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 【 義太夫節の今昔 竹本津太夫 】

(2007.10.27)
義太夫節の今昔
竹本津太夫
趣味 3巻4号
 
曾て竹本津太夫丈を大阪は南地、法善寺境内の自宅に訪(とふ)、法善寺界猥は浪花狭斜の地、芝居に近く寄席に近く千日前に隣り阪町に相接する法善寺は粋なお百度の御寺である、本堂の筋向ひの瀟洒な一構、桜井源助といふのが即ち丈の本名である。二三人の朝稽古を済まして。眉雪の温藉(おんしや)な丈は徐ろに自分に義太夫界の今昔談を話した。
○私は当年とつて七十才で厶います、十八才の時、太夫となりましてから丁度五十何年間、肩衣をつけ見台に向つて居ります、もと私は京都の生れで私の家は祖父(ぢい)の代から、小鳥を商ひまして、薩州様や雲州様へ御出入を致しました、私の家は祖父の代から浄るりが好きで、祖父は津太夫と云ひまして、私の父も津太夫、都合、私で三代目津太夫になるので厶います、私の流派の伝統をザット御話し仕ますと、
  △元祖綱太夫−−二代目猪熊綱太夫−−三代目飴屋綱太夫−−竹本山城掾−−津太夫(現今之三代目)
右のやうな系統(すぢ)で、元祖綱太夫は大阪の人、堀江の新路次といふ処に住居(すまゐ)して嘉兵衛と云ひました、綱太夫の名は此人が元祖です、二代目猪熊綱太夫は元祖綱太夫の弟子ではないので、只その名を貰つたといふ間柄です、京都猪熊の人で、武太夫といふ人の弟子で厶いました、この式太夫といふ人はあまり名の現れなかつた太夫でした。
三代目の飴屋綱太夫は京都三条の大橋を東へ入る大菱屋万右衛門といふ菓子屋の息子で、前申しました猪熊綱太夫の弟子になつて三代目を次いだのです、此飴屋綱太夫の弟子が竹本山城掾といつて私の父と相弟子で私には、師匠に当るので厶います。
私の父は津太夫(二代目)といつて太夫でしたが後にやめまして素人義太夫となつて幡龍軒と名乗て京都の素人義太夫の大関となりました。まあ名人といはれる格で厶います、私は子供の時分から浄るりが大変好きで父が連中さんに稽古をしてゐます傍で一生懸命に聞いてゐていろ/\の皮肉な所や呼吸を自然に覚え込んだのです、初代義太夫の言(ことば)に「口伝なくしては到り難し」といふことが厶いますが実に其通でこゝといふ要の処は矢張口伝にあるのです、私は山城掾に習うたのですが八分は父の話によつて得(う)るところがあつたので厶います。
私は今だに父の語つた浄るりの百分の一ほども語ることが出来ません、父の高弟の某に此事を話しますと其人が「そうとも津太夫さん、貴方が一生かゝつても二代目の通り語ることは出来はせん」と云ひました、父は着物も四尺も着た位の大兵(だいひやう)で、人を呼ぶ声も随分大(おほき)う厶いました。
今の義太夫界ですか、もうとんと乱国(らんごく)です、私は京都の高島屋さん(飯田新七、呉服商也)の横町(よこまち)で生れたもので若い時分から御主人と御心易う致して居りまして、今だに京都へ上(のぼ)りますと、いつも、高島屋さんで泊めて戴くのですが、先達(せんだつて)も高島屋さんへ上(あが)つた時、御主人に蝙蝠の模様の浴衣を一枚こしらへて貰ひたいと頼みました、御主人が仕立て欲くば仕立て上やうけれど一体何う云ふ訳で蝙蝠の模様といふ変つた注文をするのぢやと仰入(おつしや)いましたから、実は現今(いま)の義太夫界に私等のやうな者が名人ぢやとか何とか云はれますのは古人に対して恥かしい事で、即ち鳥なき里の蝙蝠ぢやといふ心を現したい為で厶いますと、大笑ひをしたことがありました。アハ・・・・・・
昔は名人揃ひと申してもよい位で、元祖君太夫といふ人は日本一の君団子と洒落にいうた程の名人で厶いました、その君太夫が大概二段目位しかやれぬくらゐ上に沢山名人があつたのです、私共の若い時分には染太夫をはじめ湊太夫だとか、咲太夫、それから今の摂津さんの師匠の春太夫、先代彌太夫などといふ腹も強い、かつぷくも十分な名人達が山のやうに沢山ありました、名人も多く厶いましたが、またその人達の修行も一通や二通のことでは厶いません、昔の八釜敷かつた播摩大掾といつた人は三十日間も本読みをやつてそれから語つた位で今の太夫達に比べるとその熱心不熱心の違ひは雪と墨です。
先代春太夫が「浄るりも私で仕舞ぢや」と歎息したそうです、正可(まさか)、それ程ではありますまいが、ともかく今は乱国と申しませうか、暗闇で天狗仝士の鼻比べ見たやうなものです、私共の本場所は文楽座で、若い時分には一文も手当を貰はずに毎日文楽へ出かけて太夫の湯くみなどをして一生懸命に語り口を聞ていろ/\と工夫をしたものです、着物や見得には一切無頓着で只一心に「一生稽古」といふ金言を忘れずに励みました、六十八才の今日でもまだ/\これから修行を積まねばならぬと心懸て居ります、その証拠には折々此頃になつてから昔の節を思ひ出して、オヽそう/\と気が附いて語り直す事が間々厶います。
節廻しの工夫ですか、中々名人ならばいざ知らずわれ/\共が昔からの節廻しを勝手に語り直す抔は僭上の至りでよくなる道理がありません、中には声の善いに任せてツクネ浄るりを語る人もありますがそれは邪道です、やはり本筋を辿つて真直に正しい義太夫節を語るのが一番結構なので厶います、今の越路さんなどは流石に正直に昔の通りを語つて居(ゐ)られますのは感心です。
然し人気は又別です、昔、四代目綱太夫といふ人は京都で人気のあつた人で、ある花会の時に此人がトリを語つて此人の師匠の三代目飴や綱太夫が中入に出ました、処がトリの四代目が病気で俄に欠席しました、すると聴却は中々承知しませぬのでとう/\三代目がトリにも語つて、つまり二度も出てやうやう収まつたといふ位、師匠の三代目より、技倆は劣つた弟子の四代目の方が却て人気があつたので厶います。
先達も文楽座で私が沼津をやつて、摂津さんが守宮酒を語られました、その時、新聞や何かでは非常に私の沼津の方をお賞め下さいましたが、実の所、真(しん)の出来栄は摂津さんの守宮酒の方が好かつたのです、しかしお聴になるお方の耳が・・・・・・しかし今は中々六ヶ敷厶います、沢山の聴客の中には巧者な耳の好いお方もありますから、ウッカリしたことは語られません。
西物語り東物語りのことですか、あれは昔し道頓堀、今の浪花座(先達焼亡しましたが)の処に筑後少掾の座がありまして今の朝日座と弁天座との間の辺に豊竹若太夫の座がありました、ですから若太夫座を東といひ筑後座のを西といひました、二座共語り物が少し違ひまして堅い物を多く西で語り、廿四孝のやうなビラツイタ物を多く東で語つたのです、そこで堅い物を語る人を西物かたり、柔い方を東物がたりといふやうになつた、此社会の通言で厶います。(了)
提供者:ね太郎