竹本 東三

   
  
 
嬢は先代竹本駒助の実女(むすめ)にして母と倶に常に相州大磯に在しが嘗て竹本京枝の同地に至りし節、切(せつ)に駒助に乞ひ勧めて伴ひ帰京し栄玉と名乗りて一度出京せしが都合ありて一旦大磯に帰り再び出京せし以来は腰を東都に据へ東玉の門に入りて東三と改名したるの当時は彼の新睦派と云し小政一座に加はり銀座金沢亭に顕はれしが嬢が出席の始なりし、今や東玉の門下として出席中に知られを居るもの曩(さき)に一度東子を助けて是が絃を弾きたりしも今は純然弾語りとなりて目下友之助の切前(もたれ)たり、其語り物中好評なるは花川戸、恋十、鰻谷、大文字屋、百度平等多く世話物にあり
【義太夫雑誌 43:22-23評判】