竹本 住之助
初代住之助は斯芸界の鳳雛と呼ばれて一時彼の綾之助と互角の人気を有したりしも惜いかな一朝病魔に犯され生先長き莟の花の開くも待たで曩(さき)に秋田の露と消へしが、其芳ばしき名を承け襲ぎて、二代目となりたる嬢は、素(もと)住登と呼ばれて初代と同じく竹本小住の門に育ちて親しく同師の教を享けしが伎芸の点は未だ齢の進まぬことゝて時に出来不出来あるも、其熱心に至りては、多く其比を見ざる程にて、此年二十歳の芳紀(としごろ)といひ化粧(けしやう)けはひに浮身を窶すが花方の常なるにも拘らず、芸道修業の他、更に余念もなく、師の小住を神とも親とも尊ひ、殊に不幸の裡に生長(ひとゝな)りしものから養父母に仕へて孝養の行ひは芸外に属せる事ながら、亦是れ他の好(よき)模範(てほん)とも謂ふべからん、年十三小住の門に通ひ初めてより以来七年怠らぬ勉強の功は漸くに顕はれ昨年十月改名して一と度師と共に新潟地方に赴き帰京後本年一月師の絃に籍(よ)りて麹町万長亭に真打の初看牌を揚げ、以来各席を巡りて拍手の喝采を博するが中にも別(わ)けて好評なる語物は弁慶上使、仙代御殿、玉藻前三段目等にて、時鳥殺し、鉄山舘など前者に次ぐものとす、嬢は年歯二十、前途春秋に富むあり、加ふるに平素の熱心を以てす折角励みて怠るなくんば天晴の芸人となる事蓋し遠きにあらざる可し
【義太夫雑誌34:10-11評判】