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 【 名人団平 二代目 豊沢団平 】

(2007.10.27)
名人団平
二代目 豊沢団平
趣味 2巻9号
 
私の師匠初代団平が、斯道に於ける古今の名人であつたと云ふ事は、今更私の口から申上げる迄もありませんが、未熟な我々の眼から見ますと、誠に恐ろしい程の天才で、凡そ斯道に懸けては、何一つ知らんと云ふ事は[な]かつたやうに思はれます。私々(われ/\)弟子の稽古をして呉ますにも、其厳格さは非常なもので、出来なければ何時迄でも、仝じ事を繰り返して行(や)らせます。よくあんなに精の続いたもので、全く凡人には出来ん事です。随つて一風(ひとふう)変つた行ひも沢山あります。
 
◎高貴の御前に泥酔す
たしか明治二十一年の春であつたと思ひます、小松宮殿下の御前に伺候した事がありました。普通吾々風情は誰れでも、高貴の御前へ出ますと、恐れ多いのが先きに立つて、小いさく畏まつて了つて、中々頭も上がらない位のもので御座いますのに、師匠は一向平気なもので、殿下の御側近くに伺候して、御手(おんて)づから御盃(おさかづき)を賜はり、盛んに四方山の御話を申上げて、御酒を頂戴して居りました。殿下には中々捌けた御方で居らせられましたからでも御座いませうが、師匠も喜んで遠慮なく頂いて居ります内、到頭へゞレケに酔つ払つて終ひました。平素(ひごろ)から中々大酒家の方で、夜通し飲んで居ても、一向甚(ひど)く酔つた事も無く、夜が明けてから、鳥渡(ちよつと)二時間許りも休みますと、夫れで翌日何んともないと云ふ位の人でしたのに、其時ばかりは不思議にも甚く泥酔して、いざ三味線を弾かうとすると、抱へて見ても、思ふ様になりませんで、ヅン/\と三味線が手から滑り落ちて了つて、如何しても弾けない始末です、乃(そこ)で御次ぎの間に控へて、之れを見て居ました私は、見兼ねましたから飛んで出て、其三味線を採り、師匠に代つて先づ無事に済ませました。其時殿下には余の後継者は沢山あるが、、団平は跡を継ぐ者は無いのだから、余程大事な体である』と恐れ多い御言葉を賜はりました。
 
◎名優宗十郎に教ふ
何時の頃でしたか、能く覚えませんが、或る年末広屋(すゑひろや)(宗十郎)が東京から帰つて来ました際、伊勢物語の三段目を演る事になりました処、在常の着附などが分らんと云ふので、師匠の処へ聞きに参りました。すると師匠は、其時代の風俗を語つて、侍は斯う云ふ袴を穿かねばならぬ。夫れは斯う/\と一一丁寧に委しく教へましたので、末広屋は大喜びで帰りました。そして早速御礼として、確か二三十円の紙幣を包んで、それを使に持たせて寄越しました処、師匠は真赤に成つて怒り出し、使の前へ其金包を叩きつけて、怒鳴り付けましたから、使の者は驚いて、只だうろ/\と帰る事もせず心配して居ります。私は見兼ねましたから物蔭へ呼んで、師匠の気性を咄し、決して心配するには及ばぬから、此金包は持つて帰つて、菰樽でも一挺持つて来なさいと云つてやりましたので、使の者は早速引返して、今度は酒を一挺持つて来ました。すると師匠も機嫌を改(なほ)して、其酒を喜んで受けました。
 
◎客をして呆然たらしむ
又松島の文楽座へ出て居る時分の事でした。或るお客が『団平これを遣らう』と仰しやつて、お持ちの金時計を師匠に呉れ様とお出しになりました。其当時の懐中時計と云ふと、珍らしかつたもので、普通の芸人なら、三拝九拝して頂戴する所ですが、師匠は嬉し相な顔もしないで『私は時計は嫌ひです』と愛想も無く辞退しました。乃(そこ)でお客は『其れでは之れを遣らう』と腰に差して居た結構な煙草入をお出しになりましたが、又候無愛想に『私は莨を飲みませんから入りません』とやつて退けましたので、傍に見て居た者手に汗を握つた位で、何んと云ふ欲無しだらうと誰でも呆れる外はありませんでした。
 
◎妻ちか今お通と呼ばる
師匠の新らしく手を付けたものは、随分沢山ありますが、其内で重(おも)なるものは、菅原の配所の段、勧進帳、松前屋五郎兵衛、大和錦、大阪落城後日譚、親鸞記、玉藻前寺屋の場及び四段目、油屋おこん十人斬の奥、および三十三番観音霊験記などで、此三十三所の中には、有名な壺坂もありまして、霊験記は丁度二興行(ふたこうぎやう)する丈のものがあります。菅原の配所は三代前の文楽座主が、摂津大掾の為に作つたもので御座います。また三十三所、松前屋五郎兵衛、親鸞記、十一斬り等の文句は、師匠の女房の加古おちかと云ふが、重に作つたものでありまして、中々夫に劣らぬ豪(えら)い女で、今お通とも言はれた位でした。其他に師匠が節を改めたものは殆んど数へきれない位で、大抵なものは皆師匠が少しづゝ、直したと申して可い位で御座います。
提供者:ね太郎