鶴澤 勇三

   
   
 
丈は初め勇三郎と名乗り彼の三代目と呼ばれし故二代目鶴澤勇造の門人なり、丈は素(も)と野州足利の産、家世々三味線を鬻ぎて業を為せるより幼けなくして三絃の道に心を寄せしが、故ありて日本橋区室町なる木屋に奉公することゝなり、拾八歳の頃まで同家に在り、後ち去つて勇造の門に投じ一意斯道を修練し、一度竹本宮子太夫を弾き、去る明治十八年の頃ろ竹本春子太夫の上京せし時、同太夫を弾くに際して、郎の一字を除き即ち勇三と改名したり、後ち筆太夫を暫く弾き西川伊三郎の一座に伍して諸国旅興行に赴き、帰京(かへり)て後ち新呂、要、柳等を弾き、目下国五郎の一座に出席して好評を伝へらる、
【義太夫雑誌28:14-15評判】