平成十二年四月公演  

第一部

通し狂言『恋女房染分手綱』

「能舞台定之進切腹」
 口は御簾内で文字久と喜一朗。文字久は声が大きく通るし、師匠の如く詞章を明瞭に語尾まできっちり語ろうとする姿勢もあるからよくわかる。しかし残念ながら地は三味線にベタ付きで詞は変化に乏しく、要するに浄瑠璃として聞いていて一つも面白くない。これなら観客が床本を黙読して頭の中で世界を構築する方がましだろう。演劇部員なら早口言葉や活舌で鍛えるべしというところだ。喜一朗の三味線で何とか仕上がったという印象である。
 奥は清治、能舞台では津国と南都がツレに出る。三者ともに音吐朗々、さすがに心得た布陣である。三味線の為所は二ヶ所のみ。それだけにかえって難しい。まずマクラの「思ひは重き重の井が〜涙を包み声を上げ」のところ、まさしく「心の内の悲しさ」を描出できるかどうか。そして切腹した定之進が衷情を語るところ、娘を思う父の愛=定之進かしらの性根を表現できるかどうかである。両者もし仕損なうと、この一段はただただ能楽を人形浄瑠璃と併せて楽しめる一粒で二度美味しい某菓子的な意味しか持たなくなってしまうのだ。公演前半(8日)では未だしと思われたが、後半(22日)においては成功し、とりわけ後者において三味線のあしらいの手のニジッタ音が抜群で、その左手の働きによって父性愛をじんわりと観客の胸に届かせたことは特筆に値しよう。太夫は謡曲部で舌を巻かせるが、この一段のすべてを凝縮した「作りし罪も消えぬべし」の詞章の重みを十分承知していたから結構である。人形は玉男の定之進が能役者と父親との両側面を見事に表現する。かしらの性根を的確に遣うのはさすがに座頭である。今回は「酒屋」でも娘お園を思う定之進かしら宗岸が登場する(現代ではこれを重複とは称さず、懇切丁寧な親切設計と賞賛するという約束であるらしい)ので、なおさらである。文雀の重の井も父の厚恩確かに身に沁みてはいたが、この人の常として細かいところには傷もある。例えば定之進が駕篭へ順逆に乗るところ「コレナウ父様血迷ふてか」で全く驚きが見えない。三味線のゆったりとした手にノッて遣っているのはわかるのだが、やはり極僅かでも「血迷うてか」相応の動きは欲しい。これは床の語りにも言えることで、段切りの旋律にノリながらそれを表現する業は未習得であった。その他の人形は総じて無難である。

「沓掛村」
 家の主人の惣領子を預かり守り育てるということがどれほど辛苦な言動をもたらすか。封建主義は絶対悪だ、公のためとは個人の抹殺以外の何物でもない、との曲解が正論と化した現代日本にあっては、この一段が上演されなくなるのももっともである。善意と想像力を喪失し、(本当は他者および他者との関係性=共同体なしには成立しない)自己というものの欲望と快楽を追求することのみが正義であるとする現代日本人に対し、この一段が面白いと思わせるためには、登場人物個々の鮮やかな表現しかあるまい。そしてまたそれを現出するためにはカワリ(と必然的にそれに付随する足取りと間)が最重要ともなる。それを住大夫が見事に語り、錦糸の三味線も補佐するだけでなく、先に行くところ締めるところをよく弾いてのまさしく女房役であった。母への無類の優しさを持つ馬方八蔵は忠義一途な奴一平であり、しかも座頭文七かしらであるということ、これが正しく踏まえられていればこそ、マクラ一枚の描写がもう手応えあるのであり、それに続く八蔵の詞が聴く者の胸に迫ってくる。そうでなければこの後の掛乞の涙は絵空事になる。八蔵の母与之介の乳母の詞も同じく、「そんなことおれや見たうない」ここにすべてが凝縮されていなければ、直後のクドキ詞に与之介が嘆き沈むまでには至らないであろう。そして夜中一人で刀を研ぐ八蔵の鬼気迫る恐ろしが、母と慶政はもちろんのこと観客の心にまで徹し、八蔵の切り取りが為と誤解するほどでなければならない。誰も八蔵がそのような性分の男でないことは分かっている。分かってはいるが、あれほどに語られては(そして人形を遣われては−ただし今回の玉幸はそこまで至らず−)そう直感せざるを得ないのである。錦糸の三味線もそこを弁えているはずだ。刀を研ぐ音が本物そっくりで実にうまかった、などと評されたならば、これは失敗だったと思わなければならないのである。ざっとここまで斯様な次第である。細かい技巧でも、「火を吹き起こす」の擬音、座頭の引き笑い、啖呵の咳、「八蔵どん許して下され」以下の詞、そして官金の書き付けの灰を吹く音、「今のはなんの音ぢやや」にこもる無限の恐怖心の描出等々、どれをとっても簡単ではない。しかもこれほど恐ろしい浄瑠璃を淡々と語り出さねば「沓掛村」の雰囲気はまるで表現されないのである。住大夫は詞の端々まで明瞭にきっちり語ろうとするから、場合によっては次へ次へと続いていく浄瑠璃の流れを滞らせもする時がある(実際公演前半には睡魔に襲われる危険もあった)のだが、公演後半にはどうやらこの十八番を棚卸しして埃を払い一から磨きを掛け直したのであろう、マクラから段切りまで実に鮮烈な印象とともに聴き終えたのである。そこにはまた錦糸の三味線の努力もあり、うまく住大夫の浄瑠璃を流れに乗せていた。三味線主導の部分も確かに感じ取られたし、これは実に快挙である。住大夫ほどの浄瑠璃ともなると、どうしてもその幅に引き込まれておしまいになるのだが、立派なものであった。人形では母の玉松が納得のいく遣い方で流石はベテランの味を出していた。八蔵慶政は「坂の下」で、与之介は「子別れ」で触れることにするが、ここではとりあえず慶政に一日の長があったとしておく。これはかしらの性根を表現できたかの差でもある。文七かしらは座頭級だと再度書き記しておきたい。

「坂の下」
 伊達大夫喜左衛門。喜左衛門の三味線はすばらしいと賞賛することはできないが、伊達大夫と組んだこの場という限定付きでみると雰囲気を醸し出していたし、運びもうまかったように思う。勝平当時の将来性からいえば残念な気はするが、端場を弾き活かしたり、中堅若手に浄瑠璃とはどんなものかを直接床でわからせるといった役割を担うのも重要である。今後とも期待したい。さて、伊達大夫には最適の場であることは言うまでもない。八平次が写り慶政に味わいがあり八蔵の誠心を描出しと、これらは期待通りであった。伊達の良いところは、毎回必ずこちらの予想以上にハッとさせられる点があるということなのだが、今回は慶政がそれであった。苦痛の表現が迫真で、客席全体が八平次の残酷な仕方に耐え兼ねていたというだけでも上出来だが、この一段いやこの作品全体の柱でもある慶政の告白が、衷心衷情溢れ出るすばらしいものであったのだ。伊達の惣領である与八郎こと慶政は、病身・眼病であろうとなかろうと、己のことのみ考えるのならば、そのまま地位に留まって一生無難に過ごすことも可能であったはずである。しかし伊達の家名を考えると、あるいは父や弟の心配りを思うとき、彼は出奔を決意したのである。つまり、自分という存在は自分が存在するから成立しているのではなく、他者の存在があってはじめて自己が存在するということである。現実存在(現在)としての自分の幸福追求を最優先するとき、過去とは現在の絞り滓でしかないし、未来とは現在に供せられるべき生け贄としての意味しか持ち得なくなる。現代の欲望快楽全面肯定全開主義こそがその最たるものである。その結果、世代間の断絶は決定的なものとなり、地球環境問題は先送りされ続けて深刻な事態に陥るのである。なるほど坂の下での慶政の横死はあまりにも無惨であり救いようがない悲劇であるように見える。現に戦後日本にあってはそう思われたからほとんど上演されなかったのである。が、「家を思ひ弟を思ふ慶政が志は埋もれまじ」の詞通り、慶政は他者規定によってのみ得られる自己規定を実現し、見事に自己の存在証明をしてみせたのである。この慶政の死を嫌悪して受け入れられない心の持ち主、それは出エジプトを拒絶する日常性の奴隷であり、かつまた、それこそが老人を粗大ゴミ扱いにし、地球を食い物にしてボロボロに破壊する張本人なのである。本当の自分とか自分探しとか、内に向かって螺旋階段を下りて行っても、果ては虚無の地下牢という行き止まりがあるだけだ。自己は他者関係の中にこそある。他者にとっての他者。21世紀は20世紀人が陥った自己という蟻地獄から這いあがる新時代でなければならないのだ。以上すべては、伊達大夫の語る慶政に熱い血が流れていたればこその考察である。人形浄瑠璃が前時代的であるとか封建的であるとか、そういった評(というよりも感じ方)を見聞きすると、ここ何十年間でよほど強力に(いや巧みにと言った方が適切か)偏見の刷り込みが行われ続けていたのだなあと思わざるを得ないのである。しかしそれも今回のように大夫(三味線・人形)がきっちり勤めてくれれば、逆に大いに蒙を啓かれることにもなるのだから、やはり三業の責任は重大と言わなければならないだろう。さて、人形は文吾の慶政が一日の長。座頭の感じを出しながらも卑屈にならず、かつて与八郎たる意気をも失っていなかった。「沓掛村」は納戸で八蔵と母の話を聞き、官金を灰に埋めるあたり、「坂の下」は生命力のすべてを絞り出した告白のところ、ともによく遣っていた。玉幸の八蔵も敢闘賞ではあるが、シテとしての力量には今一歩であろうか。遣うところと遣わないところがともにより明瞭になればと思う。玉女の八平次は大きいが、不敵さと憎々しさが物足りない。小団七かしらの性根を今一つ表現しきれなかったか。やはりこれは簑太郎かあるいは玉也の持ち役だろう。

「道中双六」
 やはり通し狂言だとマクラの「経つ年月も巡り来て」という詞章がそのまますっと入ってくるし、この華麗な一段が八蔵慶政物語の気分転換・気散じの役割を持っていることもよくわかる。まず本田弥三左衛門からして面白く造形されている。全身緋色の正宗かしら、それが千鳥足で登場し、関東の田舎言葉(入間殿の現地家老である)でしゃべるのだから。そして嫌じゃ姫が駄々をこね、江戸三界を歌舞させ、その上で馬方三吉の登場となり、床はツレが加わって賑やかに道中双六になるのである。何とうまい構成ではないか。浄瑠璃作者の手腕見るべきである。さて、そこを英燕二郎が呂勢清志郎のツレで勤める。家老本田は失敗。人物が写らないのは年齢的に大目に見るとしても、変化がないから単調たることこの上ない。作者苦心の語尾の「べい」等もほとんど活きてこなかった。しかしその他は概ね合格点であろう。あと道中双六で呂勢も清志郎もシンの大夫三味線と少々張り合いすぎた感がある。やはりツレはシンを重層化し浄瑠璃にふくらみを持たせるのが主眼であるから、やや競合して聞こえてきたところがあったのは、やはりもう一歩だったと言わざるを得まい。とはいえ切場へのオクリの詞章「慰みありける道中どつと興にぞ入り給ふ」がそのまま観客にもあてはまったから、全体を通してはまず成功とみてよいだろう。人形については後述するが、踊り子の一輔紋若がそれぞれ師匠の遣いぶり故に微妙に異なっていたのが興味深かった。もちろんそれでよいのである。

「重の井子別れ」
 ヲクリで四段目、しかも音のニジリ方で大和風ということも示される。そしてこの「恋十」は大和風が徹底されていなければ(大和風に語ろうとする心がけが少しでも実践されなければ)、情感までもが減殺されてしまうということが、今回嶋大夫清介の床によって証明さたのである。「風」の意義が実証されたといってよいかもしれない。公演前半の嶋大夫はともかくも三味線から離れること、三味線の音高から微妙に上を行くことに神経を集中していた。そのたゆたいが重の井と三吉の心模様を描き出し、きっちりとツボに嵌まらないことが互いの本心をかっちり噛み合わすことの叶わぬ境遇を表現する。三味線の豊かな妙音が通奏低音として観客の心を揺り動かし続けた上に、大和風の音遣いがそこから情感を掴み出し、それが涙となって溢れ出るという、感動の一段を作り出ていたのである。ところが公演後半は熟れてきたということであろうか、むしろ詞に勢力を注ぎ、例えば冒頭で言うと、「ヤアござろうと仰つしやるか」をより誇張し、「ドレドレ三吉」と探して「そこにか」を確認の強調表現とするなど、工夫が見られた。一方音遣いはベタ付きが耳立つようになり、冒頭からそうであったが、例示すれば、「今は近江の馬借に奉公しまする」「又さめざめと泣きけるが」「夫婦の義理を忠義に代へて」などである。また母子の思いを強く表現しようとしたばかりに、「奉公の身の浅ましやと悶え焦れて嘆きける」のスヱテなどむしろ騒々しいという感を持った。そして客席のすすり声や涙を拭う仕草は前半の方が明らかに多かったのである。後半は客席から声も掛かるほどであったし、公演の常として後半の方が熱気があるにもかわらずである。個人的に言えば、前者では最初の三吉の詞ですでに目が潤んだのだが、後者では結局段切りまで床と手摺に置いて行かれたのであった。もちろん「沓掛村」「坂の下」での燃焼度とも関わるであろうけれども、大和風浄瑠璃に乗り切れなかったことが最大の原因ではなかったかと考えるのである。正月公演の「林住家」駒大夫風はいわば雲の上を歩く感じであるが、「恋十」大和風は地上から少し浮いたところを微妙に上下しながら行く感じである、とでも言おうか。(もっとも明確に音高や旋律形で表されなければ無意味であるといわれればそれまでであるが。)いずれにしても、西風でツボの音高きっちりに、かつ、ギンの音へ行かずにウレイのツボを中心とする語り(三味線)にした場合、両者ともに情感は伝わって来ないであろう。突拍子も無い例で恐れ入るが、ベートーヴェンの「フィデリオ」が地味だからモーツァルトに曲付けさせれば華麗に変身するだろうと考えるようなものではないか。これではドラマそのものが台無しになることもまた自明であろう。結局嶋大夫が清介に三味線を弾かせておいて自分は付き離れ(とりわけ離れ業)に神経を集中するとした公演前半、母子のドラマを追求すべく詞に重点を置いて地もまた力一杯に気張った公演後半、とまとめることができようか。「風」だ何だと難しいことを言ってみても観客の耳には区別など付かないのだし、それよりも筋立てを徹底させた方がよっぽど客席の感動を呼ぶことが出来る。この定説こそが実は妄説であり、いかに「音曲の司」たる浄瑠璃をバカにしたものであるか、そして肝心の観客の感動をも十分には引き出せないということが明らかとなったのである。その意味からも本公演の「恋十」は画期的であったと言えよう。さて人形陣は、文雀の重の井が三吉との対面に全勢力を注ぐのだが、「姫君様のお乳の人」としては少々がさつではなかったか。溢れんばかりの親心は十二分にわかるのだが、あれでは三吉ともども「備後表」で滑ってしまうのではないかと危惧したほどであった。その三吉は呂勢嶋の語りも相まってよく遣ったと言えよう。家老本田の勘寿は悪くないが逆に床で損をした形か。段切りの馬子歌に重の井が映し鏡、聞き入る家老本田等の胸にしみじみと応えるものこそ観客の涙に他ならない。この「恋十」至上の場面は今回6割強の出来であったと見もし聞いたのである。
 

第二部

『日高川入相花王』


「真那古庄司館」
 役所にとって前例があるというのは実に便利なもので、この一段もまたかつての東京国立に倣ったと言えば、何らの理由付けも強弁も必要ないのである。そもそも明治十二年にはこの一段の後にちゃんと「道成寺」の段が付けてあり、清姫の悲恋犠牲物語を完結させているのであるから、それはそれで十二分に納得のいく狂言建てなのである。つまり東京国立での復活上演自体がどうにもならぬ代物であったということだ。(とある説に曰く、そんなものを再上演して喜ぶ存在を考えると、さすがに大阪文楽劇場も国立だけあって、どこかの警察や役所同様、見事なまでの官僚体制ぶりを見せてくれたものである、と。余りにも穿ち過ぎた見方ではあるが、李下の冠、瓜田の履という意味で、敢えて掲載しておく。)それにしてもこの一段のおかげで、桜木親王をめぐる国家的事件はどのような経緯であり、かつどのような展開を見せるかが知りたくてたまらなくなったのだが、後にも先にもこの一段が丸坊主で出てくるだけなので、やむを得ず国立劇場芸能調査室発行の「浄瑠璃作品要説」を持ち出すことになってしまった。なるほど、これは観客に動機付けをしておいて後は自学自習に任せるという、実に教育的な配慮であったわけだ。制作担当者の深謀遠慮にはまさに脱帽である。また、筋書きも節付けもどうということのない、この既に死んでいる一段を活用するために、才能も経験もある「又助住家」や「廿四孝三段目」を資料室送りにしての今回の狂言建ては、企画力のある画期的なものであったという世間の評判を得ることが出来たようである。(個人的には観客動員増収入のためのなりふり構わぬ飢餓的・餓鬼的な手法と映ったのだが…)
 それでも何でも床には大夫と三味線がいて、手摺では人形が遣われているのだから、評しておかねば失礼にあたろう。口の三輪大夫と弥三郎だが相も変わらずと言ったところ。立端場の奥は咲大夫富助。ソツのない咲大夫と切っ先鋭い富助に任せておけば決して破綻することもなく、ひいてはそれが今回の狂言建てに対する非難からの避難をも可能にするという、これまた深謀遠慮である。しかもこの一段だけのために玉男、作十郎、一暢、和生、玉也が出演しているのであるから、その意図するところは明白であろう。

「渡し場」
 今回は当然前段の三重「跡を慕ふて」で道具返しとなり、緊張感と切迫感を持続したまま、この一段へと続くとばかり思っていたのだが、何と前段で幕を引いてしまったのである。『朝顔日記』の「宿屋」から「大井川」とは内容的にも比較にならない凡作ではあるものの、ドキドキワクワク感という点からは同じレベルを観客に与えることができたかもしれない。それなのに幕を引いてしまっては…。その理由は明快で、この一段は前段と直接続く原作ではないということと、たとえ原作であったとしても、桜木親王とおだ巻姫の道行が挟まるからということである。もはや一言もない。津駒大夫の位置付けは今回もやはり景事の津駒大夫であった。狂言の建て方が改まらない限り、津駒はこのままの津駒であろう。貴はやはり女声より男声の方が面白味がある。巧まざる外し方がそれなりに写るから不思議だ。団七もこの建て方ではこうなるであろう。八介もこの二枚目だけではもったいない。人形の清姫は紋寿だが、これはともかくも前段が付いていることを見事に活かし、清姫の性根をきちんと掴んだ状態でこの川場へ来ているのがすばらしい。将来の別書き出しの風格さえ感じさせる遣い方でもあった。渡し守の玉女はもっと生臭くてもよいが、これはやはり簑太郎の領分か。今回特筆すべきは道具方の働きで、川波の表現もよく、段切りの道成寺春景も目を驚かすものがあった。やはり「渡し場」は立派に追い出し狂言の格を持つ一段である。
 

『艶容女舞衣』

「酒屋」
 端場の千歳宗助のコンビは今回もまた予想以上の好成績であった。まずマクラの「大和五条に名のみして」「格子作りも小作りに」「看板も辛き渡世なり」お見事。詞章をよく読み、語り活かしている。続いて丁稚の詞から歌へのカワリ、「余念たはいも」「納戸より」のここのカワリはまた鮮やか。そして女房の詞から丁稚の地、情景描写から三勝の出と、足取りや間のすばらしいこと。素浄瑠璃で聴いて十分な表現力を持つ中堅クラスは他にあるまい。描写力が生きている証拠をもう一つ。五人組の詞「コリヤ流行りませうわいの」「捨て子のつつもたせぢやないかや」で客席が受けた例を、寡聞ながら知らない。
 切場の綱大夫清二郎。綱大夫風がどういうものかはわからなかった。ここまで語り尽くされると「風」も何もなくなるものか。三味線を派手に弾かして大夫は沈んで語るというのだが…。ともかくマクラから。「入相の鐘に散り行く花よりも」遠い鐘の音に盛りの桜が散って行く夕刻の物憂い気分、よく表現できた。それが語れれば必然的に宗岸およびお園の心象風景をも描写することになる。以下、半兵衛に婆を加えた四人の会話もしみじみと進んで行くのだが、半兵衛がそれほど強く当たらず、宗岸は逆に軽々とした感じがどうも重く堅いような。お園のクドキは想像(というより危惧)した以上によく語り、美声を振り回すやり方ではないしみじみとした情愛に包まれていたのはさすがである。ただ公演後半では少々持ちすぎのきらいがあって、人形の動きが間延びしてしまったのは残念であった。あと気になったのは書き置きの場となって宗岸が「なんとしてもマアこの半七は善右衛門を殺しましたぞ」と嘆く部分。綱大夫の語りは、何でそんなバカなことをしたんや、おかげでお園は処女妻のまま後家やないか!との不満・文句に(二度とも)聞こえたのは如何なものか。このあたりを含めて定之進かしらの造形に少々疑問が残ったのである。ところで、段切りに十内を出して三勝半七の悲劇を強調したとパンフレットにはあるが、これはむしろ当然のことであって、段切りの詞章を読めば従来の語り方がいかにも継ぎ接ぎであったことは一目瞭然であろう。これでこそ、端場冒頭の部分と見事に呼応した、一編の叙事詩的世界の完結を見るのである。人形は簑助のお園が至上であることは言うまでもないが、病後あの鋭い鮮やかさが後退した反面、逆にお園の沈潜した抒情、まさに「夫を思ふ真実心」が作り事ではなく、お園の身振りから滲み出てきていた。その他にも簑助の遣う人形は実に行き届いている。例えば、出の「疵持つ足の踏みどさへ低き敷居も越えかぬる」では宗岸に導きを頼み、書置の場面「うちよりぱらりと落ちたる一通取る間遅しと封押切り」ではハッと気付いてから行灯を取ってくるまでの一連の仕草、等々。ともかく今回の第二部は簑助のお園ですべて救われたといってもよいだろう。宗岸の文雀はどうということのない日常性こそ宗岸の性根とも見えたが、もう少し情愛がそのまま溢れ出てもよかろうと思う。半兵衛の玉幸、物堅さは表現できたが、半七の身代わりを咎められて「ヤア」と驚くところ、ハッとしてすぐまたパッと元に戻るなど、少々形式的に過ぎたのではないか。婆の勘寿、これは様になっていた。半七の玉輝と三勝の清之助とのコンビは抑えた表現で、立場も悲哀も感じさせる佳演であった。
 

『契情倭荘子』

「蝶の道行」
 死後の道行という設定もこの一段だけでは徹底せず、詞章を読めばわかるというのも酷であるし、別にどうということもない。華麗に激しく舞う蝶々二羽という文吾・簑太郎であったし、床もそうであった。それならば揃いの肩衣などもいつもあの地味なものの他に、もう一揃いは国立側で用意してもらいたい。またシンの団六には、二枚目が清友であるから、替手やオクターヴ高の旋律等大いに弾いてもらえればとも感じた。しかし今回は呂大夫とともにリハビリ場でもあろうし是非もない。松香は松大夫の弟子であるという過去を今更持ち出してもの感。咲甫の馬子唄も別に悪くないが感心もしなかった。
 夜の部の入りが悪い上にこの狂言建てで公演前半の第二部とするというのだから恐れ入る。客の入りを悪くして文楽の経営危機を言い募り、どんどん効率主義収支至上主義を押し進めようとしているのではないか、とはまたしても穿鑿好きの物言いではあるが、これもまた李下の冠、瓜田の履と記しておく。哲学も世界観も喪失した20世紀末の日本にはこの程度の狂言建てがお似合いといえばそれまでだが、衆愚政治でも民主主義には違いないと大見得を切られるのであろうな。