竹本 東玉
東玉(とうぎよく)姓は加藤名ははま嘉永四年十二月五日大阪道頓堀に生る幼名(おさなゝ)をやゑと呼ぶ父伝兵衛義太夫を好み素人仲間の好評を特たり芸名を東玉と云ふやゑ又之を好みしゆゑ親づから二三のサハリなど教へし事ありやゑ十六歳の時伝兵衛死去し其後家計の整はざるを以て、やゑは身を北新地に投し米吉と称して芸妓(げいこ)となりしが特(こと)の外評判よく一年を経ざる内同地の或る豪商某に従良(ねびき)され妾となるに至る此人亦義太夫を好み常に春太夫咲太夫を贔屓にせしかは春太夫を師とし稽古を初め大に其道を得たり其後某病死せし為め家に帰るも生計の方を知らされは更に夫を迎へ紙商(かみや)を営しが振はざりし故暫らうにして之を閉店し決然義太夫語りとなり亡父の名を継ぎ東玉と名乗初めて一枚看板を掲げたり時に廿二歳にて二段目の頭(かしら)所謂貧乏神の位置なりしも翌年の冬には大関を占むるに至れり元来大坂は義太夫の本場の事なれは東京とは異なり聴衆(きゝて)もなか/\巧みにて東京の如く新内(しんうち)くずしにて瞞着(ごまか)し金力に因て一枚看板に成り得る処にあらされは東玉の如き初めより一枚看板を掲げ聴衆も之を許せしは実に稀なりと云ふ二十三歳にして母に別れ夫よりは地方に出て就中長州にて好評を得東玉の為に一の寄席を新築せし程なりし後大坂に帰り人形浄瑠璃を興行し是亦大評判なりし(当時(そのころ)文楽座にては春太夫咲太夫染太夫の一座なりしも東玉には及ばさりしと)為に一年間打続けり此時廿六歳後首振を初めて発起し義太夫社会を驚かしたり明治十六年三月即ち三十五歳の時小政東代玉等を牽(ひき)ひ上京し諸席至る所好評を得たり同二十一年八月亡母の十七回忌に当れるを以て法会の為に帰坂し翌年十一月再び上京せしも演伎は心のまゝになして専ら門下に力を尽し老後の楽となせい今回の投票の名望家に其名を占めしは実に其当を得たるものなり
【義太夫雑誌4:17-18竹本東玉小伝】