豊竹 昇之助

   
   
 
大八、春子に優るとも劣るなき年少女義にして今や阪地に噂高く、修業は豊竹呂昇の門に育ちたる好固の乙女なりと、上京の日近きに在りと言へば嬢が芸評等は出席を待て紹介すべし
【義太夫雑誌54:16面影抄】
 
前号の口絵に掲げたる豊竹昇之助に就て、阪地通信員より同人の小歴を送り越したれば、遅まきながら、前号の姿影と照し見るも又興なきにあらずと思へば取敢ず左に掲ぐることゝせり

父は貴谷菊次郎当時大阪西区靱、靱館の席主なり、豊竹呂昇の一字を得て昇之助と号く年十歳、友松、時太夫三平等を師となせり一日岸姫の来国光とやらのと語る人と来国光のと語る人とありやらは如何なる訳なりやと姉昇菊に聴たるを父は襖外に居て舌を巻たる事あり稽古の途次既に黄昏なるに悠々歩を移して急がず師の教ゑたる曲中の詞を黙語すと既に十八段を習ひ得て妙節巧調毎夜聴客を感ぜしむ是れ実に阪地の第一品、
【義太夫雑誌55:11面影抄】
 
参考 昇菊と昇之助 趣味3巻3号
 
 
貴谷よね 明治21.10.10 赤坂区新2-15【芸人名簿1915.5】