浄瑠璃仁勢物語

<碧翠亭>

−第一段−
むかし松王と言ふ男ありけり。
心猛くまめまめしきさまにてありけるが、
事に当たりて図らずもままならぬことなむ出て来たりける。
それを忍びて居たりけるほどに、
「何とて松の」と言はれ奉りけることのあまりに耐え難くて、
つひに誠をあらはせる時に詠める、
  この首に写す思ひの届きしか浄瑠璃玻璃の鏡にて見む
(勘定場)
松王が妻女も野辺のをくりの時、熱き涙をのごひて、
背の君にかへして。いかなる思ひやありけむ、
    いろはにほ屁とも思はず児太郎が身代り首の役に立てれば
昔人は、かくたけだけしき宮仕へをなんしける。
(さるんど)
これは松王夫婦が菅丞相の旧恩に報ぜんとしての行ひなり。
芹生の里に隠れ住みたる源蔵夫婦とかや、
丞相の一子菅秀才を匿ひ居たりけるに、
事顕れて厳命をこそ受けたりけれ。
はじめ身代わりを立てんと心を砕きしも、
片田舎の山家育ちにてはその甲斐もなく、
主の源蔵天を仰ぎて、
  首打てとうり言葉にぞなすすべもなき夜のおもひいも寝られざる
とぞ詠みたりける。
(勘定場)

−第二段−
むかし帯を商ひて住みわたりける男ありけり。
ある時田舎わたらひしたりけるに、
石部の宿屋にて、
本意にはあらで娘と契り交はしてけり。
あまりにあさましきことと思ひたりけるに、
女のもとよりかくなむ、
  君や来し我や行きけむ思ほえずみな口の葉に言ひはやすらん
(勘定場)
その男の妻、人づてにききていはく、
  あはれともいふべき人は君か我か 身のいたづらになりぬべきかな
その心の思ひ、ふかきともやさしとも。
(室の梅)
さてその男の母と言へるは継母にて、
連れ子一人持ちたりける。
何とぞこの家の身代を乗つ取らんと願ひけるに、
その男隙もなくて、空しく日も過ぎにけり。
かかる折に思はずもうれしき噂を耳にしてその母、
  虎石の固き身持ちと思ひしに押し口実によき便りかな
(勘定場)

−第三段−
むかしをとこありけり。年近き高安の後妻、不埒にも次郎君に懸想じける。
鮑貝の盃にて毒酒を勧め参らせて、たちまち二目と見られぬ御顔に変ず。
女いふやう
  やまひにて顔に散りけるたゞれをば薄紅梅と恋しくぞ思ふ
(さるんど)
をとこ、返し
  継母上の心あやなし梅の花色見て後にかく恋ふるとは
(勘定場)