「敦盛出陣」
口は呂勢清志朗、役割を果たす。ともかく序切の端場である、詮索無用。玉織姫の性根が描出できればよい。
中を三輪宗助、三輪は声の出ない日があったが、それでも一通り聴けたのは浄瑠璃の骨格ができているから。それをまた三味線がよく助けた。ここは敦盛が法皇御落胤であることを周知すればよい。
切が嶋富助。前回は南部団六の持ち場。嶋は清介と中を勤めていたから長足の進歩である。まず見台が朱塗りに笹と矢筈を散らしたもので用意有り。肝心の浄瑠璃も破綻無し。通し狂言の成否は序切で決まると言われる(早稲田内山教授もそう書いておられたはず)が、最近でも『菅原』での綱清二郎、『千本桜』での伊達清治と見事にそれを証明した。今回の嶋富助もそこに加えてよかろう。藤の方の、夫経盛と実子敦盛への情愛吐露、敦盛の若武者振り、玉織姫の純情一途、そして三人の女房女武者の手働きとそれぞれの話を織り上げそして一幅の物語に織り合わせていたゆえに。とりわけ敦盛の颯爽たる馬上姿に長刀片手に轡を取る玉織姫の可憐な姿こそ至上の出来であった。二段目の忠度菊の前とともに好一対。これなれば「組打」での手負いの玉織姫が冗長に感じられるはずもあるまい。そう、藤の方も敦盛へのこの愛情が描かれていればこそ、「陣屋」での存在感もまた格段に異なるものになるのであった。これではいくら床が住さんでも「陣屋」単独ではかなうわけもない。これほど大切でもあり面白くもあり印象的でもある序切成功の功労者にはまた当然人形陣を挙げなければならない。一暢の敦盛と和生の玉織姫描くところの至純かつ爽快な図は、若さというものが持つ極上の部分を見事に取りだして見せてくれた。対するに紋寿の藤の方は母親まさしく子の親としての溢れる愛を表現できたし、玉松の経盛もさすがに格式行儀を見せたのは年功なり手腕なり。代役玉也など寄せ付けずの感もあった。三人の女房は息がよく合いなるほどと思わせた。雲上人の女房しかも夫は名立たる平家の侍の女房とはかくあらんと納得したのである。今回の序切こそ佳品という名が然るべき出来であった。
今回『一谷』の初段を見てあらためて通し狂言としての完成度の高さを思わされた。もう「陣屋」の安易な切り売りは止した方がよかろう。大阪は文楽の本場だからミドリ建て云々は言い訳にもならない。第一「宝引」でも客席が笑うきっかけを作ったのは大阪のおばちゃんではなく女子大生の二人連れだったではないか。それに今の陣容で単品料理を差し出せるとお思いか?今こそまさにフルコースの時ではないか!浄瑠璃作者の手腕を馬鹿にしてはならない。
(もちろん今日まで上演できなかった理由はよく承知してるつもりである。大震災とあの少年犯罪とを鑑みられた結果であろう。その心遣いには敬服こそすれ何ら批判しているものではないということを念のため申し添えておく。)
「陣門」
前回は相生浅造、今回は掛合。なるほど、つくづく思い返しても相生大夫を失ったことは実に大きな痛手であったのだ。もちろん人数を捌く必要があったからであろうことはよくわかる。できれば松香一人に語らせて故相生の役場を継ぐ者としての芽を育てて欲しかった気もする。ともかくシンである以上はマクラを描写し小次郎を活写する義務があるのだが、その責は果たしたと見てよい。とくに小次郎については人形が登場する以前にその気負い気の張りを語れていた。ただ笛に聴き入るあたりの抒情味にはやや欠けたが。津国はこの掛合の平山が語れなければどうしようもないという程の役場。無論大丈夫だが、独り笑みでノル所は硬すぎる。文字栄の熊谷は確かに小次郎へ一直線とは聞こえた。咲甫はこれだけでは如何とも言い難いが、いつもの語り口。それらを八介がひとまとめにする。最近こういう役場も多いが、三味線が一段の浄瑠璃を掴んでいないとなかなかこうもいかない。よく弾いていると思う。ただこれも笛の抒情味については同断(床の関係か)。人形は玉也の平山が客席の失笑を買っていたが、それはとりもなおさず平山の性根が描けている証拠である。故師玉昇の動きが垣間見られもする玉也は貴重な遣い手でもある。
この「陣門」は面白く為所もある。ここから「組打」を経て「陣屋」へと変則的に上演することもなるほど一理ありである。背景も一面の乱杭逆茂木に夜明け前のほの暗さ、この変化もまた通し狂言の楽しみである。
「須磨浦」
文字久団吾。ともかく全体として浄瑠璃として聞こえる。これは若手にとってはまずまず資格審査合格といったところ。しかし、まず鈍足。いくら次が住大夫とはいえ「組打」は二段目の立端場である。語りはやはり地から詞の変化無く、平山の詞中の音遣いもなっていない。一時は呂勢と番えられたりもしたがあれは呂勢急行の通過待ちだったか…。素材は悪くないだけに何とか変化の術を体得してもらいたいものである。
「組打」
7日は段切りが絶妙、22日はマクラが秀逸であった。段切りの情感は聴く者の胸に無限の涙を湛えさせたし、謡ガカリから「無官の太夫敦盛は」と高く透明に(住さんがこれほどに)語り出されてはもうそれだけで涙を催したのである。中心部の敦盛と熊谷との対話では熊谷に力点が置かれていたと聴いたがこれは至極当然のこと。ともかくもこの「組打」で「陣屋」の前半が全く喰われてしまったのも無理はない。人形は文吾の熊谷がもうもう父の情一杯で十二分の人間味。敦盛が名乗り互いに見合わせはっと背くところ、「倅小次郎直家と申す者」以下の衷心衷情、首を打った後の所作、等々である。これはまた遣う文吾の飾り気のない実直さがあらわれているところでもある。がそれが裏目に出たのが玉織姫に敦盛実は小次郎の首を見せるところで、なるほど目の見えないことを必ず確認しなければならないのではあるが、見せては引っ込めしては客席の失笑を買うのは当然である。ここは是非とも姫の目が見えぬことを確認する所作の工夫をお願いしたい。一暢の小次郎はあくまでも敦盛としての品格を保つ。それでも前述の対面して名乗るところ、「忘れがたきは父母の恩」以下の詞章では情愛が滲み出ていた。和生の玉織姫は序切で十分遣えているからその名残だけでよい。あと遠見の戦いはやはり人形ならではのもので、客席にも受けていた。
さて「組打」は状況といい場面といい、作者が魂を吹き込んだ一段であることは間違いない。そしてまたここが切場ではなく三段目でもないことも忘れてはならない。二段目の立端場である。例えば遠見の戦いを描く詞章、「蝶の羽返し諸鐙」「群居る千鳥村千鳥」、それに附された三味線の手。そして段切りもまた同様。ここはもちろん実の父が実の子の首を打つ場面である。いくら敦盛卿だと見せかけても、何ともやりきれない事実が厳然としてある。それを三段目の写実で演じて見せてしまったら…。(なお、ここで身代わりの筋を割ってはならないから写実ではいけない、などという次元の話ではない、念のため。)その三段目「陣屋」の前半あれはもう物語の世界となっていることを忘れてはならない。小次郎の死は敦盛の身代わりとして結晶化されているのである。ならばこの「組打」はどのように描かれるべきか。そう、夢幻世界の出来事として包み込まれるべきなのである。そのための蝶であり千鳥でもあるのだ。そしてまた、そのための檀特山であり悉陀太子である。(だからこれをパンフレットの解説の如く「重厚な段切り」などと書くのは的外れも甚だしい。少なくともこの書き手は「組打」の浄瑠璃一段をまともに聴いていないことは確実である。下座での千鳥の鳴き声や波の音に対する深慮無き扱いも同断。)遠見の趣向もそれを感じ取ったものと見ることもできよう。あまりに美しすぎるもの、あまりに純粋透明なものはかえって悲しみを感じさせる。また、あまりの悲しみは美しさという結晶の中以外には閉じこめられるものではないのである。これはモーツァルトの音楽にそのままあてはまるものではあるが…(そう感ずるとき、錦糸はもとより住大夫の浄瑠璃ともまた異なる行き方が見えてくる。文吾の熊谷もまた然り。無論今回のこの「組打」が三業いずれも現代の観客にとって最高のものであったことに間違いはない。柝頭での客席の拍手が何よりの証拠である。)その意味からもこの「組打」という浄瑠璃、その一つの理想的な形として、寡聞ながらSPでのつばめ仙糸を越えるものを私は知らないのである。SPレコード鑑賞会なかりせば、この部分の劇評は存在しなかったであろう。改めて当時の担当者に対し深く感謝の意と敬意とを表したいと思うのである。
「林住家」
端場の床を考えても、手摺の顔ぶれを見ても、今回のこの通し狂言の眼目がここ二段目大切「林住家」にあることは間違いない。そして制作側の思惑通り、この陣容が、おそらく最も不安であったろう切場の床をも巻き込んでの上々の仕上がりとなったのである。7日にはまだ不安定であったが、22日には大できと言ってもよいほどに達していたのである。
口は千歳喜一朗、時間にすればわずかなものだが、ここは重要な端場である。一つには忠度の性根をきちんと表現しておく必要があるし、この一段を成立せしめている駒太夫風浄瑠璃の枠組みをしっかりおさえておかなければならないからである。その重責を果たす者として千歳喜一朗は最適のコンビであった。「世のうきに」からのハルフシの処理、忠度が仔細を語る部分にとりわけ聞き取れる色ドメやフシ落ちにかかるところの特徴的な表現、ギンの音の伸びやかさに代表される高音域を核としてたゆたうが如き奏演等々、実に結構であった。武人であり歌人でもある忠度卿の品格、位もよく心得られていた。乳母林の表現がまだ若いなどとする物言いもあろうが、下手な声色を使うよりもそれと感じられれば十分である。駒太夫風の代表曲「林住家」は今回千歳喜一朗の床を得て、順調に滑り出すことができたのである。
中は呂大夫休演代役呂勢に清介の三味線。ヲクリを聞けばわかるように駒太夫風であるが、ここは口と切との間奏曲という格で、気分を転じてぐっとくだける。ここらあたりも浄瑠璃作者と節付けの手腕見るべしである。快速な足取りと間拍子の詰め方そしてノリも必要とされるが、これを仕損なうと被害は当然切場へ及ぶ。またここで十分に気を散じておくことができれば、切場1時間の品位優美にも客席がじっと付いてこられようというものだ。まずは三味線の清介がそこらをよくわきまえて緩急自在に操り、代役呂勢もまた師匠の教えをよく体現し(教えを理解しても床で実際にすることは至難)、清介と見事に渡り合ったのである。人形がまた健闘し、文雀の林は後述するとして、作十郎の太五平がベテランの味を出して軽々しさだけには終わらぬ人物像を見せ、茂次兵衛(勘緑)もよく遣いかつ無駄な動きがなく好ましかった。呂勢は当然婆や太五平の映りが云々と言われもしようがそれは当たり前のことであって、今回はやはり浄瑠璃の骨格をよくふまえた上で前述の課題をやり遂げたことを評価すべきである。詞も当然浄瑠璃音楽の一部であるのだが、ウケを狙うために単なる掛合漫才に終わってしまうことがままあるゆえに、呂勢と清介の行き方をとりわけ称揚するものである。
切場を綱大夫清二郎で勤めるわけだが、これは劇場側の用意周到さであろう。声柄からして難物なのは衆目の一致するところであるが、今回この駒太夫風浄瑠璃の代表曲を当代において正しく上演するためにも、また此曲を後世に伝える意味からも、ここは綱大夫でなければならないのである。(千歳大夫が会などでこの曲を積極的に取り上げているのは、古靭・喜左衛門両者から教えを受けた師越路大夫の「林住家」、その継承者としての自覚によるものであろう。立派な心がけである。)ここまでの芸の伝承という視点からは綱大夫をおいて他はない。(その意味では次回四月の通しにおける「恋十」(大和風か)の扱いも注目される所である。世間で取り沙汰されるように嶋大夫で決まりとは一筋縄ではいかないはずである。)それは人形陣にも言えるわけで、それゆえ配するに人間国宝三人を以てしたのであろう。そしてこの目論見は端場の出来具合もあってひとまず成功したと言えよう。7日の時点では完全に「組打」の影に隠れていたし前途多難を思わせたが、22日にはそれを抑えて「林住家」が一番の大できと感じられるまでになったのである。
見台は巧緻にして流麗(立澤瀉紋は山城系?)、これは浄瑠璃一段の風格を表現したものであろう。また漆黒の肩衣とは究極の洒落者、しかしこれも忠度乗馬の「飾り立てたる黒の駒」の謂いでもあろうし、平家物語に描かれた忠度卿黒尽くめの出で立ちをふまえた上の選択かもしれない。さて肝心の床であるが、7日においても駒太夫風の表現に意を尽くしていたが、三味線の清二郎ともども一杯一杯で余裕もないという感じであった。ところが22日に聴いてみると、頭から浚え直したかのようで、「こそは急ぎ行く」の駒太夫ヲクリから「林は跡を打眺め」のハルフシに至る冒頭の音遣いにしてからが、より精緻微妙なものとなっていた。以下「風誘ふ」の処理も異なるなど、日々の工夫の跡が聞こえてきた。それでもまだ、フシ落ちまで来てハイ次、色ドメへ来てハイ次と順番に辿って行く感は拭えず、余韻余情に乏しかった。しかし、この日は奥に進むにつれてこの品位優美第一の浄瑠璃作品世界に引き込まれていく感があり、それは人形陣の遣いぶりにも如実に反映されていたと感じた。そう、今回この二段目切場の情緒を体現するにあたっては、やはり人形陣の成果に負うところが大きいのである。
まず、玉男である。この通し狂言上演が判明するや、忠度は玉男師以外にはありえない(熊谷は文吾玉幸ラインに任せても)と述べたが、実際目の当たりにして一層その思いを強くした。忠度の品格と言ってしまえば他に言葉はないのだが、それは言わずもがなとして、忠度のかしらが源太であるということに注目してみたい。詞章での描かれ方やとりわけ玉男の遣う忠度ならば検非違使の方が映るとも考えられるのだが、未だ妻帯せず菊の前との恋仲、勅撰集に名を留めたいとの歌人としての思い、そして武門平家の貴公子としての心の趣等々からみて、源太が至当ということであろう。そうするとこれは容易ではない。検非違使ならば風格も出しやすいし、若男ならそのまま優美である。(もちろん、これらを描出するにしても相当の力量が必要とされるのだが。)それが源太かしらである。その年齢の常として当然外へ向かって発散されるべきエネルギーを中に溜め=矯めなければならなくなる。とはいえそれが憤懣に変化したり暴発前の蓄積状態であったりしたのでは、忠度の性根は死んでしまう。その上にこの作品世界の抒情味である。例えば忠度が梶原を追い返した後の詞章、「怒りの涙」を浄瑠璃作者は「照る月に氷を降らすが如くにて」と表現している。普通ならば、烈火の如くとか川水増さるとか書かれるところであろう。それを照月に降氷とは…。これを源太かしらで表現するのである。何と至難の技ではないか。それを玉男師が顕現するのである。これはもう玉男師の気品風格の為せる技としかいいようがない。いや、もはや風韻気韻の神位であると評すべきものかもしれない。そういえば11月の八百屋半兵衛も源太かしらであった。玉男の遣う源太は確かに今世紀が誇る至高の芸術といってよいだろう(初代栄三とともに)。さて、具体的にとりわけ印象に残った玉男の忠度について述べてみることにする。まず、菊の前に仔細を語るところ「口には諌め心には」からが無類で、「いるもゐられぬ座を背け脇目に余る御涙つつみかねさせ給ふにぞ」など、うつむいた表情とネムリ目の遣い方至上である。メリヤスに乗ったツメ人形との組み手から前述の照月降氷の部分、そして「痛はしくもまた道理なり」で極まる型の美しいこと。手を叩こうと思ったらちょうど叩いた人がいたので図らずも二人して客席を先導することになった。同志なる哉。そして究極は段切りの片袖由来物語。馬上にて流しの枝の短冊を頭高に差しながらネムリ目でうつむく所作、ここは片袖を渡す六弥太(玉幸)に忠度を一途に思う菊の前(簑助)それを押し隠す乳母林(文雀)と四者一如の手摺であって、これはもう一幅の大和絵を見る心地であった。類希なる詩情。その簑助は「道の時雨も恋故に身は濡鷺の菊の前」の通り溢れる情愛、文雀の乳母林とのやりとりが微笑ましく、忠度に暇を言われてからの拗ねた恨み言も映り(「死ぬる」の後の三味線チン一撥情感あり)、とりわけ忠度の言葉を聞き乳母林からすかされた後の「応へも涙なかなかに離れがたなき風情なり」に優美かつ濃やかな情愛が感じられた。文雀の林は文字通り菊の前の乳母であった。玉幸も颯爽たる孔明かしらの六弥太を健闘、というよりもこの場面に登場すれば自然と遣えたであったろう。空気が違っていたのだから。
そして大団円。詞章はいよいよすばらしく、それをまた最高に引き出す曲付けがされている。「散りゆく身にもさしかざす流しの枝の短冊は世々に誉れを残す種」綱大夫はもう一歩だが節付けに身を任せればよし、「果てし涙の悲しみをともになづみて耳を垂れ嘶く声も哀れ添ふ」駒の嘶き等々清二郎の三味線が耳に残る、「引き分れ行く暁の空も名残や惜しむらん」ここに至って『猿蓑』所収歌仙に見える次の付け合いが思い起こされたのである。「おもひ切たる死くるひ見よ」「青天に有明月の朝ぼらけ」(初時雨の巻)、「乗出して肱にあまる春の駒」「摩耶が高根に雲のかゝれる」(きりぎりすの巻)。詩情は詩情を呼ぶ。これもまた付け合いの趣と言えよう。至福の時間、カタルシス。
…それでも以下のように言えば言える。床がまずその責を負いそして手摺もだが、忠度には更なる若さと動きがあってよいし、菊の前もより可憐に表現できようし、乳母林はもっと太五平や菊の前と絡めばよいし、六弥太は捌き役としての器量が今一つ云々…。が、この「林住家」は15年間放置されてきたのである。我々はこれほどの「林住家」を体験することが出来た僥倖(人形浄瑠璃をめぐる現状を鑑みるときこう表現してもいいはずだ)を思うべきである。もちろん資料室には朝日座お名残公演のものも越路喜左衛門の床による東京国立小劇場でのものも残されていよう。それでよいのである。
「宝引」
咲大夫喜左衛門。予想通りの所、思った以上の所、そして期待はずれの所。咲大夫は巧者であるし、よく研究もした。鶏の鳴き声もあひる笑いも歯抜けの与次郎も鮮やかである。天晴れ見事である。玉織姫を出すところで江戸期から続く歌舞伎役者を使ったのも快挙としてよかろう。それに公演後半はより練られたと見えて客席の反応も上々であった。ただやはり全体としての浄瑠璃の流れがそれらの細工で逆に止まってしまう。詞による遮断。間延びした部分もある。小錦を出すなら鍋に変えるべきで炭団では受けても意味がない。大阪環状線は時間軸という点から浄瑠璃の流れを阻害する。ひえを淋しい病と言い換えても共通理解には遠いし、第一それで鼻が落ちるということ自体がもはや不通である。それに肝心の「そちらは無官の大夫」「この所へ着いたしたであらう」で笑いが取れないようでは、やはり木を見て森を見ざると言わざるを得まい。しかし現状でこの「宝引」をチャリ場として語れるのは咲大夫をおいて他ないのである。思えば15年前は代役相生大夫(本役伊達路、三味線は共に叶太郎)で爆笑したのであった。公演記録映画会相生翁重造の床にもそれがフィルム映像であるにもかかわらず爆笑したのを覚えている。三味線の喜左衛門は体調不良であろうか、前々回公演あたりからどうもよろしくない。今回もまず三味線の調子が低い、音が冴えない、充実感に欠ける等々。年齢から来るものか、全体として気力に乏しいと感じられた。それでももちろんツボは押さえて、咲大夫に語らせ客席を沸かせる手腕は年功である。年功ではあるのだが…。人形は須股運平がよくないというより悪い。せっかくの見せ場であるのにわざわざ遣い方のツボをはずす。鼻動きなら馬場忠太の耳打ちにウンウンと頷くところでなぜ大きく動かさぬ。急所に当たって死ぬところ、空中で十分もがいた上で「死してんげり」でそのままガクッと二つに折れるように絶命すれば客席が大いに沸くのに。笑いとは落差である。久しぶりの上演で今回のこの出来、どうやらチャリ場は「笑い薬」に極まれりとの御託宣が下りそうである。悲しき哉。冥土にござる相生の心境や如何。なお、ここが銀襖で前場が金襖であるのは切場の都合によるからではない。ここで休憩が入るのでもあるし。ここは咲大夫が小松大夫に譲ったものであろうか。このあたりの心配りはさすがに文楽本流咲大夫ならではである。
「熊谷桜」
英の肩衣が片喰紋であるのは越路の預かりとはいえ高弟小松を立てたものか。これもまた心有る仕方であろう。さてその浄瑠璃、三味線は清友であるが、両者ともに一人前になったなあという感慨がわき起こった。英大夫は何度も手がけているし清友の端場も安定している。それもあるが、ともかく今回この二人が二人でこの一段をやり遂げたなあという実感があるのだ。英は懐胎をきちんとくわいたいと語りもする。具体的にどこがポイントでどうだということは以前の劇評をご覧いただきたい。再び言う、英清友が今回この端場を仕上げたなあという思いである。あとはもう一歩の足取りとイキが詰んでくればだが、それが出来れば両者とももう切場が見えてこよう。
「熊谷陣屋」
序切、「組打」、二段目切、「宝引」もあってようやく三段目切場である。良くできた通し狂言は何とも贅沢なものだと思う。よく大阪人がミドリ建てを好むのは切場のいいいとこ取りをして儲ける優れた経済感覚の現れだなどという人もいるが笑止な話である。それはいわば和洋中バイキングで腹一杯にすることだけを食事と心得ているようなもので、食文化とは無縁の何とも卑しい欲望である。今回の二部制にしてもあの浪速商人が大旦那として浄瑠璃を好んでいた明治の世であれば、当然朝から晩までぶっ続けの上演であったのだ。それを心得ているならばたとえ日は違えても通しで鑑賞するのが筋だろう。今回確かに二部制のアンバランスが際立つ形となったが、それ故に損した気分の第二部は敬遠しての空席などとは…。もちろん明治期でも一日中行儀良く鑑賞していたわけではなく、聴きたいところだけを聴いていたのだが、それとこれとは全く別問題である。ともかく文楽の現状にとって獅子身中の虫とは何のことか、茶屋場の由良助ならずとも一目瞭然であろう。
さて、こう充実した舞台を見聞きさせられると、この名高き「熊谷陣屋」もその頻出さゆえにかえってどうにもならない。しかしさすがに良くできた一段だけのことはあり、段切りを終えて劇場を後にすると心地よい疲労感と充実感とに包まれたのである。
前半を清治。この東風の曲、ドラマだ何だと音曲的視点を後回しにして辛気くさい浄瑠璃で語られた日にはたまったものではない。その点清治は前半眼目の熊谷物語も心地よくそこにまた哀感も漂っていた。太夫の語りはとにもかくにも熊谷が重厚。相模藤の方堤軍次も各々個性を描出しているが、熊谷がすべて、唯一無二であった。ただし全体にのべつまくなし感が依然としてあるということと、「習ひと太刀も抜きかねしに」「一ノ谷へは向かひしぞ」等きちんと音を届かせて欲しいということである。それにしても清治はやはり太夫の良き女房役である。もっとも清治にとって某太夫がよい亭主かどうかは、清治の三味線を聴いていれば自然と聞こえてくるはずであろうけれど…。人形は文吾の熊谷が終始相模を意識していて、これは当然のことであるが、そこまで徹底していると現代人には随分とわかりやすいであろう。あとは舅根性で意地悪く言うと、冒頭の出から制札の前で立ち止まるところ、何故立ち止まるのかは当然承知の上であろうが、熊谷の後ろ姿にその意味が見えてこない。「妻の相模を尻目にかけて」この詞章に隠された真実を表現するには今一歩。そして熊谷物語での様々の極まり型が随分と改善されたとはいえまだよろしくない、云々となる。
後半は伊達に団六休演代役燕二郎。弥陀六が良いのは予想通り、相模藤の方の笛の一件が感心しないのも予想通り。しかしここは団六の三味線が十分カバーするであろうと安心していたのが予想外れ。義経首実検の詞「よくも討ったりな」に得も言われぬ情愛を微妙に含ませた(その情が露出してしまうと当然贋首と公定されることになり水の泡となる)伊達の語り口と人形玉女の遣いぶりは予想だにせぬ絶好の仕方。相模のクドキが燕二郎の妙手もあって予想以上の出来。その直後藤の方への相模の詞が観客の心に徹し涙を催させるとは予想も何もないただただ感動あるばかり。玉男の弥陀六はあの年齢でよくまああの動きをと感心するのはもっともながら、むしろポイントポイントを実にうまく押さえていく遣い方にこそ感銘を受けた。それにここにもまた神の域に達するぞっとするほどの遣いぶりがあったのである。それは熊谷が十六年も一昔と述懐するところ。熊谷のネムリ目とホロリとこぼれる涙と、そのどちらともに弥陀六のかしらがぴったりと反応したのである。無論舞台中央の熊谷を玉男は見ていない。それはあたかも熊谷の衷心衷情を舞台空間を通して弥陀六が感じ取ったものとしか言いようがないのである。恐るべし恐るべし。後に芸談として収録されると多くの人が眉唾を付けるであろうから、ここに生き証人として体験談を直接記入しておく。玉男師匠の芸はやはり神位である。「尼ヶ崎」の光秀が操を叱咤したとき客席の私までが仰け反ってしまった経験などもこの類であろう。その弥陀六では、前後するが、熊谷に制札を以て「一子を切つて」忝ないと述べるところ、前述の義経の詞同様得も言われぬ情愛が微妙に含まれていた。当然ここも表には出せないところである。とするとこの玉男の弥陀六と玉女の義経という師弟共演にもまた心相通ずるものがあったことになる。玉男師もさぞや満足に思われたことであろう。「伊達大夫の語る人物にはいずれも血が通っている」とは高木浩志氏の至言であるが、それが図らずも今回もまた証明された形となった。前半を含めての人形であるが、文雀の相模は文吾の熊谷をよく支え文字通りの女房役。クドキなどもっと母性を表出してとの声もあろうが、今回の熊谷に対するには妥当な遣いぶりであろう。紋寿の藤の方は序切に於いて十二分に一子敦盛への愛を横溢させていたから、この段の詞章とそれにともなう所作とが十二分に伝わってきた。この点もまた通し狂言ならではである。だから小次郎の身代わりを知って後、これまた十二分に相模の心と波長を同じくすることができたのである。この相模藤の方、そして今回最高点の玉女の義経は捌き役としての存在感があり、「一間をさつと押開き」出る時から大きさも華もあった。この三者の好サポートがあってこそ、後半二カ所にある熊谷の見せ場・極まり方もまた出来たのである。それにしても玉女の義経は初段で書かれた「智仁勇備の良将」という詞章がそのままここまで通じているのだ。通し狂言の何たるかを知っている証拠だろう。清之助の堤軍次は大した為所もないが過不足なく、これまた熊谷の「家の子堤の軍次」として「心を利かし」た遣い方であった。最後に三味線の燕二郎は伊達大夫のクセも知り慌てず騒がず、同輩中最も厚みもふくらみもある音に段切りのノリや力強さもあって納得のいく出来であった。
今回の公演は何度も言うようだが、通し狂言の必要性を名実ともにあらためて知らしめることになった。もちろん何でもかんでもというわけではないが、少なくとも今日まで通されてきた演目はこれからますます通し狂言で上演すべきであるということが、大阪国立文楽の関係者にも身に沁みたことと思われる。これもまた繰り返しになるが浄瑠璃作者の手腕を馬鹿にしてはならないのである。そしてまたそれに附された三味線の曲、つまりは風というものも、とりわけ今日まで伝承されているものについては、十二分に意味のあることが当然理解されたことであろう。それにつけても四月公演の第二部はどういうつもりか。まあ三業のスターを配するつもりであろうが、この正月通し狂言の成功を見た後では、随分と時代遅れの手法であると言わざるを得まい。色々な意味で今回の通し狂言『一谷嫩軍記』は文字通り「十六年も一昔」との感慨をもたらしたのである。