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【 世の嘲りを解く 竹本大隅太夫氏談 】
(2007.10.27)
世の嘲りを解く
竹本大隅太夫氏談
趣味 1巻5号
先代春太夫に学び、名人豊沢団平に附いて刻苦十年、今や、当代摂津大掾と比肩する大隅太夫は今年五十八才、其行動によつて誤解され、斗屑の徒よりは新派浄るりなどと悪口せらるゝのに対し、莞爾として怒らず侮らず具に記者に語た所のものは大に傾聴の価がある。
イヤ世間にはいろ/\と私に悪口を申すものもムいますそうです、この原因を申しまするには一通私の昔のことから御話しせぬと解りません、何分宙で申すのですから精(くはし)いことは昔の番附や何かをお調べ下されませ。
私の師匠春太夫在世の時分明治五年頃、東京へ私が行て見やうとしますと師匠が昔は東京には三絃では勇造市太郎、太夫では越前大掾などが居たが今は上つて行つても見込がない、殊にあ前は芸道熱心で、私のを毎日聴いてゐるのだから今、手放してやるのは惜しい、私も永くはないからもう少し大阪に居よと引止められてをり壊す中に明治十年、春太夫は歿せられました、それで十二年に織太夫綱太夫(一人の名)と一緒に参りまして彼地(あちら)に二年程居て明治十に参りまして彼地(あちら)に二年程居て明治十四年に帰阪しました、その頃の東京はヒイキも宜しうムいましたし聴手もよい耳の人が沢山ありましたが、私は大阪の豊沢団平さんを慕て帰つてきたのです、帰て見ると文楽(松島)の方では染太夫、重太夫、それに今の摂津さん、盲目の住太夫などの顔揃ひで善い人が沢山ゐたものですから、あまり歓迎もして呉れませんでしたから、九州地方を巡業しました、明治十五年に日本橋北詰に沢の席(俗に小文楽)といふのが出来ました、こゝへ私等が入りまして興行を始ましたのです、文楽からは染太夫と其三絃広助とが加入し、私の絃(いと)は初代新左衛門が弾きました、前が太閤記で私が十段目、七つ目杉の森を仮名太夫、五つ目を巴太夫と殿母太夫とで語つて中附物(なかづけもの)の布引の四段目を染太夫でやつたのです、切は今記臆致しません。
その中十六年比(ごろ)に染太夫が文楽へ戻つて重太夫がやつてきました、此人は美声で三絃は今の広助、その比助八といつて引込んでゐたのを私が引出して広作の名を貰つて重太夫を引かしたのです。
明治十七年の春に彦六座が立ちました、此彦六の起りは前申した助八(今の広助)の連中で灘安や座摩の前の沼田屋等で彦六社といふものがあつたのです、此彦六社が彦六座を立て、灘安が座主となつたのです、此難安が今東京で太夫をして居ります柳適太夫のことでムい升、即ち二代目柳適太夫を次(つい)だのです、その座へ沢の亭からわれ/\一座が移りました、始は菅原で、初代柳適太夫(灘安の師匠)が道明寺をやり、三絃は新左衛門、三段目を組太夫、三絃は勝七、配所を私、三絃は新左衛門が柳適と私とのを弾きましたのです、四段目寺子屋を重太夫、三絃は広作、此時はあんまり大入ではムいませんでしたが衣裳道具が大したものでした、次興行(二月)は私が仙台の御殿、中附物が初代柳適で橋供養で(これが大当りで)、次を重太夫が三代記八ッ目、追ひ出しは組太夫の吃又でムいました、此興行が大入で無類の人気で、松島の文楽座は此為めに僅か三人しか人が来ず、へたりましたのでそれやこれやでとう/\御霊へ移りました訳です、彦六の方は以後もずつと大人気を博しました、その矢先へ盲目の住太夫も加ります/\景気が増したのです、その中、団平さんが文楽を出て九月から彦六へ入られました、彦六が月々の大入で小屋が損じましたから再築して九月一日より開演し、団平さんが式三番を弾かれました、以後団平さんが私を弾て下さることゝなつたんです、文楽座はメチヤ/\に敗北しました、然し栄枯盛衰といふものは不思議なもので、今度は彦六党の方の風向が悪くなり始めたのです、明治廿年に団平さんと私と東京へ参りました、その時前を朝太夫と源太夫とに語らしたのです、朝太夫は只今迄ずつと東京に居ります、其間に佳太夫は死にましたし、彦六は焼亡(せうもう)すると云ふ災難で廿二年に帰阪しまして初代柳適太夫と一緒に勤めてゐる中、廿三年に柳適も死にました、彦六はすぐ再築しましたけれど座種と私との中が面白からぬことがあつたので私共は巡業に出ました、これで彦六党は滅亡し、文楽座は漸う盛になるといふ次第になりました、明治廿六年、伊予松山で団平さんと居りますと花里(はなざと)が仙左衛門を使者として松山へおこして、貴方達が帰つて来て一つやつてくれる気はないかといつてきました、彦六座を花里が買つたのです、話が纒つて稲荷座(彦六改め)へ出ることになりました、そこへ彌太夫さんも加入されました、廿七八年には戦争騒の所へ座主花里が失敗して稲荷座は株式会社になつて文芸株式といふことになり、三十年に団平さんが死去せられ、その年に株式会社の社長、岡崎栄次郎が稲荷座を文楽座へ売つて仕舞ひました、それで又、私共は出て堀江の明楽座へ入つたのです、前の花里が又此座主となつたからです、こゝで大入で興行をつゞけてゐると三十四年七月に私が酒屋をやつて四十八日間興行して大入でした、利益も非常なものです、それを持て座主花里が道具とか何とかに遣ふてくれず、又南で芝居(歌舞伎)をやつて大失敗して仕舞ひました、私も何となく面白からずとう/\文楽座へ出るやうになつて、今だに同座に勤めて居ります、こういふ歴史を持てゐる私ですから文楽座の一部の人からは随分誤解もされ、ある時は申すに忍びんやうな悪計を企た奴もあるのです、無論これはよい太夫達の知られたことではなく、当時のつまらぬ人達のした事です、そんな関係から私の反対派が私の浄るりを新派だとか何とか中傷するのです、私は永年団平さんに、も弾て貰ひましたし、決して新派を起すの何のと云ふ考はありません、只、真(まこと)の義太夫節を語つてゐるのです、又時代物を世話物にやうに語るとかいふ批難もあるやうですが、そのお方はまだ時代の中(うち)に世話あり世話の中(うち)に時代ありといふ此道の金言をご存じないのです、地色の中にも詞があります、こゝらは浄るりの秘密の事です、短いものは長う聞かせ、長いものは時間を短く語るのが肝要なのです、全体、浄るりちやうじかんはあまりだら/\と長時間にかたるべきものでないので時間を短く語りこなすところに上手下手があるのです。
東京へは数度行きました、三十二年に行た時、始めて歌舞伎座で私がやりまして三千六百人からの大入でした、是れまでは東京では浄るりは寄席で語るものとして、決して芝居でやらなかつたのです、それを私が参つて濫觴を開きましたのです。(をはり)
提供者:ね太郎