平成十二年七・八月公演  

第一部

『瓜子姫とあまんじゃく』

 この作品については、プログラム鑑賞ガイドの所々に引用されている、作者木下順二氏の言葉がすべてを物語っている(ただしそれを敷衍した解説者の言には首を傾けざるをえないが)。劇場で視聴しつつ、書くべき事をメモしていたのだが、終演後前述のガイドを読み、これならほとんど書く必要もないと思うに至っている。それでも劇評を名乗る以上は自らの解釈を示しておかなければなるまい。
 「まねっこ」をするのがなぜ「あまのじゃく」であるのか。もちろんこの括弧は、普通名詞として考えていただきたいゆえに付したものであるが、例えば通常の自己他者関係を考えると一目瞭然であろう。自己の働きかけに対して他者(外部世界)は何らかの反応を返してくるのであるが、それらがすべて自己の鸚鵡返しであればどうであろうか。私たちが普段鏡の世界や九官鳥等に興味を抱くのは、普通なら当然自己にとっての対象物が様々な反応を返してくるところを、自己の作用をそのまま再提示するからである(ただし、相手を殴ったら殴り返された、手をさしのべたら握手した等々とは全く異なっている。これらはすべて、対象(他者)が自己となり、逆に対象(他者)と化した自己への作用に他ならない)。それはつまり自己の他者に対する働きかけを無にしてしまうということになる。鏡に向かっていろいろな表情を作ったり仕草をしているところを見られ場合、たまらなく恥ずかしいとともに、見た方がひどく不気味な印象を受けるのはこのため(要するに無化を承知で働きかけているから)である。別の言い方をすれば、普段は意識しない自分の影が地面から立ち上がり、自己と「等身大」(この括弧は単にサイズの問題ではないことを示す)の対象が目の前に現出するというイメージを抱いてもらえばわかりやすいかもしれない。あのキリコの絵画を思い浮かべていただいてもよいだろう。とすれば、これがいかに恐ろしいことであるかが理解できよう。いわゆる通常の自己他者関係の枠組みをはみ出しているからであり、このことは究極的には人間(じんかん)と読まれることが示している通り、他者との関係性において自己が存在しているという「人間」存在そのものをも脅かすところにまで至るものである。
 この作品はその恐怖が少しでも観客に伝わらなければ意味がない。かつて民俗的土壌が豊富に残されていた当時の日本であったならば、この恐怖はそれこそ囲炉裏端での爺婆たちの語りによって、それと分析されることなく、伝えられていたのであるから、昭和三十年代の初演当時は見事に成功を収めたことであろう。あの当時は、家や地域という、自己の存在意味を他者との関係性において確立することができる安定した時空間から一歩外に出れば、そこには理解を超越した、通常の対話や働きかけをも拒絶する存在が、そこここにいると信じられていたし、また「現に」「存在」してもいたのだから。ところが現代日本においては、妖怪と呼ばれる存在も、姿形こそ人間とは異なるものの、人間世界の内側に人間と通常な関係を結ぶに至っている。そう、マンガやアニメーション、ゲーム等のバーチャルリアリティーという媒体の中において。怪獣(モンスター)たちもまた同様であり、むしろ人間世界の協力者、それを補完するものとしてさえ位置付けられているのである。まあ、これは結局のところ、通常の人間世界の中における対人関係だけでは自己を確立できない現代世界(日本)を如実に示していることになるのだが。さて、今回劇場を後にした子供たちのうち、一体どれだけが何らかの「恐怖」を感じ取ってくれたであろうか。もちろん大人である親たちについても同様であるが。その意味では終演後に手渡していた団扇の絵柄、あれこそが今回この作品の主題も作者の意図もまるで分かっちゃいないということを如実に表していたということになるだろうし、何よりもこの現代世界(日本)における関係性のあり方を全面的に肯定する国立劇場側の姿勢を明確に示したとも言えるだろう。おみやげの団扇を否定しているのではない。私なら「膝栗毛」の方を画題にしただろうということだ。もし「あまんじゃく」を取り上げるとするならば、山父とともに、瓜子姫の前後にその黒い影として屹立させたものを、中学生いや小学校高学年以上の少年少女に手渡していただろうと思う。そうすれば、ピカチューやデジモン、あるいは携帯電話会社の宣伝の入った団扇とともに十把一からげにされて、秋風と共に捨て去られることもないだろうから。もちろん、気味悪がられてゴミ箱送りとなるのであろうが、少年少女たちが大人に近付いたある日、ふと気になって思い起こしてくれるだろうという自信は確実にある。結論としては、今回の第一部前半はポケモン映画と同質同列の扱いであったということだろう。ま、しかし、それこそ望むところであるのかもしれない。木下順二先生をはじめとする高尚な意図を以てしては、観客動員は望むらくもないのであるから。
 主題本来の演出に主眼を置くのであるならば、文字久の解説は的外れであるし、嶋清介の床は、地の表現にやや哀感を伴うという利点(声質音質ゆえの)を認め得るものの、詞に明晰端然さを欠く上に、恐怖感の描出も未だし。とはいえ現状で可能な床は皆無で、20年後の呂勢錦糸くらいだろうからやむをえまい(ただし、この錦糸は、以前とは異なる、四月公演後半と今公演における三味線ならばということである。残念ながら五月東京と六月京都での錦糸がどうであったのか、各紙誌上での評言やネット上での感想の類では確認できなかった。また呂勢を声質ゆえの人気大夫と認識するのは大きな誤りである)。したがって人形も、瓜子姫の紋寿はよいとして、あまんじゃくも山父も権六も物足りない、というよりズレている。ぢっさとばっさは、鳥の鳴き真似を三回繰り返すということと、あまんじゃくを相手にしつこく繰り返したということの意味を伝えたとはとても言えない(床も同断)。しかし、いずれにしても、大阪国立側が意図したレベルであれば、合格点に達しているだろう。ただ、私が見た後半のあまんじゃくの人形は、逃げ帰るところの遣い方が何とも不手際だったが。
 

『東海道中膝栗毛』

 名作のパロディーは数知れず、「狐」段切りの手もあるし、大落シまで備わっているという、浄瑠璃ファンにはたまらない一品であるが、それを語り弾くゆとり楽しみにまでは至っていない。では、客席をわかせるための入れ事はどうかというと、これが可否半々。可は置くとして、「油とちゃうちゃう」は持って来た場所が悪いので、途中からしか反応がない。「ヘーソー」は極寒最悪。「押しもん」の「ポケモン」が全く伝わっていないから、「ピカチュー…」とやり始めても客席は唖然としたまま。その上今はもうポケモン金銀だし歌もNEO版になっているから、子供たちの反応も実に冷たいものだった。入れ事を使うなら効果的に。こういうところで大夫その人が丸見えになる。「センス悪〜」。全体を通じて津駒の喜多八の方が耳だっていたが、これは格が弟分だから当たり前。とはいえ、兄貴分の英弥次さんとともに健闘しているが、変化に乏しく(例えば前者なら、「木の根につまづいて…」のところ、後者ならその直後、酒五合からの洒落尽くし、等々)、痛快とまでは行かなかった。親父の南都は津駒喜多公との掛け合い(二千円札)は見事当てたが、気張ってばかりではこちらが疲れる。和尚の津国はその硬質さが人間とは異なる存在を思わせなくもないが、如何んせん面白くない。始の仙松はまあ自然の出来か。三味線は、シンの富助は段切りなど活気があったが、もともと向いていない作品。二枚目弥三郎以下は取り立てて耳に障ることも耳立つこともなかった。人形は一暢の喜多公が奮闘。例えば古寺、バタンと後ろへ棒状に倒れるなど工夫の跡が見えた。文雀の弥次さんは兄貴分としての遣い方。親父代役文吾に仙松の玉佳はあんなものだろう。和尚の玉女は、これが簑太郎ならと思わせたのは仕方ない。ニンでないし損も覚悟の上だろう。
 最後に、浄瑠璃のパロディー(「茶屋場」「堀川」等)では客席が全く無反応であったのにはがっくりしたが、段切りの狂歌ではやや反応があったので、ほっとした。とはいえこれも時間の問題かもしれないが。(ところが、肝心の床本が最悪。「…今日は帷子になった〜」とは?!まるでわかっていない!!「経(今日)帷子」だから洒落になるのであって、そこへ「は」を入れるなど、それこそ言語道断横断歩道挙げる右手に黄色い旗がイエローカードと見えにける…、である。これは単なる校正ミスなどではない。「センス悪〜」。)
 

第二部『鎌倉三代記』

「入墨」
 口の呂勢、北条三鱗の陣幕に三巴紋の見台とは洒落ているが、浄瑠璃は声質で丸め込まず、むしろ尖鋭明瞭を心掛けたことを評価したい。喜一朗(清太郎休演)は、手強さ、間の取り方、足取り等、こちらも評点は良。両者とも大成に期待がかかる。
  奥の伊達団六。両者にとっては手の内にあるもの。それ故に、時政の言ではないが、「割鶏焉用牛刀」の感もあり、浄瑠璃の格が一段の格を溢れ出てこぼれたまま放置され、もったいないやらむなしいやら。斯様などうということもない立端場を語らせる程度の力量ではないし、ましてやそこまで枯れてもいるまいにと思いながら聞いていた。しかし、かつて駒太夫が古靭太夫の端場「八幡山崎」を語るに際し、妻をはじめ門人も断るべきとしたものを、黙って聞いていればよいと退けた逸話を思い出し、さもありなんと納得もしたのである。一段の内でも、また日を追っても、語り込むほどに声も立ち直り、淡泊にして滋味ある独特の味わいも出、最終的には、立端場浄瑠璃格相応の佳品に仕上がったように感じられた。マクラ一枚も後で聴いた方が詞章を見事に描出していたし、三味線も全体として軽妙さが増したように聴いた。人形は玉也の時政が十分とは言えないまでも大舅かしらの雰囲気を遣えていた。篝火の和生はさすがにこの程度は遣えるようになってきた。最後に段切りの詞章「重き足取り妻鳥の思ひの翼引き別れ」の部分について。ここは、示し合わせた計略が見事に成功した高綱ではあるが、獄舎に繋がれた妻篝火との別れを心中深く思い感じているということであるから、玉幸の人形も一瞬でも獄舎の方に思いを引かれる所作があっても良かったのではとも思う。実際床の方にはそれなりの憂愁の情が湛えられていたから。もちろん何もかも細部に至るまで詞章に合わせる必要などないし、むしろ邪魔なのではあるが、段切りまでずっと、恨む女房と飄然と立ち去ろうとする藤三および軍兵どもとのコミカルな遣い振りで終始していたのは、どうかなと思った次第である。

「絹川村」
 段書きすれば「局使者」を千歳宗助が快演。ここのおらちで早くも客席をわかせる。二人の局の登場も端場らしくもたれずに処理し、しかも品格は失わず。マクラも二度目に聴いた(8/3)時には、緩急強弱見事に語って、切場まで一段の情景描写を引き受けた功は称賛に値する。しかし、ここもやはり「割鶏牛刀」の感は否めなかったが。
  次は咲大夫燕二郎で通称「米洗い」。おらちの人形は簑太郎であるから悪いはずがない。また後半藤三が上意を述べるあたりも好演(こちらの人形は今一つ)で、まずは思惑通りであった。ただ一回目に聴いた(7/29)ときの印象では、手慣た工作品のようにも思えたのだが、二度目は丁寧に語り込み、三味線もニジッタ音や弱音に神経を行き届かせ、時姫の表現にも品格が感じられるようになっていた。ただ、水を汲む場面の詞章を語り活かし弾き活かして、おらちの人形をむしろ目障りと感じさせるほどまでには至っていなかった。が、これは至難の業であろう。「目で見る文楽」の現状は客席にも蔓延しているのであるから。
 切場前半「三浦別れ」を十九清治。マクラの詞章が実に美しく「されば風雅の歌人は恋とや聞かん虫の音も沢の蛙の声々は」とあるのだが、十九大夫の情感に清治の三味線は少々あっけなさすぎた。このコンビは確かに清治の淡泊さが十九大夫の脂っこさとうまく中和しているのだが、今回のマクラは詞章が詞章だけに、これから登場する源太かしらの若武者と深窓の令嬢との恋模様を仕込む必要があったのではないか。もちろん「修羅の巷の戦ひと」からパッと変化し、「身に引きしむる兜の緒」からの三浦之助の出はさすがであった。が、どうも最近の清治はとみに師匠清六の路線を進んでいるような気がしてならない。当然師清六の域に達すればそれはもう名人であることは間違いないのだが…。それはともかくとしても、手っ取り早くという側面などとは無縁でお願いしたい。さて、ここは「もし落人と人や三(見)浦が孝行の念力通ず母の軒」であるから、母への愛という気力だけで手負いのダメージを支えているのである。ところが人形の文吾にはそれがまるで感じられなかった。二度目はなるほど気を入れて「遣っている」というのは分かったが、それが肝心の三浦之助の人形に現れて来ない。だから、「はじめてがつくり門口に」の動きが何のことか不明になってしまうのだ。気が付いて後、時姫には何ら構わず、母の病状のことばかり尋ねる場面では、そのように遣えていたのだが、今度は床の十九大夫がまるで無神経。主任教授の形式的な回診か食中毒の見舞いに来た会社役員の言葉程度にしか応えなかったのである。次、文雀の時姫が兜を手にして忍びの緒の切断にハッとするところ、すは地震か火事かという大仰な仕草があり、これではこの場で三浦之助に問いただすことをしかねまいとも見えたのだが、二度目はさすがにわきまえていた。場面は母親の教訓に移るのだが、ここでは床が同じようなフレーズを繰り返すにとどまり、形式的になってしまっていたため、途中せき込むところに真実味がない。次第に昂揚する母渾身の物言いのため自然にせき込む感じが不十分。その後はまずまずであったが、前半からの重みがないために、「百筋千筋の理をこめて…泣く音よりほかいらへなし」がいささか虚ろになってしまった。時姫必死の語り(この詞が不十分)からカカッテ地に至る所も、床人形ともにもう一つで、せっかくの後振りにも客席は無反応であった。その後クドキになるのだが、美声家なら感性に訴えてもよいだろう。では十九大夫の場合はどうであったか。豊かで艶やかな声で勝負するかというと、高音部など苦しく快感には至らない。では、時姫の衷情を前面に押し出すかというと、三味線に付き過ぎて真情が浮かび上がってこない。といって清治が正面に立つわけでもない。結局ヲクリの交替直前のノリ間まで何ともつかみ所が無かったといえばよいであろうか。もっとも、この大曲が東風の美しい節付けとなっており、昔からの人気曲であったろうということはよくわかったから、あながち悪かったというのではない。自分の浄瑠璃に仕切れなかったということであろうか。何とももったいないことではある。
 切場後半は綱清二郎。交替直後富田六郎と局とのやりとりがあるので、浄瑠璃はすぐ動き出すことになるのだが、この冒頭から綱大夫は困難を極めていた。もちろん語り外すということなどはないのだが、不明瞭で緊迫感にも欠け気味であった。三味線の清二郎が必死に足取りと間とで支えていたから、二度目に聴いたときには、雰囲気の描出には成功していた。その後の藤三郎登場ももう一つ冴えず、これは人形も同断であった。時姫の苦悩はまずまずだったが、深窓の令嬢としての表現、例えば端場で豆腐を丸盆に載せ、差し掛けられた羅蓋には釣銭の緡をぶら下げているという、貨幣や取引等とは無縁の姿を遣った部分には及ばず。ただしこの場の父時政との葛藤は三浦之助への情愛表現以上には伝わってきたが。その時姫に三浦之助が迫るところは気合が今一歩、切迫した思いが伝わったとは言えず、ここも人形にはその過半の責がある。そしていよいよ高綱物語となるのだが、この分ではとてもこの大音強声を必要とする詞ノリ等はどうにもなるまいと思わざるを得なかった。津大夫はもはや叶わぬとしても、十九大夫と持ち場を交替していたら…などと。しかし語り込まれるにつれて、その詰んだイキに引き込まれ、間拍子足取りが三味線共々上手くまた面白く、見事に語り聴かせるに至ったのである。これには正直驚いた。人形も高綱(玉幸)が井戸より現れてからは、型通りであるとはいえ、きちんと遣っていたし、三浦之助(文吾)も手負いの身を顕わしてからは、そこそこ見応えあるに至った。おくる(勘寿)も時姫(文雀)もまたその渦の中で各々の心情を表現した。三浦母(玉男)の切ない思いは痛いほどだと伝わったし、それ故に母の膝に甘える三浦之助の男泣きには、さすがにこちらも目頭を熱くした。そうなると大落シが一杯に聞こえる。やはりここまでの仕込みが大切なのだ。ただし、大きさと強さで寄り切る浄瑠璃ではないから、少しでもイキが弛むと黄信号が点るが。さて、木登りのメリヤスから、三浦時姫絡みの足拍子、そして段切りの気付けまで、聞かせ所、見せ場が続くのだが、快感には至らず。残念ながら柝頭とともに大当たりと叫ぶわけにはいかなかったのである。三浦母を遣う屋台の玉男師がこの段切りでの各人形の動き、とりわけ高綱と三浦之助に厳しい視線を送っておられたのが印象的であった。なお、二人の局と富田六郎の遣い方は相応だろう。
 

『きぬたと大文字』

 「大文字」は道具方の工夫をまず褒めたい。景事の舞妓としては、和生まずまず、一暢今一歩。
 「きぬた」は照明担当が一の手柄。辺地の秋、出征した夫の帰りを待つ妻の心情を紋寿は表現していたと思う。
 床は三味線のシン喜左衛門と二枚目八介がさすがにきちんと聞かせ、大夫は三輪以下の若手が三味線の指導よろしく雰囲気も出していたように感じた。
 
 

第三部『国言詢音頭』

「大川」
  掛合にするとどうしても印象が散漫になり、一段の仕込みも不十分になってしまう。それぞれが与えられた責任を果たせばよいのだとはいうものの、結局一段通しての本読みもせぬまま、単なるセクト主義に陥る危険性が大きいからである。
 菊野の咲甫大夫は声柄からであろう。耳に心地よいし艶なりといえばそうなのだが、表面を撫でて滑るだけではいけない。マクラも一息で言うべきところがぶつ切りになっていた。また、「天下の台所」の描写から「蔵入出米片付けば跡はひつそと物淋し」ですでに、これから起こる惨劇の契機となる雰囲気作りをしておかねばならないのだが、それは無理な注文であった。咲甫に罪はない。掛合床だから菊野担当者が語ることになってしまうからである。お岸の新大夫はだみ声とがさつな表現がうまく合っていた。仁三郎のつばさ大夫は不可なし。忠七の睦大夫には少しくはっとさせられた。筋がいい。伊平太の貴大夫はいわゆる奴詞がなっていないが、主人を思う一途な心情は表現できていた。肝心の初右衛門は伊平太とのやりとりがまずまず、最後「無念の吐息」との詞章にはやや及ばぬ表現であった。三味線の団七はどうなのだろう。三味線自体どうのこうのという一段でもなし、やはり破綻なくまとめた統率力をよしとしたい。人形はまとめて後述する。
 なお、ここでの30分休憩は全く不要。意味がない。観客は疲れてもいないし、夕食をとる時間を絶対に設ける必要もない。食事時間を設定する必要があるのは、劇場にへばり付かなければならない場合であって、今回などこの休憩を削除し、90分ぶっ続けで追い出せば、十分外で食事ができる時間帯であるし、観劇後の話題にも花が咲くというものだ。第一今回の場合、せっかくの恐怖心がこの休憩で雲散霧消してしまうではないか。むしろ逆に普段なら休憩を入れるところを、今回は演目を効果的に楽しんでいただくためからも、ぶっ通しで上演すべきだったはず。「21世紀の文楽」を目指して思い切ったことをやると言っている割には、旧態依然、墨守も甚だしい。そのかわり「不易」の部分についての意識は実に低いのだから、よくまあこれで劇場運営をしているなあと、あらためて親方日の丸の偉大さが身に沁みたのである。そもそもレイトショーという設定自体からして長い休憩時間は不要である。観劇後の楽しい食事の時間を確保するためにも、そうあるべきである。ましてや、終演が遅く街路灯が云々と言うのなら当然の処置であろう。全く理解に苦しむし、理解すべき内部事情があるとしても、そんなものは理解したくもない。第一部にしても、休憩時間や終演後に、登場した人形と一緒に写真を撮るサービスをしてもいいのだ。ポラロイド撮影でその場手渡し、料金は一枚300円位の設定でいいだろう。劇場にカメラを持ち込むことはしないのだから。人形は舞台上の主遣いでなく若手に任せればいい。悪しき商業主義だと言うのなら(逆に賞賛されてしかるべきだ、大阪国立の現状なら)、人形と握手でもスキンシップでもいいだろう。文楽人形はそう簡単に扱わせてよいものではない、ともまさかおっしゃらないでしょう。そういう姿勢とは無縁の現状でもあるはずだ。

「五人伐」
 端場の呂清友が実に素晴らしかった。久しぶりにいい端場を聴かせてもらった。冒頭の唄がまず雰囲気を醸し出す。詞章も実に印象的である。あと菊野仁三郎の「舌たるい程くさり合ふ」やりとりもしっくり、そして聴かせ所は源之助の詞も、聴いていて胸にしみ込むものがあった。三味線も細部まで行き届き、大夫との相性もぴったりで、当世一大名物「呂大夫の端場」を味わうことができたのである。実に幸せなひとときであった。
 切場の住錦糸。まず錦糸の三味線が「思ひぞやるせなき」のヲクリから違う。あの四月公演後半に聴かせてくれたものに違いはない。以前から音作りは抜群だったのだが、櫓下格住大夫の相三味線としての重責からか、間といい足取りといい、変にもったいを付けた弾き方で、住大夫の浄瑠璃に合うように合うようにという姿勢が聞き取れていたのだが、今回など先へ出るところ、放っておくところ、三味線から形作っていくところ、等々、抜群の働きを見せていた。住大夫の浄瑠璃についてはなにをか言わんや。この二流作品を聴くに堪えうるものに仕上げることが可能なのは、住さんをおいて他にはいない。それでも一点だけ述べるとすれば、初右衛門が別れ際に虚言を作るところで、「国元には親もあり女房もある」「お身達が返つて不憫になる」この両者とも、アと一瞬詰まるように語られたのは如何なものだろう。この詞は後で本人が語るように、嘘である。しかも即興などではなく、あの大川端での憎悪を貯めに溜め、また矯めに撓めて、今日のこの日まで何とか暴発させず、最大効果の恐怖を与えるために、考えに考え仕組みに仕組んだ惨殺計画を、見事に成功させるための、嘘である。であるから、ここで初右衛門が些かでもハッと思いを致すはずがない。絶対にない、断じてない。むしろ自分で語りながら思わず口端を歪めて薄ら笑いを浮かべてしまうほどのものである。掛かっている、掛かっている、まんまとこの虚言に掛かっているわい、と、菊野仁三郎の表情を視線の端に捉え確認しながら。人形の玉男師はその方向で遣っておられると見えた。あとは、ダレやすい菊野とおみすとのやりとりもむしろ真情に迫って来たし、言うことはない。殺し場の初右衛門に一層の冷酷残忍な表現もとの気もあるが、それが語りの中心でもなかろう。冒頭の奴詞なども各大夫は心して聴いておくべきである。胡弓担当の清志郎も悲劇を効果的に表現しながらも、弾き過ぎず結構であった。
 さて、人形陣は、とにもかくにも玉男師である。この狂言が建てられたのも玉男師が存在すればこそ。どこがどうだと言うだけ野暮であるゆえ(毎公演そう書いている気もするが)、一点のみ。殺人のため立ち戻ってきた初右衛門の所作。その道具一切の遣い方の見事さを挙げておきたい。肝心の心情表現は如何になどとは言わないでいただきたい。それはもう劇場へ来て客席に座りご覧いただければ、何の説明に及ぶこともないのであるから。続いて簑助の菊野、これまた仁三郎やおみすとのやりとり云々は言わずもがな。「大川」の出で既にその性根、ウブやネンネではなく、男を知り、仕事とは何かも理解し、表裏を使い分けられ、一度会えばたちどころに男を虜にする色気が滲み出、等々、見事というか大したものである。次は仁三郎の清之助、色男ながら機転も利き、若さ故に調子にも乗るが、あくまで軽く、粘着や執念とは無縁対極をなす。伊平太(後半玉女)は「古市油屋」の喜助ほど活躍の場はないのだが、主人を思う真情が見えればよい。おみすの玉英も菊野とは正反対の素人娘、不器用で表裏なし、「挨拶の美しいのも心ざはり」との詞章が活きて見えたからいいだろう。その他については言及するまでには見ず、ご容赦。
 この狂言は究極的には初右衛門をどう捉えるかだろう。プログラムの解説はどうにも無理と判断して、菊野や仁三郎側へシフトしていたのはもっともなことである。しかし、作者はちゃんと「舌たるい程くさり合ふ」「色事師まで北浜の水際立ちしせりふなり」「ころり手枕蚊に施行始終不孝の身持ちなり」等々の詞章を用意し、この遊女と若旦那の世界観がいかに狭く閉じたもの(これを括弧付きの「日常的」と表現することもできよう)であるかを示し、また、「田舎者と侮つて嘲弄」「ソリヤ抜いたはヤレこはや」「お国侍の身を以つて」「臭い物身知らず」「あの侍の騙されては分が立たぬとどうで突くのか切るのであろ」云々と言う具合に、徹底的に田舎と武士との二点から人とも思わぬモノ的取り扱いを描いて見せているのである。そんなモノが繁華の地の女を思うということ自体話にもならない、と。一方の初右衛門も花は桜木人は武士、遊女など売りモノ買いモノとの認識であり、そのモノが人である武士に恥辱を与えるなど、許されるはずもないのである。両者共に、自分は人間、他人はモノ。その意味では「当今社会を騒がす事件にも通じるように思われます」とするプログラムの解説は、最も重大な事象を見落としていることになろう。モノである他者の価値観など考察しようともせぬが、その反面、判断停止の快楽を貪るため、苦もなくその他者の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようなどとする愚者。成れの果てがこのザマ、とは、いささか冗談が過ぎるであろうかな。ハハハ…。