豊竹 和国太夫

   
   
 
弘く寄席に出勤し義太夫を以て営業と為すもの多くは幼(いとけな)き時より斯道営業者の門に投し一意之に従ひ所謂黒人即ち商業人(せうばいにん)なるが常なれども、丈は是と趣きを異にし、始め竹本明石と呼ばれて素人義太夫なりしが、好嗜(すき)こそ物の上手にて追々修業を積むに随ひ芸道倍々(ます/\)進み、遂に断然営業者となりて明治二十一年の頃より素人名称を其儘に竹本明石太夫と名乗り各席に出勤したり、後豊竹和国翁の門に入り次で去る明治二十八年師の名を襲ふて三代目豊竹和国太夫と改名し、竹澤龍造の絃にて師和国翁、及び竹本筆太夫をスケとし同年十月より神田小川亭に初看牌を掲げぬ、後休席し修業の為めとて暫く地方を興行し帰京後鶴澤鶴助の糸にて再び出席する事となり、本年一月下より竹本織太夫と割看牌にて小川亭に顕はれ今尚ほ各席に好評を以て迎へられつゝ在り、丈は元来艶に富みたる芸品にて、時代ものよりは世話物に巧みなることは其得意なる、お賎礼三小磯原、小春治兵衛茶屋場などを聴きても明かなる所なり、尚先代御殿など能く師の風を写して巧みなるもの、是又得意中の得意の語物なりと聞く、丈は是れ目下男太夫中の花方幸ひに怠るならんば、天晴の名太夫となること蓋し遠きにあらざるべし
【義太夫雑誌29:16評判】