文楽と法師さん
藤田斗南 文楽 3巻7号
文楽の三味線と地唄法師さんとの関係は仲々深いものであつた。近ごろの若い三味線弾きは地唄を習ひに行くやうな奇特な心がけの人は少いやうであるが、亡くなつた道八さんなども地唄は必ずやつておかぬといけないことを力説してゐた。義太夫の三味線には地唄から取つた手が沢山ある。と云ふよりも共通した手法のものと申してよいところが多い。それだけに芸談や修業にも一脈通じるところがあり、明治時代までの法師さんは毎月欠かさず文楽を聴きに行く、舞台の方でも顔なじみだけに今日は楽山さんが来てゐる、昨日は南派や中すじのお師匠だつたと緊張して弾き、桟敷裏に挨拶に行つては、どこでどう弾いたか、あすこがイケナイと駄目を出されたりしたもので、芸の相談相手として法師さんは、三味弾きに取つて必要の存在でもあつた。それで何か新しい手付のものが出るとなると、智恵を借りに行く。
昔のものでは地唄をうまく取り入れて面白い曲となつてゐるものは沢山ある。たとへば野崎村の道行のシヤシヤシヤンシヤンの賑やかな手事は、地唄の出口の柳の手をアレンヂしたものだし、新しいところには壺坂では、露の蝶やまゝの川をはじめに取り入れ、終りは万歳を取つたりしてゐる。もつとも近いことでは楠昔噺のどんぶりこの人形で遣てるところの手事は法師さんの作曲である。
このごろの文楽の三味線弾きの人々が、芸のみに生くと云ふより理智的な生活−−これは文楽の組織や周囲の環境が昔といちゞるしい変化したので止むを得ぬことだが−−から、地唄などを勉強せぬことも仕方が無いが、先輩連もこうしたことをすゝめないことにも責任もあると思ふ。近く亡くなつた人でも菊原検校と友次郎さん、中川検校と叶さんとなどの交遊など、いろいろそれにからむ秘話や逸話がある。
明治中年までの法師さんには、なか/\徹底した芸匠があつた。なかでも菊山さんなどは箏三味線も胡弓もなんでもの名人であつてそのころ斯道に鳴らしてゐたが、その時代は当時の紳士伸高大家の宴会などには、各方面の芸人を招いてお座敷と称して名流の芸を聴くことが盛んであつた。そのお座敷には菊山さんはよく招かれるがお座敷を終つた帰りには、そのお礼の余勢を懐ろにお伴の三味線屋さんを連れて必ずどこかの料亭へ一杯呑みに行く、そして少し酔が廻はつてくると、文楽の誰れそれに来て貰つてくれ、落語家の誰れも呼んでくれと、お大尽気取りで御祝儀をはづんで一夕の芸談が盃ともに交はされることが例であつたと伝へられてゐる。それで菊山さんはお座敷に行つて相当の大金を頂戴に及ぶことが月のうち数度もあるのに帰りに費ふ方が沢山の支出で、いつも足を出して赤字であつたとその逸話が残つてゐる。こんな一つの風格のある法師さんも現代では見られぬやうになつたが、文楽の三味線貧困の今日昔のやうに義太夫と地唄の大家との交遊と芸の交流を取りもどしたい。私など幼いころの記憶によると文楽の大序の若い三味線弾が十人から目ぢろ押しに列んで弾かされてゐたが、その時分の三味線の調子、音ツボの揃つてゐること美しかつたことが思ひ出される。これにくらべるとこのごろの三味線はずつと人数が少い合奏なめの音の汚いこと甚だ申分あり失礼だが三味線貧困と申してよいであらう。これは余談であるが今の勝平さんが幼い小学校のころ、私は神戸で同じ級に通つてゐた。勝平さんも私も箏を習つてゐたので、二人は「オマエこのごろ何習とるのや」「ワイハ八代獅子や」など餓鬼にしては異色ある会話であつたことを思ひ出したなつかしい夢である。