竹本 殿太夫

   
   
 
一は竹本殿太夫と云ひ近来暫らく休席し中洲の自宅に閑居して涼しき川風に咽を養ひつゝ専ら素人を教ゆるもの。
丈は幼名を鶴澤勝吉と呼び十一歳の頃より斯道に志し彼の名人の聞えありし鶴澤清七の門に投じて三絃を学び傍ら文楽座に出勤せしが十七歳の頃より一と度中絶し後ち又斯業に復して鶴澤喜一郎と改名し三味線専門を以て再び文楽座に出席したり去る明治二十五年出京し、竹本文字太夫の弟子となり竹本殿太夫と改め、茲に一個の太夫と成り、後ち鶴澤文蔵の糸にて暫らく地方を興行廻(うちめぐ)り帰京後一昨年竹本相生太夫の一座に加はり切前(もたれ)に据り鶴澤鶴助の糸にて都下各席に興行せり、丈は元来鶴澤出の絃手(ひきて)なれば其語るに於ても克くその呼吸を察し女房役たる三味線引を苦しましむる抔の事なきより丈を亭主に持ちたる弦手(ひきて)は気骨の折るゝこと少なく一割都合よき幸福なるべし、其修むる所の語り物中、丈が最も得意とも謂ふべきは壺阪、阿漕、沼津等にて就中阿漕が浦平次住家の段の如きは頗る好評を博せるものなり
【義太夫雑誌33:11-12評判】
 
 
宮永喜一郎 慶応1.10 日本橋区中州河岸22【芸人名簿1915.5】