豊竹 和国翁
都下に和国を名に襲ふもの二名、翁は実にその初(はつ)代にして翁が全盛の期は今より二十数年以前にありて各席到る処に好評を以て迎へられ、綾瀬播磨の未だ寄席に盛んならざりし当時、義太夫席は一時和国ならされば客足を引かざる程なりし、後ち地方に趣き帰京後は専ら後進を導き、太夫の名を門人に譲りて後ちは自ら和国翁と名乗りぬ、翁は啻(たゞ)にその冴たる喉のみならず三絃に於て音〆め爽かに常に好評を博せるは世既に知る処なり、翁が門に出でゝ世に知られ居るもの太夫にては二代目和国(素人名御幸)三代目和国(素人名明石)女にては竹本素行、豊竹和寿吉等みな皆薫陶に育ちしものなり、以て如何に翁が名望の高きかをも推し得べきのみ
【義太夫雑誌38:19-20評判】
北三筋町五十六番地 横井市松事 竹本和国翁