蝿たゝき

鶴沢友次郎 文楽 1巻1号

  

 何芸術も同じことだとは思ひますが、私どもの芸事はすべて気合を第一の目的として進んで居ります。御承知の通り、神社仏閣の前に、狗犬とか唐獅子、それが両方に1つ宛列んで居ります。これは一方は口を開きまして、一方は口を結びまして、これを阿吽と申します。開きました方を浄瑠璃の太夫、結びました方が三味線、この阿吽の気合で、両人が舞台を熱心に努めまする。これが浄瑠璃の本義でござゐます。

 人形使ひの名入に吉田玉造と云ふ人形使ひがござゐます。此の人が「千本桜、すしや」の、いがみの権太を使つて居りまして、その権太の中に非常にはげしい気合の場面がございます。権太が首桶を下げまして、惟盛の跡を追ふ所でござゐます。非常に激しい所で、太夫、三味線、人形この三人の気持と気合がかつちりと合ひまして、その途端に玉造の丹田に力がこもつて居りました為に、腹巻が千裂れました。これは楽屋内で有名な話しとして、未だに話題に残つて居ります。

 私は十三才の時に京都から三味線の修業に参りましたが、其の時は未だ汽車が出来て間も無い時分でございまして、私の父などは、汽車の事を陸蒸気と申して居りました。子供を大阪にやるにも、陸蒸気では危い、三十石で行け、といふわけで、宵に京都を出まして、翌日の暁方に八軒家に着きました。只今貯金局がござゐます所に、沢山一膳めしやがござゐまして、其の一膳めしやで朝飯を食べて、此処からすぐ志す竹本長尾太夫と言ふ師匠の所に三味線の修業に参りました。ところがこの長尾太夫の家は非常に蝿の多い家でござりまして、私が蝿を捕る役を申付かりました。長尾太夫さんは、只今申しました気合を非常に喧しくいふ人、三味線も気合、浄瑠璃も気合、何事も気合と言ふ事を申されます。三味線を弾いて居りましても、その気合で行けとか何か、いつも気合をやかましく言はれました。私が蝿を捕るのもやはり気合。「蝿取りを持つて来い」「はいッ」と言つて持つて参ります。「それ叩け」「ハイツ」パンとやるが見事に叩き損ふと、「腰の気合が悪い」「もつと丹田に力を入れよ。」「はいツ。」「そらゆけツ」といふあんばい。うまく命中すると賞められます。毎日さういふ風に、蝿を捕る稽古ばかり致して居りまして、三味線より蝿取の方が専門になりさうでございました。

 此の師匠の家に、毎日田村さんといふ御隠居が稽古に見えますが、これが非常な堅門徒で、往来を歩いてゐても「南無阿彌陀佛」を口から絶やした事がないといふ信心家でございますから、蝿などを叩いて殺すのを非常に厭がられます。丁度其の隠居が、稽古に見えます時分に、私は何時も蝿を捕つて居りますので、出て来られましても、御隠居は厭な顔をして見て見ぬ振りをして居られます。然し私も役目ですから、どうしても蝿を捕らねばならないから、蝿が来たら捕らうと云ふので、構えて居ります。御隠居はどうぞ此の蝿が逃げて呉れゝばいゝと拝んで居られます。私は此の蝿を逃がしたら、一期の浮沈でござゐますから、逃がす事が出来ません。片方は逃げて呉れと拝んで居られます。所が私はまるで宮本武藏の様な気合で、「やツ」と打つ。命中すると、師匠が「上手いツ」隠居は「南無阿彌陀佛」と拝まれます。次は障子に止つて居る青蝿を捕れ、といふ事になる。これは一寸難しいのであります。障子に止つて居るやつはつい逃がしてしまふ。すると師匠は「馬鹿ツ、さういふ気合で三味線が弾けるか」と大目玉です。御隠居はニコ/\笑つて居られます。私が怒られると、御隠居は喜んで居られる、私が賞められると御隠居は南無阿彌陀佛。これでは蝿も定めて極楽往生をする事でござゐませう。

 毎晩の様に、私は師匠の按摩を致します。何時迄経つても「もう好い」と云ふて呉れません。居眠つて居られます。こつちは両手と背中が凝り始めて来ます。手がだるうなつて、しまぴに睡気がさして来ます。すると師匠が、「越夫(私の幼名)何処に行きよつた、又遊びに行きよつたな、極道奴ツ」「はあ、按摩して居ります」「アさうか、忘れて居た」。これでは夜通し揉んで居りましても、果しがござゐません。

 大正の名人と云はれました三代目越路太夫さん、若い時の名を常子太夫と申しますが、その頃豊沢団七と云ふ至つてきびしい師匠がござゐまして、其の師匠の下に修業に参りまして、毎日きびしい稽古をつけてもらうてゐました。その稽古といふのが、もう打つ、蹴るなどはなまやさしい事で、折々は、庭の松の木に縛りつけられて、そこで昔の罪人の様に折檻せられます。隣りの人達が余り見兼ねまして、謝つてくれます。謝つてくれますが、それもさう/\毎日は謝り手が続きませんので、今日はどうぞお向ひ、今日はお隣りと云ふ訳で、町内会の回覧板みたいに謝り手が毎日代ります。然しそれも余り毎日になりますと、面倒になりまして、あの頑固爺には困るから止めておきませうかといつた具合で、手を引いて了ひます。団七さん手持無沙汰になりまして、後の始末に困りました。

 ある一日、稽古に熱中の始り撥で常子太夫の頭を打ちましたが、思はず力が入りまして、頭が切れ血が流れ出ました。さすがの団七さんもびつくりしまして、傷の手当を致しまして、その翌日からは余り手荒い事はしなくなりました。けれどもやはり扇子で打つ位は、常事になつて居ります。かういふきびしい師匠でしたが、又一面稽古が良く出来た、良く覚えたと云ふ時には、今日は御褒美にお蕎麦を御馳走してやる、或ぼお寿司を御馳走してやると云ふ風に、優しみのあつた人でござゐますが、さうした厳しい稽古のおかげと申しませうか。さすがに常子太夫は子供の時分から麒麟児、秀才と謂はれまして、浄界では一等群を抜いて居りました。さうして終ひには二代目越路太夫に認められまして、三代目越路太夫を襲名致し、後に斯界最高の紋下の栄冠を戴きましたが、越路太夫は、私が紋下の栄冠を戴いた事は決して私の力ぢやない。子供の時分にきびしい躾をして頂いた団七師匠のお蔭である。この頭の傷は師の賜であると始終申して喜んで居られました。又始終団七さんを御自分の親の様にして、大切に世話をして居りました。

 この越路太夫が中年の頃のお話ですが、舞台に上りまして、自分の得意の所を語つて居りますと、前から喝采を頂きます。或は賞め言葉を頂きます。それが気になるといつて越路は非常に苦しみました、何故賞められて苦しむかと云ひますと、どうも賞められたり、喝釆を受けたりなどするのは、自分の芸に隙があるからで、未だ修業が足らないのだといふのです。それで到頭舞台で白湯を飲む事をやめてしまひました。するとエライものでその日から聴衆の喝釆を受けぬ様になりました。それは確に気合が入り、隙が無くなつたのでござゐます。けれども此の一時間、一時間半といふ長い間、浄瑠璃を白湯を飲まずに語り終せると云ふ事は、仲々常人の出来ることではないのでござゐます。やはり名を出す入は、心掛けが格別でござゐます。

 今橋に緒方病院と云ふのがござゐました。只今の先代の緒方正清先生は、大変浄瑠璃がお好きで、お好きと云ふよりは、浄瑠璃気狂ひと云ふ程のお好きさでござゐました。私が稽古を頼まれまして、毎日教授に参つて居りましたが、仲々お稽古の時間が厳重でござゐまして、十二時から一時迄、とちやんと時間を決め、看護婦に云ひつけられまして、此の稽古中は如何なる来客にも面会謝絶といふ事になつて居りました。ところがある出入の人が、おべつかに、どうぞ院長の浄瑠璃を一遍聞かして頂き度いと云つて上つて来ましたが、途中で這々の態で逃げて帰つたと云ふ、お上手さですから御想像願ひます。私のお稽古は近松門左衛門作の国姓爺、和唐内が錦州城を訪ねて参ります楼門の段、これをお稽古しまして二年半かゝつて、漸くそれが出來上りました。丁度その時御霊の文楽で国姓爺の興行をする事になりました。緒方先生は早速病院の看護婦達をお引つれになつて聴きにおいでになりました。私が舞台から見て居りますと、先生まるで自分が語りさうな顔をして、頻りに首を振つて見て居られます、定めし何か感想があるだらうと思つて翌日何時もの通り、稽古に参りまして、先生如何でした、と聴きますと、師匠やはり浄瑠璃語りは人形を見る必要があるなどと申されます。どういふ所でさうお感じになつたかと訊くと、師匠錦愁女は女でしたね。−−私もこれには驚きました。二年半かかつて、国姓爺のお稽古して、錦愁女は女だつたね、は肝をぬかれます。如何なる御名医も浄瑠璃の御診断は別だと思ひました。東京に参りました時に、後藤新平伯にお目に掛りましたが、其の時後藤伯が、師匠、緒方の義太夫は止めさせてくれ、医者が下手に見えると仰言つた事がありました。素人浄瑠璃で、昔も今も、上手な方は沢山ござゐますが、これとても始めから上手と云ふ訳にも参りません。やはり玄人同様、修業せられ、研究も積まれた後、上手になるのでござゐます。先づ最初は発声、第二に苦しみ、第三が笑ひ、第四は泣く事、これを順々に研究致します。桃栗三年柿八年と云ふ事がござゐますが、これを浄瑠璃の方で、笑ひ三年泣き八年ともぢつてござゐますが、仲々本当に笑つたり泣いたりする事は、三年や八年では出来にくい事でござゐます。初代豊竹呂太夫と云ふ人、素人の時分に呂徳と申しました、有名な人でござゐます。毎夜提燈を下げて、大手橋、その時分には、さか橋と申しまして、木造の極く粗末な橋でござゐましたが、其の橋を通つて毎晩時を違へず、師匠の許に通はれました。さうして帰りには、必ず橋の眞中で、川面に向つて泣いたり、笑つたり、修業せられました。その時分は人通りがござゐませんから、いくら大きな声を出しても咎める人もござゐません。それである時に、警戒の人が通り合はせて、余りおう/\泣いて居られますので、身投者と間違はれて説諭を受けたと云ふ、本当の笑ひ話もござゐます。

 総て芸に楽しんで居りますと、例へば俳句をなさる方は、何を見ても俳句になる。これと同じ事で、往来を吾々が歩いて居りましても、一寸つまづく、あツ痛ツ、このあツ痛が浄瑠璃になります。又腹が痛い、腰が痛い、あらゆる痛いもの、それもやはり浄瑠璃になつて来ます。この痛さは何処に持つて行くかと苦心する。砦それは浄瑠璃になるのであります。一番難しいのは段梯子を昇つて行つて向脛を打つた時の痛さ、これが一番むつかしい。笑ひ泣きと申しまして非常に難しい。

 三味線も三筋の糸で三本の指で、喜怒哀楽の音色を現します。これが出来ませんと本当の一人前とは申されません。浄瑠璃もいくら大きな声を持ちましても、声ばかり発しましても、声ばかりでは観客に感動を与へる事は出来ません。やはり喜怒哀楽、人情の道を語り得ましてこそ、近松門左衛門、竹田出雲の名作を語れるものと存じます。明治十八年にアメリカのメーソンと云ふ人が日本にやつて参りまして、日本の音曲は駄目だ。すぐにアメリカの楽器と変えたが良からうと云ふ事を云ひ廻りました。私の先代の友次郎がそれを聞きまして、大きに不満を感じまして、では日本の音曲の司である三味線を聴かさうと云ふので門弟を二十人程連れまして、東山の知恩院の大広間で、メーソンを招待致しまして、私も末席を汚しましたが、「寿式三番叟」を演じました、所がそれが終りますと、メーソンはびつくり致しまして、これ程結構なものがあるとは知らなかつた。我国の音楽の比ではない。「日本の三味線は三筋の糸で三本の指で、あれ丈の音色を現す、殊にあれ丈の大勢の人が一糸乱れず演ずると云ふ事は、仲々難しい事である、大したものだと大変に感心されたと聞いております。