竹本 照玉
今や全国女義太夫界の泰山北斗と仰がれ居る竹本照玉老嬢は彼の東玉、春玉と倶に日本三玉の一人にして其技芸の批評は今更管々しきを要せず寂ありて艶にも乏しからぬ自在の咽(のど)に語り去り語り来る妙腕一たび其十八番物なる菅四、紙治、沓掛、阿漕、蘆屋等を聴くものは永く其の旨味を忘れ得ず今嬢が技芸経歴の一班を聞けるまゝ左に之を紹介せん
嬢は齢十一にして始めて野澤吉兵衛の弟子となり翌年十二歳の頃より照吉と名乗りて阿弥陀が池の定席(今は無し)なる先代鶴吉の一座へ出勤せり、尚ほ吉兵衛に修むるの傍ら鶴澤清七及び竹本染太夫に修きて学ぶ所ありき、二十六歳にして竹本照玉と改名し真打の看牌を挙げぬ、去る廿八年中竹本呂昇等と倶に都保美連なる阪地女義の団体を組織し是がドッサリに据られ以て今に至れり、嬢は寔に浪華女義界の総理なる哉
【義太夫雑誌43:21評判】