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【 吉田兵吉 人形談 】
(2007.10.27)
人形談
吉田兵吉
趣味 2巻11号
江戸では堺町の薩摩座の人形などが大に振つたもので、初めのうちは出語りも出遣ひもなかつたものでしたが、初代吉田兵吉(ひやうきち)が大坂から下つて来て、お目見得狂言に「岩倉宗玄」を出遣ひで出しました、是が江戸で早替りを始めた元祖で大層な評判を取つて、国へ帰る時には早替りの衣裳計りが長持に三棹もあつたと申す事です、此早替りと申すものは、只綴込(とぢこ)みの衣裳を冠り替へるだけの手際を見せるもので、綺麗にするかきたなくするかと云ふのが腕前なのです、又吉田千四と申す人形遣ひがありまして、此人は三代目兵吉の老爺(おやぢ)ですが、此千四が道具を替へる事を発明しましたのです、兵吉(ひやうきち)と云ふ名は私で四代目になりますが、私は幼少の頃から人形を遣つて居(を)りましたので、先づ最初は蔭を打つ事を稽古致します、其次に小道具の出し入れ、夫から漸く足を遣ふやうになるのです、所で此足と云ふのが只持つて動かして居ればよいやうに見えて其実中々むづかしいもので、私共の方の言葉に「人形は足で遣ふ」と申す位な訳で、足は尤大事なものになつて居(を)ると云ふのは、真(しん)を遣ふ者と手を遣ふ者と意気が合はなければ見られたものではないので、私は初代玉造の足を遣つて非常に苦しめられたのが薬(くす)りになりましたのです、其次ぎに左の手を遣ひ乍らすべての事を覚える順序ですけれど、是ばかりは手を持つて教(をそ)はるのではなく、全く見て覚えますので、私は先代玉造の悴玉助の左を遣つて居て覚えましたのです、人形遣ひの真が上手ですと、左を遣つて居(ゐ)ても非常に面白いので、早い話が玉助の方では爰へ左を持つて来いと云ふやうに遣つて呉れます、さうすると又私の方でも爰へ頭を持つて来いと云ふ様に遣ひますので、すつかり呼吸(いき)が合つて行きますが、是が真も手も足もばら/\に離れて了(しま)つては見られるものでありません、呼吸(いき)が合ふと云ふのはつまり真と手と足の三人が一つになつて、三尺の人形のうちへ五尺の人間が入つて了へばよいので、さうすると知らず知らずに面白く遣へる事になりますのです、上部(うはべ)から見ては分りませんが人形の拵へは、胴はほんの形だけを拵へてある計りで実際空(から)になつて居て、それへ糸で手足を結び付けるのですからグラ/\ブラ/\しごぐあっかqのこ丸いみとして至極扱ひにくひ物なので、是を生きて居るやうに見せるのですからむづかしいのです、其上人形にはいろ/\の種類が多くあつて、おやぢの頭(あたま)の数ばかりでも四十八通りもあります、たとへて言ひますと、武智光秀の頭を文七と云ひ、加藤清正の頭を団七と云ふやうな訳で、商売にして居てさへ覚え切れない位です、又昔は人形の髷(まげ)は上げて結つたものですけれど、当今は後姿を見せる事をするやうになつた為、髷は下げて結ふやうになりました、是等は人形の方の写実とでも云ふのでせう、又同じ手にも種類があつて、かきつばた、つかみ手、はかま手、ちやり手、蛸づかみなどと云ふ名称があつて、それぞれ一々に遣ひ方が違ひます、是を覚え込む計りでも容易な事ではありません、それに人形と云ふ物が只動いて居(ゐ)る計りでは上手と言はれないので、人形へ情を持たせると云ふ事が第一に肝要なのです、此頃では文楽へ出て居る頭立(かしらだつ)た人でも、此情を持たせると云ふ事に付てはよくして居るものがありませんけれど、昔は名人が多かつたので忠臣藏判官切腹を遣へば、見物の方で成程大名と云ふ者は斯う云ふ者であつたらうと云ふ感じを起すまでに見せたものなのです、又千四が四段目の由良之助を遣つた時には、木戸三枚札を取つて見せ、三代目兵吉が七段目の由良之助を遣つた時には、同じく木戸三枚札を取つてそれで客が謚(あふ)れた程の大入を取つたのも、全くそれだけのねうちがあつたからの事ですけれど、今日ではそこ迄気を入れて居(ゐ)る者がありません、私などは昔者ですから、只今でも人形を持つ時は力を入れて持ちますから、楽屋へ入つて来ると手先から首筋まで血の筋が出ますが、今日でそんな馬鹿正直な遣ひ方をする者は少ないので、大概は人形がぶらぶら動いて居ます、殊に此頃の人は動かない人形が楽で、動く人形がむつかしい様に言ひますが、本来は動く人形の方が胡魔化しが出来るので、物を言はない人形程むづかしいのです、なぜと云ふに前申した通り胴は空でグニャ/\して居る物を、沈(じつ)と身動きもさせないやうにしなければならないので、力がたるめば意気が抜ける、意気を抜くまいと思つて居ると段々重くなつて来るので、人知れない苦心をします、物を言はない人形がむづ/\動くのは蚤にでも喰はれて居るやうで見つともないものです、それでも座つて居る人形の方はいくらか楽が出来ますけれども、立つて居る人形を形ちを崩さずに扱ふと云ふのは、実(じつ)に/\むづかしい事なのです、と云ふのが普通の人形で四五貫目はありますし、鎧人形にでもなると八貫目もあるので、其胴を持こたへるのはナマやさしい事では出来ません、さうして此人形を持つ手が二の腕へ附て居(を)れば人形は軽いかはりこゞみます、是を始終離して少し反り気味に持つと、人形はピンとして生きるのですが、当時の人は斯(か)う云ふ事に心を入れて居りません、又人形は手摺から下へ下(さが)るのは非常に見にくひもので、どつちかと云へば手摺から少し離れて居る方が遣ひ手の筋はいゝのですけれど、そうかと云つて余り離れ過ぎると宙を飛んで居るやうに見える、人形が風船のやうに宙乗りになつた日には迚(とて)も人情が移りません、矢張り其役の精神をのみ込んで人形の中へ入らなければいけないので、此調子がむづかしいのです、見せる為に遣ふ事になると勢(いきほ)ひ余計な動きやケレンをする事になつて本当の芸は出来ません、総じて人形遣ひは下駄を履いて遣ふ事になつて居ますが、是は一つの習慣でせうけれど、履き慣れて了ふと下駄が無ければ足が軽過ぎて腰が極りません、腰が極らないと形(かた)が付かないもので、踊の極意と同じ事に矢張何よりも腰が大事です、又間物(まもの)は小さい人形を遣つて大きく見せるのが腕がいゝので、ちやり物は反対に大きい人形を小さく見せるのが遣ひ手の上手としてあります、猶又一人遣ひの人形で俗に「文楽のこッつり」と云ふ人形があります、つまり入り際に頭をこッつりとぶつけて入るなどのおどけをする所から此名が起つたのですが、此人形は多く仕出し、下部(しもべ)、捕手などに遣ふので、一人で袖の中へ手を通して遣ふものですが、遣ひ手はつまらないものとして格別気を入れて居ませんけれ共、本来はこれがむづかしいのです、それ故文楽でも時により物に依つては、上手な遣い手がこッつり人形を持つて野崎村の駕舁き、或は道中の長持ちなどに出ますが、仕方の無いものでいゝ人が遣ふと人形が生きて見えますから、其時に限つてきつと見物は喝采をして賞めるのです、又人形の方でも昔は役者同様遣ひ手が平生踊の稽古に通つたものなのですが、当時は所作事の出る時に急稽古をする位な事で済ませるやうな事になりました、しかし同じ所作事の道成寺を出すにしても、人形の方では踊の通りには出来ませんから、一応踊りを腹へ入れて扨其上でいろ/\工夫を附けていゝ形ちを編み出して、踊の振りに遠ざからないやうに、踊を知つた人の目から見ても、成程斯うやる所をあゝ改めたのは無理がないと云はれるやうに拵へるので、うまく出来れば踊りの振よりも却ていゝ形(かた)の時もありますが、是等が人形遣ひの苦心の所なのです、其上面倒な事には真の遣ひ手が工夫を附けて、是を左遣ひに教へて、又足を遣ふ者に教へなければ一つの物がまとまらない道理で、見物の方には分らない所に随分骨の折れる事が沢山あります、しかし当今でも振附だけは人形を持たないで自身の体で仕て見せる事もあります、又人形を遣ふのに世話物と時代物では世話物の方が余程むづかしいのです、さうかと言つて時代物がやさしいと云ふのではありません、千本の四段目の忠信の足、渡海屋の知盛の七つ拍子などは許し物になつて居ます、何にしろ人形は女形を持つ方が非常に徳なので、動きもあればシナも出来るし、又苦心次第でよい形も見せる事が出来るし、殊に見物の受けるサワリなどは最(もつとも)骨折甲斐がありますけれども、それに反して立形(たちやく)となると只骨が折れる許りで賞められませんから、女形に比べると二割も三割も損です、それに昔は人形遣ひの方が太夫よりも位置が上になつて居たもので、太夫を呼んで誂(あつらへ)を出したものですが、当今では太夫の方の羽振りがよくなつて居ます、けれ共物に依つては人形遣ひの方から誂を出す事もありますし、又太夫が替る時には同じ語物でも節に延び縮みがありますから、初日前に一遍合せるのが例になつて居ます、総じて中興の人形遣ひは初代玉造を手本にしてそれを真似る傾きがありましたが、今では其玉造を知らない者が多いので、人形は段々崩れて了つて、只給金の事計りにこだはる様になつて来て居ますのは、斯の道の為に誠になげかはしい事に思ひます。(との字記)
提供者:ね太郎