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【 名人豊澤松太郎師を偲ぶ 】

(2014.07.05掲載)
提供者:ね太郎
 
 
名人豊澤松太郎師を偲ぶ 川端柳蛙 太棹101-104号
 
名人豊澤松太郎師を偲ぶ(一) 太棹101号 p9-13
 
 何と云ふ大きな存在であらふ。初代豊沢団平師を斯道の人は日蓮様と云ふそうだが、私はこの松太郎師を斯道のお天道様と云ひたい。人類の一番大切なものは太陽であると同様に、斯道に於ける師の存在は最も大切なものであつた。日に日に衰退を辿りつゝある義太夫節を是正するかの様に、高所より黙々として太陽の様な光りを放つて居たのが師の姿であつたこの偉大なる斯道のお天道様は終に雲に隠れたのである。
 昭和十三年十月十九日午後二時十五分−噫−この日は何と云ふ悪日であつたらふか。今の世に残れる唯一の名人、不世出のこの達人の霊魂は永久に滅したのである、斯道の為め、何と云ふて悲しんでよいのか、私はその詞を知らない。
 現在の浄曲人にして、直接関接の違ひはあるが、師の芸恩を被らぬものは幾人あらふか。大阪浄曲界上層部の人達は、百里の道を遠しとせず、寸暇を利しては常に師の門を叩き教を受け且つ研究して居る。津太夫師、古靱太夫師を始め、新左ヱ門師は云ふまでもなく、友治郎師の如きは最も熱心な師の信者である。斯かる斯道の権威者であり、斯道の手本となり後人のよき指導者である人々にして師の芸風を研究して居らるゝを見ても、如何に師の芸格が貴ひものであつたかゞ頷づかれる。
 斯道には古来より幾多の名人達人を産出してゐる、併しその多くは表現芸術としての権威であつて、自個の命掛けの修行に依つて会得した貴ひ芸風を後人に残すと云ふには熱心の足らぬ嫌ひがあつたやうだ。気に入りの極く少数の門人ヘ口写しに伝へると云ふ事が最大の方法であつたやうだ。故に二代三代と伝はる中には、名人苦心の風格を正確に伝へ得るとは保証仕難い。二段や三段と違ひ、何十段何百段を口写しに教へる事は到底出来得ない、故に確実な朱入本として残すより方法はない。併しこ 仕事は中々の難事である。五十段や百段の朱本を残した人は幾何もあるが、師の残せし朱本は千段を遠く越へてゐるのであるから驚嘆の外はない。其中にも最も貴ひものは、現在全然行はれてゐない古曲が数百種と道行物が百数十種からある事である。是等を一段/\丁寧に入朱し、風格の区別を明らかにし、其上師の解釈を附記してある。斯道の知識ある者が見れば一目瞭然と云ふ実に貴ひ書である。千外古来より斯道の秘伝虎の巻として、一切他見を許されなかつた『節尽し朱の鑑』並に初代団平師が師の為めに特に書残してくれた『口伝』と称する秘書とがある。これ等は特に他人に知れぬ様符牒で入朱してあるのを、後人の為め斯道共通の朱に入替へて残してある。
 斯くの如き前人未踏の大事業を完成するまでには、師は四十年の歳月を捧げてゐる。師は娯楽とか趣味とかと云ふものは何にもない。只浄曲の研究が趣味であり娯楽であつたのである。朝は五時には必ず起床され、神仏を礼拝して直ぐ机に向ひ筆を取る、そして三味線を弾いては研究される。三味線の音がしてゐなければ必ず筆を持つてゐると云ふ精進振りであつた。それが終日……否……終年……四十年間の全部の生活であつたのである凡骨のなし得られる事ではない、真に神であるとしか思はれぬ日常であつたのである。猿之助師は尊父のこの精励努力振りを見て、健康を気づかひ、たまには温泉へでもと誘はれても『温泉へ行つても三味線を弾くのが気兼で研究が出来ぬから』と云つて終に行かれた事はなかつたそうである。
 大正十二年の春の事である。数十年の努力に依つて完成された『節尽し朱の鑑』初代団平師の秘書『口伝』並に煙滅されて廃去となつてゐたものを苦心の結果調べ上げた『古曲』数種、不明となつてゐた『古曲節調』其他義太夫節に関する得難き著書を、東京音楽学校へ寄附された時、同校教授黒木勘蔵先生が師を訪問されて、土蔵の中に山積されてゐる著述を見て驚嘆し『斯かる大著書をこの儘埋もらせて置くは残念である、斯道の為め広く公開されては如何』と勧められた極端な謙遜家である師は、今まで一門の人々により再三勧めたのにも耳を貸さなかつたのであるが、黒木先生の勧告に始めて決意して、一門の人々の協力のもとに秋に展覧会を聞く事に決定して準備にかゝつた。そしてこの一大事業の記念の為め前記『節尽し朱の鑑』と団平師の『口伝』を菊版六百ページのものに纏めて斯道の人々に寄贈すべく印刷所へ廻し、最早完成近くなつた時、あの大震災に遭遇して、原本は勿論、得難き参考書籍全部を烏有に帰し、師の一大事業は挫折のやむなきに至つたのである。
 この時一門の人々の落胆は非常なものであつた。師の心境を察して何と慰めてよいか詞もなかつた。師の感情に振れる事を恐れ、皆云合せて此事に振れる事をさけてゐた。併し凡人でない師は泰然として、余震の未だ終らぬ仮宅の中で、ローソクの火影をたよりに再度の大事業を目指して第一歩の筆を染られたのである。
 猿之助師はこの様子を見て心配され、老体の上非常な傷動を受けてゐる際とて健康をそこねてはと『この際充分静養されて、家でも出来てからゆつくりとなされては』と勧めると『イヤわしが仕なければ世に埋れてしまふ古曲が沢山ある、それを思ふと一日もじつとしてゐては祖先へ申訳がない、この仕事は御師匠様(初代団平師)から命ぜられたわしの使命である』と非常な決意のもとに机に向かはれる尊父の姿から光を放つたやうに感じられ、余りの貴さに思ず手を合せて拝んだと云ふ事である。
 幸ひにして前に音楽学校へ寄附した著書は火災を逃れたので、借用して参考として、震災後十五年にして再度の大事業を完成され、祖先への忠も尽し、師への義も果され、大安心のもとに大往生をとげられたのである。
 この貴ひ大著書は、猿之助芳太郎両氏の手で保存されてゐるから、今後何かの機会に世に公開される事と思ふ。
 次の記事は大正十二年の春、師が著書公開を決意された時、都新聞に掲載された記事である。
 名人豊澤松太郎が一代の偉業
 古曲珍曲の保存秘伝
 二冊の寄贈
 我が日本の義太夫界で名実共に優れた豊澤松太郎は大阪の土地を去つて三十年竹本朝太夫の合三味線として、相変らず雄渾な技芸の持主であると同時に、其織巧にして別健な音色は斯界の国宝として珍重されてゐる。其松太郎が今度近松の二百年、義太夫の祖竹本義太夫の二百十年自分が朝太夫を弾いて三十年と云ふ、いろ/\を記念する為めに非常の大苦心を以て節付した古曲類千五百段を稿本三部にして東京音楽学校に寄贈し、別に菊版五六百ページの書籍として目下印刷中今秋出来上る筈になつてる。松太郎は今年六十七、折あれば机に向つて煙滅された古曲を調べ、或は不明になつた節付けを考へ、こゝに此著述を完成する事になつたので、其中道行物計りを集めたのが十六巻にして百十六段「関羽」「京名所」「橋供養」「古戦場しのぶ売」「源家七代集」「富士見西行」「源氏十二段」「自然居士」など珍曲多く尚ほ大阪の郷土芸術とする地歌の煙滅されんとするもの二巻数十回さへ節付したのが別にあると云ふ。其精力と篤学努力は真に驚嘆すべきものである。まだ此他に院本の研究、古曲節調の研究、其他秘伝とされてゐるものなどを纏めて全部音楽学校に寄贈したので、同校教授黒木勘蔵氏は松太郎の宅へ行つて是れ等の著述を見て驚嘆したと云ふ。要するに其道の知識あるものが見れば誰が見ても其節やら三味線やらの手が、直に判るやうに細かく朱を入れた写本やら、義太夫の参考資料などを一纏めにしたもので、学校へ寄贈したのを更に写本して、今秋展覧会を開いて一般に公開する事になつてゐる。松太郎は人も知る十歳の時、先代浜右衛門の門に入り、其後初代団平に見込まれて稲荷座では名人組太夫、大隅太夫を弾いて嘖々の盛名を馳せた人である、尚ほ松太郎が斯う云ふ研究を永年続けて来た事に就ては、松太郎自身は一切人に知らせず、唯自分一人丈けで今日まで続けて来たものだが、それを何としても此儘で埋れさせて了ふのは残念だとあつて息子の猿之助、芳太郎其他門弟連から成る師恩会から勧めて漸く世間へ発表する事になつたと云ふが、兎に角義太夫道に取つては復興の神とも云ふべく真に稀有の話である。
 
名人豊澤松太郎師を偲ぶ(二) 太棹102号 p14-16
 
 豊澤松太郎師は本名高木松太郎、安政五年大阪上町に生れ、九歳にして三代目豊澤浜右衛門師に入門、師没後初代鶴澤清六師五代目豊澤広助師に師事し、慶応三年の春十一歳にて天満の芝居を初舞台とし、それより各座へ出勤した。
 昭和五年七月当時世話語りの名人と云はれた竹本内匠太夫師に見込まれ、同師の合三味線として一座を組織して上京した。当時師は十六歳の少年であつた。在京二ケ年にして同七年の春帰阪し、直ちに竹田の芝居(今の弁天座)へ出勤して竹本文字太夫師を弾ひた。太夫没後、堀江、市の側、大江橋、御霊の各座へ出勤した。
 明治十年二月御霊の芝居(後の文楽座)で『祇園祭礼信仰記』の『天下茶屋の段』で、初代豊竹呂太夫師を弾ひた。この時師は二十一歳の青年であつたが、三段目の本役を勤めた功によつて、因講(今の日本因会)より中老に推選された。その異例な昇身振りは斯界の賞讃の的となつた。
 明治十八年先代豊竹駒太夫師を弾ひて彦六座へ出勤した。これより初代豊竹団平師に見込まれ親しく指導を受けるに至つた。師はこの団平師より受けた薫陶を非常に徳とし、世に自分ほど幸福な者は`ないと云ふて、晩年まで団平師の表像の前にぬかづき感謝を捧げぬ日は一日もなかつた。
 当時団平師を中心として文楽座へ対し虹のやうな気焔を揚げてゐた彦六座にあつて、師は竹本組太夫師竹本大隅太夫師の合三味線を勤め大いに活躍してゐた。この当時が師の最も張切つた、腕も気分も最高潮に達した得意時代であつたやうに思はれる。
 明治二十六年竹本組太夫師と倶に上京して各席へ出勤し多大の高評を博した。組太夫師帰阪後は東京に止まり、朝太夫師と一座を組織し爾来三十幾年の合三味線として、一日も離れる事なく、日本三夫婦の美談を残すに至つた。
 日本三夫婦とは、義太夫節の先祖竹本義太夫節の三味線を勤めた、斯道三味線の祖竹澤権右衛門師は三十一年間終始一貫、義太夫師のよき女房役として、同師にあの覇業をなさしめた功人である。
 安永時代の名人竹本長門太夫師の合三味線初代鶴澤清七師は二十六年間夫婦役を続けた。同師は三味線の朱章の考案者で斯道の功人である。後に三代目鶴澤友治郎を襲名した名人である。
 それとこの朝太夫松太郎の夫婦を日本三夫婦と称し斯界の美談となつた。
 昭和二年一月興行より朝太夫師と倶に文楽座へ出勤し、本格的の技芸と謹高な人格は後人のよき指導者として尊敬の的となる事爾来三ケ年。朝太夫師の病気により退座と決定せし折は、各方面から惜まれ、紋下竹本津太夫師の合三味線として残るやうにと懇望されたが、朝太夫師存命中は節を曲げすの立前から、八方よりの勧告を振り切つて帰京した。
 後朝太夫没後、豊竹古靱太夫師の竹本綱太夫襲名及び紋下昇任問題の起りし折これを機会に是非合三味線として入座指導されたいと懇切な招聘を受けたが、老骨その任にあらずと謙遜して辞退した。
 老ひて愈々堂に入つた神技は一糸乱れる透もなく、打撥の鋭どき事は岩をも砕く勢ひにて、師に付いて研究してゐた今の鶴澤寛治郎師の如きは、余りの偉大さに真青になつて震ひ上つたと云ふ事である。
 この神技を以つて、あの万夫不当の勇壮の中に玉を転がすが如き優美な芸の持主である古靱太夫師と、二人並んだ舞台からどんな大芸術が生れ出るかを絶大な期待をかけたが、終に実現に至らず残念である。
 併し師の心境を推察するに、三十年一日の如く一つ舞台に苦楽を倶にし来つた相手を失ない、再び舞台へ立つ事は師の性格が許さなかつたのであると考へる。人気とか名誉とか云ふ事に全然執着心のなかつた師としては、かへつてそれが満足であつた事であらふと思ふ。
 師は若年の頃より謹み深き性格であつたので、当時の芸人界にあつたやうな洒脱な滑稽味のある逸話は少ないが、師が生前気嫌のよい時にぼつ/\話してゐられた事を、これから追々書いて見ようと思ふ。
 師が生涯を通じて忘れる事の出来ないほど嬉しかつた事が三つある。その第一は師の十三歳の時、当時薫陶を受けてゐた初代鶴澤清六師が『艶書合せ』の手に一寸忘れた処があつたので、松太郎師を使ひとして当時斯界の大先輩であつた、建仁寺町の師匠で通つた五代目鶴澤友治郎師のもとへ聞きにやつた。友治郎師は『こんな子供を使ひによこしたとて覚えられるものではない』と云つて追返した清六師は『この子供なら大丈夫覚えるから手を附けてやつてくれ』と付手紙を持たして再び使ひにやつた。そこで友治郎師は不安心ながら十三歳の松太郎師に教へて見ると、すら/\と覚えてしまつた。友治郎師は驚いて『この子は今に大物になるぞ』と云つて舌を巻いたと云ふ事である。師は『この時の嬉しさは忘れられぬ』と云ふてゐられた。その後この友治郎師に可愛がられ親しく教を受ける事になつた。
 友治郎師は道行物の大家で、当時斯道の人々は皆こぞつて同師から道行物を習つたものである。松太郎師が特に道行物に造詣深かつたのはこの師匠の教訓の賜である。
 第二は師が十六歳の時、当時世話語りの名人と云はれた竹本内匠太夫師が東京興行へ出発するに際し、その合三味線に師が抜擢されて倶に上京した。当時の習慣として上京して興行する際は、重だつた太夫三四人と真の三味線一二人で上京し、あとは在京の同業者の中から助けて貰つて座を組んだものである。この時も上京したのは内匠師を中心に三四人の太夫と三味線は師一人であつた。
 直様東京の同業者と顔つなぎをして補助出演の人選を依頼した。ところが真の三味線が十六歳の少年であると云ふので、太夫の助け手はあるが三味線の出演者が一人もない『如何によく弾くか知らぬが子供の前を弾く為めに修行したのではない』と云ふて出てくれ手がない。
 明日初日と云ふ前日まで同業者の間を奔走していろ/\と了解を求めたのだが終に座組が出来なかつた。万策つきて残念ながら翌日は大阪へ帰らうと荷こしらへをしてゐる処へ、参加を申込んだ侠男子があつた。それはチヤキ/\の江戸つ子で、しかも芝の名物男鶴澤一二師である『折角はる/\大阪から上京したのに真の三味線の年が若いから出演せぬなどゝ云ふは余りにも肝魂の少さい振舞だ、若い真打ならなほ是を助けて立派な成績を上げさせるのが同業者の義務ではないか、江戸つ子の風上にも置けない奴等だ、俺が前の四段でも五段でも一人で引受けるから明日から初日を開けなさい』と義侠的出演を申込んだ。一座の人々は初めて愁眉を開いた思ひがした。中にも松太郎師は大層悦び同師の侠気を謝し、一旦下ろした看板を高くかゝげて初日を迎へた。
 当日は同業者の附合で在京の師匠連も大勢集まつた。表面は義理の顔出しだが内心は『小僧が何んな事を弾くか』とひやかし半分の応援である。内匠太夫松太郎の初日の語り物は『妹脊の門松、質店の段』である。御簾が上ると、十六歳の松太郎師が『チヽチン/\』、と例の前引を弾き出した時に『アツ』と叫んで座り直した人があつた。それは侠骨一二師の師匠筋に当るその頃東京で大先輩であつた六代目鶴澤蟻鳳師であつた。
 お染のサワリの可憐、久作の意見の純情、蔵前の悲哀と演じ来たつた時は、此処にも彼処にも感嘆の声が放たれた。終つて御簾が下りた時は満場の喝釆暫しはやまなかつた。中でも蟻鳳師の如きは真青になつて感動し、直ちに楽屋を訪問して松太郎師の手を取り絶大の讃美を送つたと云ふ事である。
 二日目からは入座希望者続出して立派な大一座が出来、爾来二ケ年間各席を興行し、大成功を納める事が出来た。師が年若くしてこの名誉を掴み得たのも皆一二師の義侠の賜であると大層同師の徳に心から感謝してゐられた。
 第三は初代団平師から秘書『工伝』を譲られた時である。団平師には千人の門人があつた。従つて多くの先輩もある。°その中から特に師が選ばれて一子相伝の虎の巻を譲られたのであるから名誉此上もないと感動されたのも無理ならざる事と思ふ。
 以上の三つを生涯通じて忘れる事の出来ない喜びであるとよく話をされてゐた。(つゞく)
 
 
名人豊澤松太郎師を偲ぶ(三) 太棹103号 p18-20
 
 明治七年の春、松太郎師が十七歳の時の事である。道頓堀竹田の芝居(今の弁天座)へ出勤中の事『桂川連理柵』が出て、帯屋は先代竹本津太夫師、道行の主役が三代目竹本茂太夫師三味線のシテが豊澤仙糸師(後六代目豊澤広助)人形は当時おやま遣ひの名人おやまの辰造と称せられた吉田辰造師であつた。
 この道行が大好評で連日大入を続けた。師は毎日この舞台を見聞して大層感動し、自分も早くあんな名人の人形で立三味線を勤めるやうになりたいと、閑のある毎にこの道行を練習してゐた。
 或る日の事、師が芝居へ出勤すると、仙糸師が急病で休演されて道行の代役が師へ廻つて来た。師は非常に悦んでこの代役を引受けた。日頃練習もしてあり、コンデツシヨンも充分とばかり舞台へ上り、得意になつて腕を振ひ、思ふ存分弾きまくり意気揚々と楽屋へ引上げて来た。
 すると、彼の名人おやまの辰造師が、満面怒気を含み烈火の如き勢ひで師の部屋へ飛び込んで来て、
 『今の三味線を弾きをつたのは何奴じやい。あんな弾方で人形が遣えると思ふか』
 と今にも掴みかゝらん勢ひで怒鳴られな。師はその剣幕に驚いて裏木戸から這々の体で逃げ出した。
 併しいくら考へてもその意を解せなかつた。自分ながら痛快を感じる程よく弾けたのに、何処が悪るかつたのだらうか?と不審でならなかつた。
 その後修業も積み研究を重ねて来て始めて辰造師の意を解する事が出来た。成程あの弾き方では人形は遣えなかつたらう。身心を人形に打込んで舞台を勤めてゐた辰造さんだから腹の立つたのも尤だアヽ済まない事である。早速謝まらねばならぬと思つた時は、その名人は此世の人ではなかつた。アヽ申訳がないと思ふと、居ても立つてもゐられず、直様墓前所へ詣ふでゝ衷心から詑びたと云ふ事である。
 これらの話しは師の日頃の性格がその儘現はれてゐて、聞いてゐる中に思はず頭が下る思ひがした。
 師の逸話は新左衛門師猿之助師等に聞いたなら相当面白い話もあると思ふが、それは後日の機会に譲る事にして次に師の出演年表を記す事にする。これは芳太郎師の保存してゐられる番附、番組等を基礎として調べたものだけを記すのであつて、出演の全部ではない事を御諒承願ひたい。
 尚新左衛門師猿之助師その他古老につき細しく調べ上る予定であるから、これまた後日の機会に掲げる事にしたい。
 
豊澤松太郎師出演年表
 
慶応三年春 天満芝居傾城反魂香吃又平名筆の段
  初舞台松太郎此時十一歳、竹本長尾太夫豊澤龍助(後六代目広助)の連引をなす
明治元年十一月 御霊社内芝居 菅原伝授手習鑑加茂堤の段
  太夫不詳
二年正月二日ヨリ 同 妹背山婦女庭訓芝六内の口掛乞の段
  太夫不詳此時の櫓下太夫竹本綱太夫名代高橋竹造
二年三月 同 仮名手本忠臣蔵進物の段
  太夫不詳櫓下同
二年八月 同 木下蔭狭間合戦 鮎汲の段
  竹本尾木太夫 櫓下名代高橋竹造 太夫竹本越太夫此時の切狂言は三勝半七酒屋の段豊竹靱太夫鶴澤鹿造琴ツレ松太郎(十三歳)
二年十一月 道頓堀竹田芝居 本朝廿四孝桔梗ケ原の段、花雲佐倉曙将門山の段
  太夫不詳 櫓下太夫竹本越太夫、座本豊松猪之助
三年五月 座摩社内芝居 絵本太功記妙心寺の段口
  太夫不詳
三年七月 同 大江山酒呑童子是則舘の段
  竹本真木太夫 頼光舘の段竹本勢見太夫野澤勝市琴ツレ松太郎(十四歳)
三年十一月 同 箱根霊験躄仇討滝の段口
  太夫不詳 同切竹本津嶋太夫櫓下太夫竹本賀太津夫
四年正月 同 妹背山婦女庭訓掛乞の段
  太夫不詳
 
『五年七月竹本田組太夫豊澤松太郎一座にて東京に来る松太郎十六歳七年の春帰阪四月より竹田芝居出勤』
 
七年四月 道頓堀竹田芝居 仮名手本忠臣蔵山崎街道の段切
  竹本文字太夫 櫓下太夫竹本山四郎、人形吉田金四、扇ケ谷の段竹本長尾太夫、与茂七住家の段竹本梶太夫、勘平住家の段中豊竹若太夫、切同竹本浜太夫、山科の段豊竹巴太夫(四代目)
七年月不詳 同 祇園女御九重錦大根畑の段
  竹本文字太夫
七年十月 堀江市の側芝居 出世太平記中国水責の段切、附物、碁大平記白石噺田植の段
  竹本文字太夫 櫓下太夫竹本山四郎、小栗栖村の段豊竹呂太夫、嘉平治住家の段口竹本春子太夫後の大隅太夫、同切竹本長尾太夫逆井村の段竹本浜太夫、浅草の段竹本山四郎、新吉原の段切竹本織太夫
七年月不詳 同 増補菅原伝授配所の段
  竹本文字太夫此時書下しより二度目の上演也
八年四月 道頓堀竹田芝居 八陣守護城此村屋敷の段切
  竹本文字太夫 櫓下太夫竹本山四郎、毒酒の段竹本浜太夫、正清本城の段豊竹巴太夫
八年五月 同 伽羅先代萩間清寺の段切、竹の間の段中
  竹本文字太夫 切御殿の段竹本織太夫
八年十一月 堀江市の側芝居 日蓮聖人御法海竜の口の段、池上本門寺の段
  竹本文字太夫 櫓下太夫竹本山四郎、勘作住家の段豊竹古靱太夫(初代)身延山の段竹本織太夫
九年四月 大江橋芝居 菅原伝授手習鑑天拝山の段、附物、敵討襤褸錦大晏寺堤の段
  初代豊竹呂太夫 道明寺の段豊竹巴太夫、佐田村の段竹本浜太夫、寺子屋の段竹本織太夫
九年五月 兵庫村の芝居 関取二代鑑秋津島腹切の段、源平布引滝四段目、敵討襤褸錦大晏寺堤の段
  豊竹呂太夫 此時の一座竹本春子太夫(後大隅太夫)豊澤九一(後二代目団平)竹本文字太夫豊竹巴太夫(四代目)鶴澤友次郎(先代)竹本山四郎豊澤兵吉。豊竹呂太夫豊沢松太郎。竹本織太夫豊澤新左衛門(初代)竹本春太夫豊澤団平(初代)
十年二月 御霊社内芝居 祇園祭礼信仰記天下茶屋の段切、此興行大当り三十日間大入続く〉
  豊竹呂太夫 松太郎此時二十一歳の若年にて三段目の大役を勤められし功により中老に昇進せらる(現今中老古老は年限なれど此時代は大役を勤めし勲功により昇進せしものなり)爪先鼠の段(初代)豊竹古靱太夫鶴澤徳太郎
十年三月 同 双蝶々曲輪日記八幡引窓の段
  豊竹呂太夫
十年九月 大江橋芝居 木下蔭狭間合戦来作住家の段
  豊竹呂太夫 櫓下竹本山四郎、壬生村の段竹本浜太夫、竹中砦の段竹本重太夫鶴澤寛治
十年十月 御霊社内芝居 五天笠須達長者住家の段切
  豊竹呂太夫 櫓下 同、堤婆御殿の段豊竹古靱太夫
 
(十一年五月九州へ行き十二月帰る、一座は竹本大和太夫、竹本朝太夫、豊澤仙次郎。竹本額太夫、豊澤松太郎、竹本勢見太夫、豊澤仙糸(六代目広助)竹本重太夫、鶴澤寛治
 
十三年四月 御霊土田の芝居、今の文楽座義経千本桜庵室の段、吉野山道行
  豊竹呂太夫 櫓下太夫竹本久太夫、渡海屋の段竹本久太夫、すし屋の段竹本綾瀬太夫道行花の玉垣シテ豊竹橘太夫ワキ竹本朝太夫ツレ竹本綾賀太夫ツレ豊竹桝太夫三味線豊澤松太郎ツレ豊澤新三郎、豊澤仙次郎、豊澤新七(後団八となる)豊澤新之助(後新新兵衛)野澤兵三(六代目吉兵衛)早見藤太吉田才治、忠信吉田辰五郎、静御前吉田七平
十年六月 道頓堀旭座 武士鑑忠臣実記弥作鎌腹の段
  豊竹呂太夫 櫓下太夫本大常、名代竹本浜太夫喜内住家の段切竹本浜太夫
十四年三月 大江橋芝居 妹背山婦女庭訓鱶七上使の段切、三段目掛合背山
  豊竹呂太夫 芝六住家の段豊竹嶋太夫、姫戻りの段竹本朝太夫、御殿の段竹本綾瀬太夫、背山大判事豊竹呂太夫、久我之助豊竹仮名太夫三味線豊澤松太郎、妹山定高竹本綾瀬太夫、雛鳥竹本多門太夫三味線鶴澤豊造(先々代)
十七年九月十二日ヨリ 稲荷彦六座 附物、義仲勲功記地蔵経の段切,
  高麗橋豊竹駒太夫 櫓下太夫竹本住太夫、三味線豊澤団平、人形吉田才治、此時松太郎彦六座始めての出勤
 
▼前号正誤 一四頁上段七行目昭和五年とあるは明治五年の誤植。
 
 
名人豊澤松太郎師を偲ぶ(四) 太棹104号 p17-20
 
豊澤松太郎師出演年表(二)
 
明治十七年十一月一日ヨリ 稲荷彦六座 伊賀越道中双六円覚寺の段
  豊竹駒太夫 沼津里の段竹本住太夫、岡崎の段豊竹柳適太夫
同年十一月廿四日ヨリ 稲荷彦六座 付物、ひら仮名盛衰記神崎揚屋の段切
  豊竹駒太夫 松右衛門住家の段豊竹柳適太夫
十八年二月一日ヨリ 稲荷彦六座 妹背山婦女庭訓芝六住家の段切、鱶七使者の段切
  竹本組太夫 三段目背山大判事豊竹柳適太夫、久我之助竹本源太夫、三味線(初代)豊沢団平、妹山、定高竹本住太夫、雛鳥竹本朝太夫、三味線(初代)豊澤新左衛門、御殿の段切竹本住太夫
同年二年廿八日ヨリ 稲荷彦六座 義経千本桜かたりの段
  竹本組太夫 梶原討手の段豊竹柳適太夫
十八年四月一日ヨリ 稲荷彦六座 絵本太功記久吉陣屋の段切
  竹本組太夫 杉の森の段竹本大隅太夫、尼ケ時の段豊竹柳滴太夫
十八年五月一日ヨリ 稲荷彦六座 五天笠須達長者住家の段
  竹本組太夫天笠御殿の段、一ツ家の段竹本住太夫、釈迦誕生の段豊竹柳適太夫、経山寺の段竹本大隅太夫
十八年六月六日ヨリ 稲荷彦六座 祇園祭礼信仰記天下茶屋の段、
  竹本組太夫 爪先鼠の段竹本大隅太夫
十八年七月二日ヨリ 稲荷彦六座 附物、伊勢音頭恋寝刃油屋の段切
  竹本組太夫 昼夏祭浪花鑑、夜生写朝顔日記 此時より昼夜興行となる
十八年九月三日ヨリ 日本魂四十七騎六冊目の切
  竹本組太夫
十八年十月六日ヨリ 稲荷彦六座 双蝶々曲輪日記八幡引窓の段切
  竹本組太夫 橋本の段竹本大隅太夫
十八年十一月十四日ヨリ 日蓮聖人御法海弥三郎住家の段切、法論石の段
  竹本組太夫 五太九郎の段豊竹新靱太夫、竜の口の段竹本朝太夫、勘作住家の殿中竹本越太夫、同切豊竹柳適太夫、法論石の段日蓮上人竹本大隅太夫、肥善坊竹本組太夫豊澤松太郎
十九年一月二日ヨリ 稲荷彦六座 仮名手本忠臣蔵勘平腹切の段切、廓文章吉田屋の段
  竹本組太夫 山科の段豊竹柳適太夫、吉田屋の段掛合、夕霧竹本朝太夫、伊左衛門竹本源太夫、喜左衛門竹本越太夫、おさき竹本袖太夫、由八竹本芳太夫、三味線豊澤松太郎
同年一月廿九日ヨリ 稲荷彦六座 新薄雪物語園部兵衛屋敷の段切
  竹本組太夫 鍛冶屋の段豊竹新靱太夫
十九年三月一日ヨリ 稲荷六座 大江山酒呑重子保昌屋敷の段切
  竹本組太夫 渡辺綱屋敷の段豊竹柳適太夫
十九年五月八日ヨリ 稲荷彦六座 弥陀本願三信記樋野左衛門屋敷段切
  竹本大隅太夫 豊澤団平作章の新浄瑠璃二十段続き、堅田源右衛門内の段切竹本組夫、夫、三味線豊澤団平、鈴木重行の段豊竹新靱太夫、肉付面の段竹本越太夫、越前三国汐待の段嫁おどし谷の段竹本朝太夫 此新浄瑠璃大当り
 
  比年の冬竹本組太夫豊澤松太郎一座九州へ行き翌年五月帰る
 
二十年六月一日ヨリ 稲荷彦六座 絵本太功記大徳寺焼香の段切
  竹本組太夫 中国阿蒙の段竹本大隅太夫、三味舘六初代)豊澤団平、杉の森の段竹本住太夫、尼ケ崎の段豊竹柳適太夫
廿一年一月二日ヨリ 稲荷彦六座 近江源氏先陣舘盛綱陣家の段切
  竹本組太夫 四斗兵衛住家の段竹本越太夫
廿二年一月二日ヨリ 附物、恋飛脚大和往来新口村の段切
  竹本住太夫 櫓下太夫竹本住太夫、三味線豊澤団平、人形吉田辰五郎と変る飛脚屋の段豊竹新靱太夫
廿二年一月廿七日ヨリ 稲荷彦六座 菅原伝授手習鑑寺子屋の段切
  竹本組太夫 櫓下太夫本寺井安四郎、三味線豊澤団平、人形辰五郎、道明寺の段豊竹柳適太夫、佐田村の段竹本越太夫、松太郎
  此時より太夫付となり三味線号付く
同年三月一日ヨリ 稲荷彦六座 附物、恋女房染分手網沓掛村より坂の下
  竹本組太夫 同吉由辰五郎三役早変り出遣三吉別れの段竹本越太夫
同年四月一日ヨリ 稲荷彦六座 祇園祭礼信仰記天下茶屋の段切
  竹本組太夫
同年五月一日ヨリ 稲荷彦六座 伽羅先代萩埴生村の段切
  竹本組太夫 御殿の段豊竹柳適太夫
同年六月一日ヨリ 稲荷彦六座 附物、夏祭浪花鑑田島町の段
  竹本組太夫 釣舟三婦内の段切竹本越太夫
同年九月一日ヨリ 稲荷彦六座 極彩色娘扇天王寺村兵助内段切
  竹本組太夫大松屋の段竹本源太夫、新鞁藤兵衛内の段竹本越太夫、天満老松町五郎右衛門内の段豊竹新靱太夫
同年十月 稲荷彦六座 加賀見山旧錦絵又助住家の段切
  竹本組太夫 長局の段竹本大隅太夫、三味線(初代)豊澤団平
同年十二月一日ヨリ 稲荷彦六座、奥州安達原一ツ家の段切
  竹本組太夫 謙杖切腹の段竹本大隅太夫、三味線豊澤団平
廿三年一月廿九日ヨリ 稲荷彦六座 伊賀越道中双六岡崎の段切
  竹本組太夫 櫓下太夫竹本大隅太夫、三味線豊澤団平、人形吉田辰五郎と変る
  附物、絵本太功記尼ヶ崎の段竹本大隅太夫三味線豊澤団平
同年三月一日ヨリ 稲荷彦六座 仮名手本忠臣蔵勘平住家の段切、道行
  竹本組太夫(真)中竹本朝太夫、扇ケ谷の段豊竹新靱太夫、山科の段切竹本大隅太夫三味線豊澤団平
廿三年三月廿八日ヨリ 稲荷彦六座 玉藻前旭袂道行宇治の川辺 附物、勢州阿漕浦平治住家の段
  田喜太夫其他、竹本組太夫 紂王御殿の段豊竹新靱太夫、道春舘の段竹本大隅太夫、三味線豊澤団平師、御殿の段竹本越太夫、道行宇治の川辺竹本田喜太夫、竹本伊達太夫(現土佐太夫)竹本越路太夫、竹本朝路太夫、三味線豊澤松太郎、ッレ豊澤仙治郎豊澤市造、豊澤惣太郎(今猿之助)、豊澤小作(今仙糸、豊澤浜幸
同年五月一日ヨリ 稲荷彦六座 西国三十三所花の山良弁杉由来の段
  竹本組太夫 櫓下太夫竹本組太夫、三味線豊澤団平、人形吉田辰五郎と変る 初代豊違団平作章の新浄瑠璃廿一段続き壼坂寺の段竹本大隅太夫、三味線初代豊澤団平
同年六月一日ヨリ 稲荷彦六座 大江山酒呑童子綱屋敷の段切
  竹本組太夫 櫓下太夫 此時より大隅太夫と組太夫一と芝居替りとなる 東寺の段竹本越太夫、保昌屋敷の段豊竹新靱太夫、松太夫内の段朝太夫
同七月一日ヨリ 稲荷彦六座 彦山権現誓助剣毛谷村の段
  竹本組太夫 小栗栖の殺竹本朝太夫
同年九月一日ヨリ 稲荷彦六座 附物、花上野誉石碑志渡寺の段切
  竹本組太夫 此時堀江大火に付休場
同年九月十五日ヨリ 稲荷彦六座 五天笠経山寺の段切
  竹本組太夫 一ッ家の段竹本大隅太夫、三味線(初代)豊津圃平
廿三年十一月一日ヨリ 大阪彦六座 大阪落城後日日譚成田五郎兵衛舘段切
  竹本組太夫(初代)豊澤団平作章の新浄瑠璃十三段続き伏見船宿若松屋六兵衛内の段豊竹新靱太夫、六条河原刑場の段竹本越太夫、兵庫津揚屋高砂楼の段竹本朝太夫、主田村真田大助隠家の段竹本大隅太夫、三味線(初代)豊澤団平 此興行大入続く
廿四年一月二日ヨリ 大阪彦六座 附物、恋女房染分手綱沓掛村の段切
  竹本組太夫
同年一月廿八日ヨリ 大阪彦六座 絵本太功記尼ケ崎の段切
  竹本組太夫 中豊竹此太夫、中国水責の段豊竹新靱太夫、紀州鷺の森の段竹本越太夫
同年三月一日ヨリ 大阪彦六座 弥陀本願三信記 堅田源左衛門内段切
  竹本組太夫 同櫓下太夫竹本組太夫、三味線豊澤団平、太夫竹本大隅太夫と変る 道行花の旅路(初代)豊澤団平勤らる
同年四月十五日ヨリ 大阪彦六座 忠孝義誉松ケ枝一心太助内の段切
  竹本組太夫(初代)豊澤団平作章新浄瑠璃二十六段続き、徳川家光、大久保彦左衛門松前屋五郎兵衛、一心太助を作せしものなり、原井役宅五郎兵衛吟味の段竹本越太夫浅草橋松前屋妻一心太助出逢の段豊竹新靱太夫、近藤東十郎屋敷原井切腹の段竹本朝太夫、景事大久保日光社参夢の段竹本田喜太夫、竹本芳太夫、竹本小隅太夫、竹本朝路太夫、竹本七々子太夫、竹本生島太夫、三味線シテ豊澤団平、ワキ豊澤松太郎、ツレ野澤吉弥(後六代目吉兵衛)、豊澤鶴助、豊澤小作(今仙糸)、豊澤松次郎(今力造)、豊澤松之助
同年五月一日ヨリ 大阪彦六座 菅原伝授手習鑑寺子屋の段切
  竹本組太夫 道明寺の段竹本越太夫、佐田村の段豊竹新靱太夫、配所の段竹本朝太夫
同年六月五日ヨリ 同 附物、増補八百屋献立八百屋の段切
  竹本組太夫 前狂言伽瓢先代萩埴生村の段豊竹此太夫、土橋の段豊竹新靱太夫、御殿の段(中)竹本七五三太夫、(切)竹本朝太夫
同年十月 向 一の谷嫩軍記熊谷陣家の段
  竹本組太夫 中竹本源太夫、林住家の段竹本越太夫 此時冬竹本組太夫、豊澤松太郎一座東京へ行き翌年帰る
廿五年五月十五日ヨリ 同 附物、桂川連理柵帯屋の段
  竹本組太夫
同年六月十六日ヨリ 同 附物、恋娘昔八丈城木屋の段
  竹本組太夫
同年十月 同 附物、閥取二代鑑秋津島内の段切
  竹本組太夫 中竹本山登太夫
同年十一月一日ヨリ 同 附物、出世太平記松下嘉平治住家段切
  竹本組太夫 中竹本十八太夫
同年十一月下旬ヨリ 同 附物、源平布引滝四段目音羽山の段切
  竹本組太夫
 
 明治二十六年竹本組太夫師と上京して各席へ出勤し、組太夫師帰阪後は一座の三枚目を勤めてゐた朝太夫師と東京へ止まり、一座を組織して三十有余年、東京の名物と称せらるゝに至つた。
 以後は諸賢のよく記憶せられる事であるから、これにてこの稿を終る事にしたい。