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 【 豊竹生駒太夫 義太夫を聞く耳の掃除 】

(2007.10.27)
義太夫を聞く耳の掃除
豊竹生駒太夫
趣味 1巻4号
 
義太夫ばかりは東京は駄目でございます。それと申すも東京(こちら)は元来が長唄や常盤津、清元、新内など浄瑠璃と申しても歌がゝつたものばかり流行しますところから、御客様の耳がそれには馴れてはゐますけれども、義太夫をお聞きなさる耳はマア開(あ)いてをらぬと申しても可い。義太夫は御承知の通り歌ふものではなくて、語るものでございますから、寺小屋で申せば源藏なら源藏、松王なら松王、又千代、玄蕃、小太郎等女は女小児(こども)は小児と一々出て来る人を語り分(わけ)るは勿論、其の人々が腹の中に思つてゐる事までも、詞によつて声によつて、真(しん)に其の人が現はれ、舞台に躍つてゐるやうに情(じやう)を表すのが主意でありますから、唯一通り耳に滑(なめらか)に美しく賑(にぎやか)に陽気に響く他の浄瑠璃とは性質がまるで違ひますから、義太夫を聞くはなほ芝居を見る心持でなくてはなりません。ですから東京(こちら)も昔はよく聞て下さる方がありましたと申すは其の頃の御客様は能く芝居を御存じなので義太夫を御聞きになつても直ぐ情が移るのでありますが、今の若い方々は芝居の味が真(ほんとう)に御分りになりませんから義太夫を御聞きになつてもお分りにならぬのも無理はありません。只今でも旗下(はたもと)の御隠居さんなどは、能く聞いて下さいますが、若いお方で寄席へお出掛になるやうな方は、歌浄瑠璃は兎も角、義太夫はお分りになりませんやうです、全く東京(こちら)は義太夫の土地ネに合ないのでございませう。
 
それゆゑ昔から東京(こちら)には上手な太夫が出来ません。義太夫といへば必ず大阪下りと極つてゐるやうです[。]其の大阪下りにも東向(ひがしむき)と申せば、声の美しい艶語りで真(ほんと)の義太夫は却(かへつ)て受けません。近い例(ためし)は沒しました綾瀬でございます、彼(あ)の人は東京(こちら)で近頃の名人でしたが播摩と拮抗(はりあつ)ては如何(どう)しても叶ひませんでした[。]綾瀬は此の情を表すといふことが最も巧み、それで行儀の正しいことと申したら扇を横に持てチヤーンと見台に向ひます、其の姿勢(ゐすまひ)が終(しまひ)まで頽(くづ)れません。これだけでも今の太夫は到底眞似も出来ません、姿勢(ゐすまひ)のやうなもの如何でも可いやうですが、姿勢からして頽してかゝるやうな太夫に碌な太夫はありません無暗と見台を叩いたり、女太夫などは随分と如何(いかゞ)はしい身振をすることもありますが、それをお客様が善い事と思召(おぼしめし)、喝采なさるから堪りません。私なども好な道ですから、顔を隠して寄席を聞くことも時々ありますが、女太夫の語口を見ますると斯(かう)も能く型を頽したものだと歎息の外ありません。これも皆お客様の好みに寄るのですから、如何か私はお客様方が真(ほんと)の義太夫を聞いて下さるやうに、耳の掃除がして頂きたいと日頃願つてをります。
 
如何致したら義太夫が分るかと仰いますか、左様これは黒人でさへも、能く心得てゐるものは稀ですから、全くのお素人に云々(これ/\)だと一寸こゝでお話申す訳にも参りませんが、兎に角今も申上た通り、歌ふものと語るものとの区別を立て、義太夫はたゞ情を表すことに御注意がありたい、老若男女出て来る人の年齢から身分職業によつて其の詞が一々違ひます、それを語りわけるは申すまでもありませんが、其の場合/\によつて、又同じ人の感じが違ひます、其の情けを写す。斯(かう)いふ風に研究して行ますと義太夫といふものは、寄席で手を拍(たゝ)かれたり、ヨー/\と褒められたり、爾(そう)面白く語れるものではありません、私の若い時分には、義太夫は陰気なもの、語り出したらお客様を泣せねば置ぬといふ意気込、それを太夫は手柄にしたものですが、今では只面白う語るを手柄としてをります。此浄瑠璃の型を頽したのは豊沢団平です、団平は御承知の通り近頃の名人といはれてをりますが、此の人が義太夫節を傷けたことも夥しい。丁度其の前ごろに長門太夫、湊太夫、春太夫、染太夫などの名人がゐました、是等の人のゐるうちは遉(さすが)の団平も跋扈する訳に参りませんでしたが、是等の人々が歿(なく)なつて、相憎に三昧線弾に名人が二人残りました。団平と今一人は前の広助でございます。今迄太夫の命令(いひつけ)に従つて弾てゐたのが、今度は自分よりも下の太夫どうかお師匠様私のに一つお弾なすッて下さいませといふ下から頼んでかかりますから、三味線弾は附上(つきあが)つて其の云ふなり次第、我儘勝手に手を附けて語らせる、浄瑠璃は面白うはなりましたが、情(じやう)が乏しくなつて来ました、丁度豊臣の天下に太閤様が歿なつて淀君が残つたやうなもの、芸運の傾くは是非に及ばぬところでございませう。しかし今は三味線の名人も歿なつて段々此の弊風が改まつて参るのでありますがそれにしても上手な太夫もなくなり、一向に振ひません。
 
只今の太夫、サア誰でございませうか、私の若い時分の上(うへ)一段の太夫と申すは、どれもこれも名人揃ひ、いづれ愚な人はなかつたのでありますか、只今は上手は地を払つたと申しても可い。真(ほんとう)の義太夫声を有(もつ)た人は全くなくなりましたよ。左様ですねエ、まだ若うございますが今の越路太夫などが、私共はマア有望な人だと思ひます。
 
ナニ私、私は悪声、しかし義太夫は前申す如く歌ふものでなく語るものですから、声がなくても情さへ移れば宜しうございます。私共の仲間で今存命の人は、摂津大掾、津太夫、弥太夫、呂太夫位のものでございませう。弥太夫、呂太夫は只今は退(ひか)れましたが、呂太夫と申す人は声はありましても、詞の分らぬ語り方でした。津太夫は又実に声のない人でございますが、其の詞の旨いことは、当時外にはありますまい、上手といふは此の人でございませう。が此の人の浄瑠璃を聞くものは大阪の人に限ります。もし東京(こちら)へ連れて参りましても何だあれが義太夫か面白くもないと一口に蔑(けな)すに違ひありません。義太夫を聞く耳の開(あ)いてゐると開いて居ないとは此所でございます、文楽に数十年来出てゐて、今に声価を落としませぬは、太夫よりも大阪の人の聞上手にあるのでありますから、東京(こちら)の方々(かた/\)も万望(どうぞ)義太夫をお聞き下さるやうに、お客様の耳を養成致したい、これが私の年来の希望。
 
私でございますか、私は徳島県名東郡津田浦の産(うまれ)で桂平吉の次男史鹿三と申しました。さやう淡路も阿波も昔から浄瑠璃の盛昌(はんじやう)致したとことろ、これは 又昔の硬い浄瑠璃を好みます、大阪とも少し語り口は違ひますが、声は非常に喧しい所で、例の歌浄瑠璃ですと四段目語り又は道具などゝ云て蔑むところでございます。道具ですか、ハヽア、これは団平のやうな三味線弾が自分の三味線を聞かせやうとして太夫でも目下な、但し美声の者を撰んで語らせる。ツマリ声が美しければ三味線弾に利用されるといふ意味を嘲つたのでございます。其の代り阿波などは耳はたしかなものです。私の伯父は恵比須駒吉と申しまして、これも義太夫が大好きで、遂に大阪へ出て五代目の染太夫になつた人でございます。私が又小児(こども)の時分から好きで、十四の年に大阪へ出て伯父染太夫の弟子になりまして初めは鹿子太夫、それから染木太夫となりまして後又筆太夫と改名致し明治十五年東京(とうきやう)へ参りましたが、東京に其の頃ヤハリ筆太夫といふがございまして、名前が差支ます所から豊竹生駒太夫の名を襲ぎましたのでございます。イヤどうも大層長々とお話しを致しまして、御迷惑でございましたらう。
提供者:ね太郎