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【藤澤桓夫 吉田栄三のこと 文楽】

(2019.12.09)
提供者:ね太郎
  
藤澤桓夫 吉田榮三のこと 文楽 2(3)pp7-8 1947.4.1 PDF
 
吉田榮三のこと
藤澤桓夫
 私は少年時代を大阪の島之内で送つた。私の父は漢學者であつたが、竹屋町の私たちの家の周圍は商人の家ばかりであつた。商人の子供たちの間で私は一種の異端者のやうな少年時代を送つた。
 私たちの家族は家から一町半ばかり北の方にある大寳寺町の錢湯へ通つてゐた。
 日曜日など、割合に早く、晝前にその錢湯に行くと、時どき見かける一人の一風變つた老人があつた。
 尤も、老人と言つても、今から三十年の昔のその頃、その人の實際の年齢はまだ四十代であつたかも知れない。が、子供の私にはなぜかその人がひどく老人くさく見えた。
 いつも少し眉をしかめて、その人は氣むづかしい顔をしてゐた。よほど無口な人と見え、私はその人が他の浴客と口を利いてゐるのを見た記憶は一度もない。痩せた貧弱な身體つきをしてゐたが、全くどこか惡いのではないかと思ふくらゐ、その人は、陰氣な顔をして、いつも何か考へこんでゐた。何か眼に見えない物の重味を、自分の眼の前で、始終ぢつと計つてゐるやうでもあつた。
 とにかく、一風變つたむつかしさうな人で、その人の苦り切つた淺Kい顔には、片方の下顎にそつて、手術か怪我でもしたあとらしい一筋の長い創があつた。そのため、下唇が少し歪んで見えた。
 潔癖な人らしく、私は、その人が上り湯の箱の前に蹲んで、背中を少し猫にしながら、ゆつくり丁寧に身體を拭いたり、手拭を濯いだりしてゐた姿を、今もはつきりと眼底に思ひ浮べることが出來る。
 或る日、その頃私はもう中學生になつてゐたが、湯槽から出て、身體を拭く前に、中學生らしく何杯も水を浴びてゐると、傍の上り湯の箱の前から、
「あんた。あんた。」
と、低い聲で私を呼ぶ者があつた。
 振り向くと、その老人だつた。さう威勢よく水を浴びられては飛沫がかかつて迷惑する、と口數少くたしなめてゐるのだつた。
「済みません。」
 私はすぐ遺憾の意を表したが、心のなかで、うるさい親爺だな、と思つた。
 その氣むづかしい老人が文樂の人形遣ひの名人吉田榮三であつたことを知つたのは、それから四五年して、私が大阪高等學校にはいり、日曜日毎に文樂座へ通ふやうになつてからだつた。
 −右の思ひ出話を、つい最近、私の母−竹屋町の家を燒かれて、今は芦屋に住んでゐる母に會つた時に話すと、母はすぐに、
「さうや。榮三はんは鰻谷の濱側の家に昔からずつと住んではつたんや。あの人もたうたう亡くなりはつたな。」と言つた。
 そして、次のやうな話を聞かせてくれた。
 空襲が頻繁になりはじめた頃、吉田榮三の住んでゐた町内では、萬一の場合を慮つて、老人たちはみんな田舎へ疎開させる方針を取つた。ところが、榮三老人だけは、町會の人や隣組の人がいくら口を酸つぱくして勸めても、どうしても立ち退くととを肯んぜず、「私は小さい時からここで育つて、ここから文樂に通うて修行をして、歳を取つた。ここは私に取つてこの世のなかで一番馴染の深い土地だす。もうこの歳になつて、他の土地へ行つて住むのんは御免だす。そやさかい、どうぞ放つといとくれやす。」
と言つてきかなかつた。
 しかし、老人が大阪の寳−と言ふよりは日本の寳のやうな得難い人であることを世間の噂で知り、晩年にあるこの藝道の人を尊敬し、この老人が自分たちの町内に住んでゐることを一種の誇りに思つてゐた町内の人々は、それだけに餘計もしものことがあつてはと、なほも何度も榮三に疎開を勸めた。が、老人は相變らず頑固だつた。
「どうぞ放つといとくれやす。私は、もう歳も歳やし、いつ死んでも構ひまへん。この鰻谷で死ねたら私の本望だす。
どうぞ私をここで死なしとくなはれ。」
 そして、吉田榮三は、永年住み馴れたわが家が焼けてしまふその日まで、たうとう鰻谷から動かなかつたと言ふ。(作家)