竹本 土佐吉

 
姓は中島名は菊、芸名を竹本土佐吉といふ慶応元年九月を以て尾張国名古屋橘町に生る父は竹本成太夫と呼ばれて彼の七代目団十郎のチヨボ語りなり実(げに)や瓜の蔓に茄子は生ぬとの譬へに漏れず此父にして此娘(こ)あり、土佐吉十三歳の時初代竹本土佐吉に従ひ朝顔日記宿屋を学ぶ是れ其稽古初めなり其後ち伊勢音頭、逆櫓松、躄仇討、赤垣源蔵、阿漕浦平治その他数十段を学ぶ後ち又土佐太夫(今の播磨翁)に就て岩井風呂、布引四鏡山又助住家(またすけうち)等を習ふ翌年春父の芸名一字を把りて竹本小成(こなり)と名乗り初めて旅へ出で伊勢の津に於て妹背山馬士唄(まごうた)の段を語る是れ土佐吉が最初の出席なり、明治十三年十二月その師土佐吉の巴勝(はしよう)と改名するに及て其名を受け二代目土佐吉となり是より真打の位置に坐る翌年十月竹本燕玉(えんぎよく)と改名し名古屋千歳座に於て名弘め興行を為し初めて躄の仇討を語る翌々十六年桜の三月元木の名前に咲き帰り再び土佐吉の看牌(かんばん)を掲げ名古屋大洲福寿亭に於て例の躄の仇討を語る夫より又もや修業の為め旅興行を思ひ立ち豊橋、浜松、静岡、沼津、偖は大垣、岐阜、富山と旅から旅への興行に何時も当りを外さぬ人気、溢るゝ如き癸巳どし即ち廿六年三月初て花の吾妻へ上り京枝の一座に加はりて茅場町の宮松亭にて赤垣源蔵出立は是ぞ土佐吉が東京(とうけい)に於る初興行の初物語りなり、土佐吉常に人に謂らく凡そ芸人の高座に登るは恰も武士の戦場なれば其心して語るべしと果せる哉昨年霜月晦日の夜はしなく地震の折柄に土佐吉神田小川亭の高座に在りしが数多(すうた)の聴客(けんぶつ)の周章(あはて)噪ぐを驚きもせず自若として語り居たる膽力には何れも感じ合へりしと、土佐吉が語物中尤も得意にして十八番(おはこ)とも云ふべきものは彼の赤垣源蔵、岩井風呂、躄の仇討三人上戸等なりと言ふ
【義太夫雑誌2巻2:34土佐吉の伝】
 
下平右衛門町十二番地星野喜三郎方中嶋キク事 竹本土佐吉