性によるだけのことだろう。これも前場同様で、後半戦なら納得できるというものだった(前半戦の三味線は不可なし)。駒太夫風に仕立ててあるのだが、これについてはHP「情報資料室」をご覧いただくとして、この駒太夫風モドキは地の部分と詞の部分のバランスがいかにも悪い。本物の駒太夫風を是非とも「林住家」でお聞き願いたい。前年の綱大夫清二郎でも十分だし、もし可能ならば、越路大夫喜左衛門が至高である(究極は古靱太夫清六なのであるが、残念にも録音として残されてはいないはず)。そこを何とか工夫して勤めるのだが、ともあれ、地のギンへの落とし方、足取り、そして詞での謙信関兵衛の探り合い、等々、きちんと仕事は出来ていたので構わないと思う。

「十種香」
 切場は嶋清介。ここも端場と同じく、前半戦の様子では声柄なり音調なりだけで、調子が低く、華麗さに欠け、透明度も不足している等々、皆目だったが、後半戦では金襖物の代表「廿四孝四段目の切」としてまずは腑に落ちるものとなっていた。この「十種香」はさすがにいい節付けがされているから、数回も聞けば、自然に浄瑠璃が口をついて出るようになり、口三味線も可能になるのである。故に他の浄瑠璃のチャリ場などでパロディーとして用いられることも間々あり、「井戸替」などはその代表であろう。私自身も御多分に漏れず、越路大夫喜左衛門の奏演を繰り返し聴くうちに、この一段が身に染みついてしまった。
 ところで、その感心しない前半戦を聞きに行ったとき、客席から「今日はこれを聞きにきたんですよ」という声が掛かり、「大当たり」の声とともに幕が引かれたのだが、この日の観客の質(音訓両方の読みで)の悪さには心底参ってしまった。先の掛声は通常の「嶋大夫」「待ってました」などとは異なり、そういう言い方があると知っていなければ出来ない代物である。これは実は『山城少掾聞書』にあるもの(しかしこの客はその原典ではなく、入門書紹介書の類に転載された記事で知ったのであろう。もし原典で読んでいたならば、そのような掛声が出来るはずもなく、かえってその類の掛声が発せられた直後に客席に向かって、「ハイ、皆さま、大層お邪魔さまでございました」とでも叫ぶに違いなかろうから)で、長くなるがそのまま引用しておく(原文は旧字)。そうすることでいかにこの時の掛声が似て非なるものであるかがおわかりいただけるであろうから。
 「この時(引用注:大正十四年一月、初役で勤めた時)の「道明寺」で憶ひ出すのは、この興行中のある日、例のざこばの聞天狗のお年寄りふたりが見えてゐて、床が廻はると拍手を送られて−神さんを拝む時のやうな、ゆつくりした拍手をされるのが癖でしたが−古靱はん、けふはこれ聴きにきたんやで、語れるかどや判らんけど……といはれるんです。場席は床寄りの出孫の前から二番目か三番目にいつもきまつてまして、たいして大きい声ぢやないんですが、場内の皆さんに聞えます。私もさういはれたのに発奮して、その日は一生懸命にやりましたが、どうやら試験がとほつたかして、段切で手を叩いて貰ひました。」
 もちろんその時に私が手を叩かず、首を横に振っていたのは言うまでもない。が、他のお客さんは、威圧的な掛声と圧倒的な拍手の嵐の中、ああ今日は素晴らしい浄瑠璃を聞けたんだな、と思ったことであろう。(そう言えば、巷ではキャッチセールスで催眠商法とかいう集団操作が存在し、今以てその被害が跡を絶たないとか…)
 人形の方は人間国宝三人で言わずもがな。とりわけ簑助が往年を彷彿とさせる遣い方で、身体が自然に動いているのだろうと、その芸力に今更ながら驚き入ってしまった。なお、謙信を勘寿が遣っているのだが、重要な役どころだとはいえ、何ともやるせない思いにとらわれたのである。

「奥庭狐火」
 簑助こそ諏訪法性の御兜である。文楽の至宝。そしてそれを守護する若い弟子たち。感動的であった。床は千歳の悪いところが出た。喉を痛めているのは措くとして(しかしこれも発声の問題だとすれば、大夫の根幹に関わる事柄である)、強くまた高く語るときの汚らしさ。八重垣姫のおぼこさに対する意識がべっちゃりとした表現に陥ってしまっている。そして狐詞も耳立ち過ぎてバランスを欠く。後半戦ではさすがにどれも改善されてはいたが。三味線のシンは燕二郎。繊細な技巧はさすがである。ツレの清太郎も安心だが、このコンビで重層感ある面白みはどうだったかと尋ねられれば、それはまた別の問題だと答えるだろう。琴は無難だが、思わず床を振り返るようなことはなかった。例えば、三味線より低い音を奏でるところなどにその腕前が如実に現れるものなのである。とはいえ、過去に琴の名手と呼ばれる三味線弾きが、それ以上の評価を勝ち得たかということを考え合わせると、別に悲しむには及ばないことなのであるが。

 たまたまビデオテープの整理をしていて、「人間国宝ふたり」をあらためて見た。呂大夫の劇場お別れの場面と、引退した越路大夫が住錦糸に稽古を付けるその語りとが、最も心に残っている。そして、それと対極に位置する、最後の嬌声と握手と着物姿も…。