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【 竹本摂津大掾 最近の語り物について 】
(2007.10.27)
最近の語り物について
竹本摂津大掾
趣味 1巻4号
摂津大掾は目下細君と西須磨の別荘に避暑中である、松韻濤声の小半日、丈を訪ふて其近状を聞いた、丈は数年前の大病以来、耳が少々遠くなつたそうで専ら細君が傍に座し二人の間を周到に斡旋せられたのは茲に深く感謝する所であるこの別荘で厶いますか、こゝは三十三年に肺炎を煩いました時、よくなつてから静養の為に須磨(こゝ)へ参りましてお馴染先の御別荘に居りましたが、何うも此地が景色も空気も好く静養には一番適したやうに思はれますので、此辰浜で地面を買つて建てましたのが此家で厶います、先年大病に罹りまして生きるか死ぬかの処で東京の佐藤先生がわざ/\御出下さいまして御治療を願い別に手術も施さずに平癒致しました、その後は丸一年此地へ来て摂生してスツカリ好くなりましたが、まだ/\腹が十分に整ふて居りませんから芝居へ出る訳には参りませぬ、そうして居ります中に一昨年の冬、小松宮様の御墓参りと佐藤様のご婚儀とに是非上京せねばならぬことゝなりましたので、十日間位滞在の心積りで参りましたところ、丁度三代目越路太夫が来合せましたので其引合せかた/\是非一寸丈でも出演せよと引止められて仕方なしに歌舞伎座でやることになつたのでございます、しかし病後休んで居て声を出したことが厶いませんから試しに夜遅く歌舞伎座で表を閉めて竊かに三度ほど下語(したがた)りをやつて見ましたが、第一に芝居の構造も好かつたので案外無事にやれさうなので其時はなるべく身体に障らぬやうな軽いもの計り語りました、何分、そう云ふ積で上つたので厶いませんから、道具は御素人から拝借し。本は越路が持つて居りましたから夫で語りましたやうな次第、然し病後の初声(うぶごゑ)ですから便りなう厶りました、此歌舞伎座で十日間勤めまして帰阪すると文楽座の方が又承知しません、是非出て呉れといふ訳で昨年の春から、又出るやうになつたので厶い升病後は所謂病抜(やまひぬ)けがしたものですか、風邪一つひかぬやうになりまして、以前は一寸耳の具合や調子が一寸外れるやうなことも厶いましたが、只今では一切そんなことが無くなり、耳は少し遠くなりましたが、一向声の方や語り口には影響致しませぬ、病後の工夫で厶いますか、いゝゑ別に工夫といつて致しました訳ではないのですが、年と共に苦し奇麗なことをやつた時分と変つてきまして、梅川が聞き憎く孫右衛門が聞好くなつて来たといふ風に、追ひ/\に派出な艶なものよう、じみに古風になつて参ります若い時分には年寄を語るのにどうしても無理が厶いましたが、今では自分の年が年ですから、そのまゝ語つて居れば年寄に聞えるやうに、つまり自然のまゝに語れるやうになつたので厶い升、身体もすつかり快癒しましたから、出し物でこれが身体に障るといふこともなくなりました。
近頃文楽座では「宮守酒」を語りました、六月興行にです、この「守宮酒」は明治十九年松島の文楽座(今の八千代座の所、御霊に移りしは後年の事)で演つたことがありました、三味線は団平さんでした然し私はもう一度以前(まへ)にやつたことが厶いまして三代目吉兵衛さんに習つたのです、団平さんは無経験で厶いましたから、二人でいろ/\と相談して前の間を調子を上げて語り、進藤左衛門の出から調子を下げてやつたらどんな物だらうと相談して語りました、その後は他人(ひと)も皆此やり口を習つて語るやうになつたのです、六月のも此やり口で別に今度に限つて工夫はありませんでした、今度の三味線は豊沢広助が勤めました、然し少し宛は変へた所もないことはありませんが、此所を変へたと申上る程にはないのです、丁度角力取が相撲の土俵で出てその日/\の取口をいろ/\と変へてみるやうに、こう語ろうと思てゐても、其日の息の塩梅で日々少し宛は変つて行くのです、こゝらは実地にのぞまねばわかりませぬ。
「守宮酒」は御承知の如く「苅萱」の三段目で眼目の処で厶い升、脚色(すぢ)は加藤家に夜光の玉があつて之を大内義弘が持参せよといふので、加藤家の執権監物太郎が、此玉は廿歳で男の肌知らぬ処女(をんな)でなければ穢れますと言いくるめると、幸ひ家臣進藤左衛門の娘夕しでは廿歳で男知らず故、それに宝を受取にやろうといふておこしました、加藤家の方では此夕しでを堕落させやうとたくんで、監物太郎の女房橋立の弟女之助といふのを接待に出してその上、神酒と佯(いつは)つて守宮酒を飲まして、女の心を乱だし玉が穢れたといふ、するとあとから来た進藤左衛門も驚く、其中(うち)に夕しでが挿してゐた鏑矢て自害し、始めから女之助を見染めた神罰でかゝる目に逢ふたと物語るといふ話で厶い升、新聞屋さん達から大分猥褻ぢやといふ攻撃もありました、成程猥褻な処もありますれどこれほどのことを兎や角いふ位ならば近松にも随分もそつと烈しいのがありますし、他にもまだまだ上行くのが少くありません、又新作/\と仰しやいますが、此後は知らず、今迄で新作によいのは少う厶い升、どうも只今のは人情に乏しく、又舞台面、つまり彩りといふことに御気が付かぬやうに思はれ升、一段物ならば宜しう厶いますが、何分五段続きとかいふ大きな語り物のことですから、其中に喜恕哀楽も供はらねばならず、堅い所もあり柔い所もなければなりません、堅い所計りでは浄るりがもてません。此「守宮酒」の前興行には「新口村」をやりました、元来新口村といふものは「恋行脚大和往来」の方の眼目の処で「冥途行脚」の方では「封印切」が眼目になるのです、勿論「恋行脚」の方にも、「封印切」は厶いますし一冥途」の方にも「新口村」はあるのですが、「新口村」は「恋飛脚」の方が出来が好かつたものと見えます、「新口村」では孫右衛門が一番六ケ敷う厶い升。
私は大体。先代春太夫の型に随て語ります、然し昔から今迄だん/\に義太夫節が変つてきたのです、昔もずつと大昔は謡からきたのですから、その比(ころ)の太夫は皆、謡で声を練た人が義太夫節をやつたのです、初代義太夫の云ひ伝へに「口伝は師匠なれ共稽古は森羅万象也」とあります、まことそれに違い厶いません。私もこの暑い時分は暫く此地(こゝ)でゆつくり静養致しまして又秋から文楽座へ出る積りで厶い升此写真は本年写しましたのです、私は今年七十一で細君(これ)も(傍(そば)にゐられた高子)同年で厶います。(了)
提供者:ね太郎