竹本 多門太夫

   
   
 
目今東都の男太夫社会出席の太夫に乏しく僅かに指を屈して数へる能ふるが中に、際立ちに美音の艶喉(つや)に能く斯の寂寞なる男太夫界を賑はすもの、朝太夫の外僅に多門太夫あるのみ、丈は素(もと)兵庫の酒造家なるが今を距る三十有余年前文久元年竹本春太夫、豊澤団平の一座同地に趣きし折柄、予て懇意なりける池田某の紹介にて春太夫の門に入り其節お目見得として先代萩御殿を語りたるに師も其美音なるに感じたりと後ち更めて同師より団平に依頼し多門太夫と名乗りて団平の内弟子たること五六年、続て大江橋の人形芝居に出勤し後ち出京し、猿若町の文楽座に於て朝顔日記摩耶ヶ嶽の段を語りて頗る喝采を博したりと、是より先師の春太夫没後は今の越路太夫の預る所となり目下同門中にては第一の古顔なりとぞ、されば其語り振りといへども故春太夫と越路とを折衷せし趣きあり、丈が語り物中尤も先師の面影を写したるものは先代御殿、中将姫、鳴門、太十、合邦、等語り来つて漫ろに先師を想ひ出さしむるものあり
【義太夫雑誌41:20評判】