竹本 柳太夫

   
   
 
丈は始め竹本綱治太夫と呼ばれ久しく大隅太夫に随ひ常に竹澤弥七の絃(いと)にて坂地稲荷座に出勤せしが後ち大隅太夫が秘蔵の預り名前なる加賀太夫の名を、団平大隅両丈相談の上譲られしかば竹本加賀太夫と改めしが、其当時殆(あたか)も稲荷座の休席せしかば丈は断然出京を志したるが出京に臨みて大隅太夫、丈に告げて謂(いへ)るあり、元来足下の加賀太夫の名は我嘗て名乗るばかりし筈にて軽からざる名前なれば着京の上、端(はし)たなる場末の寄席に出る於ては加賀太夫とは名乗らざるこそ宜けれと、是を以て一昨明治廿九年三月始めて上京するや、丈は現名の柳太夫と名乗り更へ竹本織太夫の切前(もたれ)に据りて赤坂萬年亭に顕れしが丈が当地出席の始めなりき、丈は頗る技芸熱心にして斯道の為めには幾処の掛持をも辞せず、自体その咽(つゝ)饒(ゆたか)ならず、声にも余り富ず、寧ろ乏しき程なるにも拘らず世話物よりも時代物を語りて大に聴くへきものあるは蓋し熱注なるが故なるべし、その忠四判官切腹の如きは実に熱誠真に逼り斯くてこそ加賀太夫の名の価値(あたへ)有るべしと思はる、其他太十、弁慶の如きも亦是れ聞く可きものなり
【義太夫雑誌27:14評判】