竹本 東猿

   
   
 
年々大坂若しくは阿波、名古屋の各地より上京(のぼり)来る女太夫の旨く東都の人気に適ひて好評の花を咲かすものは殆んど十中の一人も数へ難き位にして是を近例に徴するも僅に長広と目下出席の竹本東猿嬢に於て見るべきなり、要するに是れ東京は艶好みなりと自信しサワリ客を当込にして来るよりの結果のみ東京の耳も年々歳々肥来りて又綾の助を喜ふ時代の耳にあらず大いに義太夫の真趣を味はひ寂を賞し詞を論ずる真個に浄瑠璃の価値(あたへ)を評する目下の人気に適ひたる嬢の芸品、之を素行小政の上に置き小清と孰れかと評するものあるも無理ならず、大物、時代物さては生世話の曲(もの)に至る迄其人物の性格を語り分け情を語るには巧みなるは蓋し好評ある所以か今例に依りて嬢が技芸の略歴を記さん、嬢は大阪の出生にて幼稚(いとけなき)より此道を嗜み強ひて両親に乞ふて鶴澤金二の門に入りて始めて斯道の階梯に就き、十三四歳の頃其当時浪速に好評ありし竹本東寿の弟子となり師の一字を受けて東猿と名乗れり以来一意芸道に身を委ね、其間先代長子太夫を始め越(今住太夫)生島の両太夫及び鶴澤仙昇等に従ひて学びぬ、十年前一度招きに応じて出京し小政の一座に竹本東圓と名乗りて顕はれしも帰阪を促さるゝ事頻りにして間もなく帰阪し常に阪地の宝席に出勤し居たりしが這回(このたび)久し振りにて出京するに至れり、嬢が語物中十八番物は暫く措き尤も世の好評を博しつゝあるは壺坂にして嘗て阪地各席に之を語りて大入ならざるはなしと嬢は十九歳の時より看板掲げ今に至て十余年、門人を有する五十八人の多きに及ふと云ふ
【義太夫雑誌43:21-22評判】