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【 中尾鶯夢 人形浄瑠璃新談 】
(2007.10.27)
人形浄瑠璃新談
中尾鶯夢
趣味 5巻7号
人形浄瑠璃の衰退は年と共に著しく、文楽の近頃は関西興行界の覇を称して居る松竹合名会社の手に落ちて、やゝ基礎も堅く興行区域も拡張したものゝ肝心の芸人が乏しい、太夫、三味線弾、人形遣等凡て過渡時代の名人上手の多くは世を去り、太夫側でひとり踏止まつて居るのは日本一と誰も許して敬意を表する摂津大椽、文楽の人気は実に此太夫一人で持つて居るので、越路が近来の進境目覚ましく美音の誉れ高きも未だ及ばざる遠く、津は老朽し染は凋落し、七五三、南部の若手連やゝ聴くに足るのみの無人、こゝ三四年は頗る聴客(きゝて)を減じ開演一ケ月以上に続くの興内は稀れださうな。
摂津の芸の持囃されるのはある意味より言へば、若し今日聞いて置かねば再び仝じ狂言(だしもの)を聞くことが出来ぬかも知れぬとの心配から聞くので、恰も団十郎存世の末年迄の型を貽(のこ)すべくいろ/\の役を勤めために、人皆後学の為に見て置かうと出懸けしと同じ趣(おもむき)だとは、既に識者の説破されし所。摂津が声で語つた頃は左程には賞美されず文楽の独占時代なりし三十六年頃越路より今の摂津に改名披露の興行が満都の人気を蒐め、技芸も円熟との好評嘖々であつたも束の間のこれや実に掉尾の盛観に過ぎず直ちに老衰に捉へられた、老後の彼れは音声減じ艶失せて唯巧者や上手で語つて居るのみだ、彼れの「新口村」の孫右衛門が真に迫つて写されたと評されるやうでは人形浄瑠璃も頗る不安で、文楽の興行主は越路に自重自愛一層の研鑽を促して摂津沒後の計に留意して居るとは心細い沙汰だ。
転じて三味線弾では広助死し高弟広作名を襲(つ)いだものゝ技芸の師に及ばざる遠く、吉兵東独り沽券を保てど野沢派の勢力は豊沢に及ばず櫓下に据(すわ)る一事に至つて苦情を生じ、憤然名誉ある摂津の糸を辞して二三年前帰東して遂に沒した。人形遣では棟梁玉造の世を去るに及んで文楽の名物男は摂津の他は紋十郎を残すのみで余は大概失つて了つた、栄三近来腕勝れて前途有望を以つて目されてるが未成品で玉治郎門造は見込が有るとだけ、文楽現今の人気は畢竟摂津と紋十郎降つて越路で維持して居るが此儘の姿では流る、月日に関守なし、摂津紋十郎のある間こそ夢も見て居られやうが摂津大椽とても今年は七十四歳、一朝退隠したら紋十郎の芸ありとも施すに所なしであるまいか。
曩(さ)きに廿七八年役就中卅七八年戦役は修業中の咽喉(いんこう)のたしかな倔強の将来有望なのを奪ひ去つたのでいよ/\後進誘掖の必要を一しほ感ぜしめ、再度の失敗にめげずにやうやく今日の堀江座を見るに到つたのが即ち大隅伊達の一派なのだ。伊達等一派の若手太夫は文楽連の守旧頑冥なのに慊焉たらずで大隅太夫を統領に頼み彦六の再興を画したもはや十年前の夢、その後明楽座の旗掲となつたがこれも内輪揉めと時期を得ないのに破れ、今より五年前漸く角、住、伊達、春子、雛錣等は不撓(ふけう)の決心で若手太夫の修業場といふので、昔から人形浄瑠璃に縁故が深く西南の役頃迄は、綱、古靱、浅の各太夫等が全盛の根城であり、一時廃つて土の腐つた後三宅の手に渡り、京榊屋三桝沢之丞坂東簑助から新演劇中村秋孝木村猛夫、小神、桜木等の常打劇場(じやううちこや)であつて沒落した現今の堀江座、彌小住木津谷吉兵衛の両太夫を後見仕打と両腕に頼みて人形浄瑠璃再興が好運の満潮に帆を掲げ、一時劇場は改築する大きさも従前に倍する、毎興行の好人気で一同必然の勉強、兎に角押しも押されもせぬ一城堡(じやうるゐ)となつたが、間もなく裏が来て反動やら惰気やら現今では余り振つては居ない、太夫は前記の外に大隅太夫を上置とし此頃大島も加はつた、三味線では東京に居た仙左衛門の団平吉三郎、八助、人気男の竹三郎、政二郎等で、手摺には玉松、簑助、兵吉、兵三等だが、要するに孰れも未成品の前途有望な若手である。
人形浄瑠璃は恰も能楽と同じく最早発達の余地がないと云ふ人があるが、成程厳格なる格式がありそれ/\小むつかしい型が儼存して一歩も圏外へ出づるを許さない上に、東京は東京大阪は大阪とそれ/\の格や型や慣例がある。しかし革新の余地は充分あるのみか第一時勢に適応しない点だけでも改良して欲しい、それを格とか型とかを小楯にとり師の教へを鉄堡(てつるい)に、何等施す術も策も講ぜず唯保存するとばかり、会々(たま/\)志そこにある者も仲間弾(はぢ)きや先輩の攻撃、陳腐な死物の型などを喋々して巧者がる俗衆を怖れて尻込みする。こんな状態では過渡時代の名人のあるうちに兎に角その命脈を繋ぐ事が出来やうが、これ等名人の去つた後は如何する乎等と想ひ及んだら今の間に覚醒すべきであらう。殊に大抵の太夫が不熱心で道楽半分に遣つて居る証拠には、渠等(かれら)がいづれも他に本職の商売を営むで射利の道を計り、義太夫は片手間に内職の小使取といふ太夫の多いのには呆れざるを得無い、これでも芸術家がつて相応に腕を磨き芸に熱する事をせずに給金を貪る等は沙汰の限りである、茲に可笑しいのは染太夫の光[先]代は声に心+檀ひ癖のある人であつたが、この癖がないから今のは染太夫になつて居ないから彼は語るに足らんとて、染太夫はつひにこの悪い旧い癖までも強ゐられて遂に大成せずに凋落したなどは寧ろ滑稽である。また斯道の先輩などが無暗に師匠風を吹かして革新を忌み後進発展の途を沮害して居るのも、今日の不振を招致した確かな原因であるのは悲しむべき事だ。
徒らに師匠の型だの格式だのと儼(きび)しく唱へて、不自然な語り口や誇大なる表情を恬と恥ぢない上に、イビツ声を得意と引のばして澁がる等は時勢に適応為ない甚だしいもの、現に芝居でも故人の有名な型の不自然や誇大(こうだい)の表情等は遠慮なく改めて喝采を博して居るでは無いか。長子の寺子屋で松王が、
詞「サア松王丸しつかりと検分せよ」と忍びの鍔元くつろげて虚と言はゞ切り付けん実といはゞ助けんと片唾を呑むで控へ居るの次に
「フヽハヽ何の是しきに性根(こんじやう)処か・・・・・・」のこの笑ひを、時平の七笑そこのけに巾びろく約十余回を繰返した如きは、咽喉の丈夫な続く自慢の一種の巧者側(くろうとがは)への当込であらうが、馬鹿々々しくて今の聴者(きゝて)には堪へられない位だ。又彼の客静(むしづ)めに用ゐてるオクリとか語りの枕なども不自然なもので、有楽座の様な賞(ほ)め言葉を制し合つて語りつぐ間の拍手に代へる上品客には、たしかに不必要で今に廃れて本文から語り出すやうにならう、伊達はたしかにこれを廃してるやうに聴いた。
現時の東京の聴客の八分までは声の美いのと節廻し俗に云ふケレン節を喜むで居るからとて、其人気に合ふやうに力(つと)める太夫等は知らず/\の間に芸が崩れて来る、太夫の語り様が乱れるに連れ三味線弾のチン/\と弾く処をチリチンなんどと弾き崩すやうになる声や節を喜ぶ客に媚ぶる芸人は下の下なるもので、ケレン節で歓迎された朝太夫の人気が廃つたのにも知るきだが、さりとて詞や思入など強て皮肉な処を様し出し褒めたがる客に媚びるのも中なもの研究練磨の技芸を熟考し工夫を加へて夢にも一時的人気を求めるなどの野心は棄てゝ貰ひたい。又長唄や清元節の三味線の手にチテテン等の妙処があらば、或は裏をゆくとか然るべく研究し芸太夫に消化し応用するのは強ち曲事(ひがごと)とのみ退くるにも及ぶまい東京では太夫の行儀をイ+厳しく云ひ故綾瀬式の扇子を膝の構へ等を賞める、成程これは娘義太夫的に首ふりの髻(かもじ)の根を切り乱すなどの不作法は戒めねばならぬ、先年摂津大椽が歌舞伎座へ乗込むだ時例の見台へ延上つたり張子の虎のやうに首を振り廻はした、その不作法を観彼(かんぱ)され攻撃の手強きに面喰つたものゝ、義太夫は地合に情を写して語り聴者(きゝて)に満足を与へるのだから、適度に体のなをつげ振に語勢や咽喉(つゝ)の円転(ころばし)をたすけるのは差支へはなからう、寧ろ聴者の快感をたすけ無理に苦しい語り振の悪感を免れしめる。
聴客(おきやく)の聞き方も近年余程進歩して東京等では、娘義太夫(たれぎだ)の席は論外だが大抵相応な客種ならば、懸け声がやむで拍手にかはり、決して語り納めぬ最中や高潮の際に打込まず、語り納まる間を待つて拍手する。それを大阪では所謂通自慢黒人がりの賞め巧者(じやうづ)とあつて、この太夫ならこゝが妙点(うまいとこ)で賞め所となるや語るも聞かず、百雷の一時に落し懸けて騒々しい事言はん方なし等は、聴きに往き居るに非ずして賞め自慢の修業にゆくもの苦々しき沙汰の限りで、真面目に聴き居る客の妨害となり迷惑を思はざるの甚だしきもので、太夫も賞められて嬉しからず一生懸命延上つて語り落す最中を客に聴へぬ様にされて立往生、この点は厳に大阪の浄瑠理狂を戒めねばならぬのである。
伊達が昨年吉野川の鮎狩かた/\大和の五條へ往き、望まれて一夜同地の劇場で『壼阪』を語つた。「折しも阪の下よりも詠歌を道の栞にて」から
「エヽまゝよ、憂が情か、情が憂か、チンツンツンツン、チチンツチツンツン、露と消え行くテチン・・・・・・」
と懸つて来ると両桟敷の客から賞める懸声が湧くと見ると、場の中央へ五十位の老人がヌックトと立ち両手を拡げ待つたと叫むで制したので、伊達は何事が起ると案じながら
「我身の上は、チンチチチリンツ、テチリツテン、トンシヤン・…あいた・・・、あしまうた、今つまづいて跡の間の手皆忘れた、ハヽヽヽヽヽ」「ヲホ、、、」
の笑ひが済むで「と歌を暫しの道草に、御本堂へと登り来て・・・」と語らうとすると、サア此処だ賞めろと号令した事があつてその時はこんな知人が田舎にもあるかと、嬉しいやら怖いやらと云ふて居たがこの老人こそ真の聴客(きゝて)で芸術を尊ぶもの斯道に通なるは知るべきのみだ。
声の研究に就いて伊達が経験する所に見ると、太夫等の声は弾性が強い音で電話などには少しも通じない、殊に濁音となると一切だめで遠耳にも利かぬ耳遠き年寄等には皆無通じないのが、却つて義太夫の節廻し等は自在に語れる。之に反して一本調子の奇麗な美しい声は充分に使つて決して潰れないが、節廻しは出来ないので義太夫には不適当なのだ、仮令ば女の声の多くや歌舞伎の羽左衛門、新俳優で一時大阪て毒婦で売出して居た木村猛夫等の咽喉がそれで変化に乏しいから義太夫声としては客の感興を惹くに足らぬ。殊に大阪では国訛りを甚(いた)く忌みてまづ言葉の訛りを除く事に苦心をする、つまり義太夫を語るべく遂に大阪訛りに化せられるのだが何だが可笑しい、訛り/\にそれ/\の美点があるのゆゑそれを巧く活用すれば却つて天性自然の地声を傷けずに、その美を発揮する事が出来る上に技巧で活かされもするのを、無暗に訛りを除くのに無理な苦痛を忍ぶのはまだ研究の進まぬ欠点ではなからうか。今に進むで往けば劇(しばゐ)で女役に女優が扮するの自然である如く、義太夫も女の詞や地合は女太夫か語る方が自然である、仮令ば『酒屋』のお園のさわりの如きは女太夫の方が確に情が含まれて、聴宜(きゝよ)くなり感応も深く客に却つて歓迎されはせまいか、伊達は一度この男女合併を試演して見たい希望を懐いて居る又渠れは有楽座の構造の義太夫を語るに頗る適し、語る太夫の咽喉の楽なことは他の劇場の企て及ぶ所でないから、かゝる構造の劇場で背景人形共に大改良を加へて完全なものとし、午後六時より十時までの開演時間と定め、有楽座の興行法に拠つたらば、客の満足疑ひなからんに等語りて頻りに有力者の援助を渇望して居た。
高安月郊君の新作浄瑠理『桜時雨』は伊達が大奮発で、院本に改作を請ひ東京から団平の仙左衛門を招き節付に、苦心惨憺たび/\月郊君と団平との間に往来しては語り口の工夫に夢現、はじめは処々文章の間のびと節付の難きに困じ、人形の振に添えぬとて訂正して貰ふ、五七調を逃げられる作者に無理強ゐする程随分骨が折れたが、余程面白い節も付いた仙左衛門ではこれが一世一代の節付(しごと)であらうが。三十九年堀行江座の秋興行に舞台に懸けて大喝采を博したのである。その時の苦心は譬ふるに物なしで、例令ば彼れが持場の『詫住居の段』で、
男の心今更に、嬉しくつらき我が身の上行くまゆかれずとどまりて、いよ/\薄らぐ夕日影、情のみにて送られぬ、世の冬枯を何とせん。
の件から、二言三言の詞があつて、
過ぎし廓の春秋や、花の朧に逢ひそめて、又の逢瀬のほとゝぎす待てどつれなき一声に、胸の思ひは螢とも、飛べば飛かう胡蝶より、風も忘れてかりがねの、かはす翼に霜降らばいとど燃へ立紅葉ばを、恋の限りと想ひしも、恋の麓にまだ迷ふ、雪と身にしむ真心は、恋しいものよとよゝと泣く男も同じ哀楽の、きはみを今ぞ思ひ知る、空もしぐれて見へにけり。
又二三行ありて、
立ちて送れば月は西、君は東へ翌(あす)の朝、夫は昔のきぬ/\や、今は日かげの倶住(ともずみ)も、君の為には浮世とは、愚痴が情の女気か、せめて釜には松風の、音たぎらせて置ふかと、清水汲むでほ炉にむかひ独り静に待居たり。
など作者会心の妙句韻文の連発に、節廻しと三味の手にいとゞ苦心をしたさうな。紹由の言葉に、
「ヤ夫れは一しほ面白い、槇立つ山の秋のくれさびしい中に一色の紅葉の蔭の此お手前、アヽ結構なお茶でごさります。
など言廻はしにその心を現はす苦心実に一方ならずての切前(きりまへ)に、
「ヤア親父様か。「ヲヽ悴かと先づすがりよる親と子の尽きぬ情(ゑにし)ぞ真なる。
のこの千万無量の胸の中をつゞめて無雑作に僅か二字の先づに罩(こ)められた作者が目新らしい伎倆(うでまへ)、この先づの地合に情の見へる語り方には三日三夜を考へ苦しむだとは、伊達の苦心談。
唯渠れ伊達は有楽座の上品な客種にはもつて来いの、殊に仁左が明治で大好評を博した披露ずみの此佳曲を得意の美声に語り残して大喝采を博したる事であらう。(をはり)
提供者:ね太郎